第20話 通すなら僕を
しん、と静まった大聖堂に、かつかつと靴音が響いた。
神官たちが、さっと道をあける。
現れたのは、いつも最奥にいるという、位の高い神官だった。金の縁取りの、重たそうな祭服。あのエルフリーデさまですら、その人の前ではすっと目を伏せた。
その人は、まっ白なノラちゃんと黒い桶を、ちらりと見た。それだけで、すべてを察したみたいだった。
エルフリーデさまの横顔が、こわばっていた。
わたしを並ぶ聖女にと言った同じ口が、いまはきゅっと結ばれている。
その神官さまを見て、わたしは、ぞくりとした。
黒い。
今まで見た、どんな汚れよりも。エルフリーデさまのくすみより、ノラちゃんのいちばん奥よりも、ずっと。
全身から、煮詰めたみたいに濃い澱が、ねっとりとにじみ出ている。
……こわい。
いつもなら、こんな大物を前にしたら、指がうずいて仕方ないはずなのに。
その黒さは、うずうずより先に、ぞっとするものを連れてきた。
「その娘を、捕らえなさい」
神官の、しずかな声だった。怒鳴るより、ずっとこわい。
まわりの衛士が、いっせいに動いた。
わたしは、ぽかんとしていた。
捕らえる。わたしを。なんで。
考えるより早く、目の前に背中が割りこんだ。
ユーリさんだった。
剣を抜いて、衛士たちとわたしのあいだに立ちはだかっている。
「この人の護衛は、僕が拝命いたしました。手を出すなら、まず僕を通してください」
「ふん、若造が。教会に楯突く気か?」
声は、震えていた。
でも、剣先はまっすぐだった。
衛士のひとりが、面倒そうに斬りかかる。ユーリさんは、それを鋭く弾き返した。
いつも転んでばかりの、あの頼りない人と同じとは思えない。
ユーリさん、ちゃんと騎士だったんだ。
衛士がふたり三人と増えても、剣で受けてはいなし、じりじり押し返す。三人がかりの先輩に勝った、というのは嘘じゃなかった。
でも、相手は次々とわいてくる。
肩を浅く斬られ、血が滴っても、ユーリさんは退かなかった。
「サボンさんは、ただ汚れを落としただけだ……! 罪に問われる、いわれはない……!」
マリーが、ノラちゃんとわたしを背中にかばった。
子どもたちが、おびえて身を寄せ合う。
もうだめか——そう思った、そのとき。
「お待ちください」
凛とした声が、割って入った。
エルフリーデさまだった。
位の高い神官の前に進み出て、ふかぶかと頭を下げる。
「この不始末は、わたしの監督不行き届きです。……どうか、その娘はわたしの専属として預からせてください。二度と、勝手はさせません」
神官は、しばらくエルフリーデさまを見おろしていた。
それから、ふん、と鼻を鳴らす。
「……いいだろう。お前の手駒だ。お前が、責任を持て」
手駒、って言った。さっき、ノラちゃんが“器”って呼ばれたのと、なんだかおなじだ。
衛士たちが、しぶしぶ剣を引いた。
エルフリーデさまが、ちいさく息を吐く。
助けてくれた、のかもしれない。
でも、その顔はちっとも嬉しそうじゃなかった。守るような、閉じこめるような。やっぱり、よく分からない顔だ。
助かった、らしい。
でも、わたしの目は、ユーリさんの肩に釘づけだった。
血が、流れている。
いつもわたしが見るのは、もう乾いた汚れだ。とっくに終わった事件の、跡ばかり。
でも、これはちがう。
いま、目の前で。この人の体から、ぽたぽたとこぼれている。
……わたしの、せいだ。
頭の中が、まっ白になった。
「ユーリさん……っ。血が、血が出てる。どうしよう」
「サ、サボン殿? おちついて——」
「おちつけません! 布、どこ……!」
わたしは、本気でうろたえていた。
汚れのことなら、何だって分かるのに。
目の前で人が傷つくのには、どうしていいか、ぜんぜん分からない。
ユーリさんが、ふっと笑った。
「だいじょうぶ。これくらい、騎士にはかすり傷です。あなたを守れてよかった」
……ありがとう、と言うのが、やっとだった。
ユーリさんの顔が、耳まで赤くなった。
気づくと、ノラちゃんが、わたしの裾をきゅっと握っていた。
「おねえちゃん……」
か細い声。わたしよりずっと小さい子。不安に決まってる。わたしは、その小さな手を握りかえした。
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その夜。
マリーが、声をひそめて言った。
「サボン。ここ、絶対にまともじゃない。あの子たちのことも、“器”がどうのって話も。……わたし、ちょっと調べてみる」
「マリー。あんまり、危ないことは」
「だいじょうぶ。世話係は、どこにでも出入りできるんだから」
マリーの目は、本気だった。
わたしには、まだ何も分かっていなかった。
ただ、ノラちゃんの、あの軽くなった笑顔だけは。
もう二度と、黒く塗りつぶさせない。
それだけは、決めていた。
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翌朝。
肩に布を巻いたユーリさんを見て、わたしは、はっと思い出した。
「あ。ユーリさん。昨日の血、乾く前に洗わせてもらえばよかった……。血の汚れ、早い方が落ちやすいんですよ」
「サボンさん…………。それ、僕の血ですよ」
マリーが、こらえきれずに吹き出した。
ノラちゃんも、つられてちょっとだけ笑う。
その笑い声は、この大聖堂で聞いた、はじめてのあたたかい音だった。




