第19話 この子の汚れ、落ちましたね
わたしは、腰の道具袋をぱっと開いた。
聖女付きになってからも、洗濯道具だけは肌身離さず持っている。着替えは忘れても、これは忘れない。
小瓶のサボン水。やわらかい布。岩塩のひと袋。それから、ばあちゃん仕込みの根気。
「な、なにをするんです! おやめなさい!」
侍女が、声を裏返した。
「だいじょうぶ。痛くしません。すぐ、きれいになりますから」
わたしは、サボン水をひとしずく柔らかい布へ落とした。
侍女はひっと息を呑むと、廊下へ駆け出していった。たぶん、えらい人を呼びに行ったんだろう。
マリーが、わたしの背中でぐっと身構えた。ユーリさんも、入口のほうへ目をくばっている。
「サボン。やるなら、急いで」
「うん」
ノラちゃんの腕を、そっと取った。
……そこで、手が止まった。
いつもは、布だ。布なら、強くこすっても煮ても、きつい薬を効かせてもいい。でも、これは生きている子の、肌だ。
どうすればいいんだろう。こんなの、やったことがない。
その前に、と思った。
ノラちゃんに使う前に、まず、自分の手の甲で確かめる。
いつもの調子のサボン水を、ちょんと。すりこんで、しばらく待つ。
……あ。じわっと、ひりついてきた。手の甲が、うっすら赤い。
だめだ。いつものやり方は、肌には強すぎる。子どもに使ったら、ひりひりしてかわいそうだ。
布なら平気でも、生きた肌は、ぜんぜんちがう。さきに自分で試しておいて、よかった。
わたしは、頭の中で配合を組みなおした。
果汁は、抜く。塩も、うんと薄める。きつさを引いたぶんは、手数で補うしかない。やさしく、ゆっくり、何十回も。
……正直、めんどくさい。布の、何倍も手間がかかる。
でも、めんどくさい汚れほど、落ちたときは気持ちいい。それだけは、知っている。
組みなおした水を、もう一度、自分の手の甲で。
今度は、ひりつかない。……うん、これなら、だいじょうぶ。
わたしは、あらためて、ノラちゃんの腕を取った。
まずは、いちばん表から。脂と埃の、ぬるりとした膜。撫でるように拭う。ごしごしはしない。子どもの肌は、薄いから。
表が取れると、その下から、もっと頑固なのが顔を出す。酒の染み。古い血の、こびりつき。それに、たくさんのお金を握った手の、金くさいにおい。そういうものを感じるくすみだ。肌の上だと、布よりずっと、しぶとい。
ふいに、鼻の奥が、つんとした。
脂でも、酒でもない。もっと奥に、嗅ぎおぼえのあるにおいがある。澱んで重たくて、こすっても薬を効かせても、びくともしない。
……これ。聖女さまのくすみと、おなじにおいだ。
だったら、やることは決まってる。サボン水を、芯までたっぷり。黒いのを、肌から水のほうへ引っぱり出す。
焦るんじゃないよ。汚れには、汚れの言い分がある。よく聞いて、ほどいておやり。
ローズばあちゃんの声が、手の中によみがえる。
一枚、また一枚。薄皮を剥ぐみたいに、層をめくっていく。水が黒くなりすぎて、何度も桶を替えた。
ノラちゃんは、だんだん力を抜いていった。最初みたいに、びくっとはしなくなる。
いつのまにか、ほかの子たちも、遠巻きに見ていた。みんな、息をつめて。
どれくらい、経っただろう。
ふっ、と。
手の中の腕から、黒い澱がすうっと水に溶け出した。
いちばん奥の、いちばん重い汚れ。それが、ほどけた。
桶の水が、まっ黒になった。
かわりに、ノラちゃんの腕が白くなっていた。
くすみが、嘘みたいに剥がれ落ちていく。あらわれたのは、ふつうの、子どもの肌。すこし日に焼けた、あたたかい色だ。
ノラちゃんが、自分の腕をまじまじと見た。
両手で、そうっと、頬にさわる。
それから、わたしを見た。
くしゃ、と顔が歪んで。ぽろぽろ、涙がこぼれた。
「……かる、い。からだが、かるいよ」
はじめて聞く、その子のふつうの声だった。
その声に、遠巻きの子たちが、ざわっと揺れた。
白くなったノラちゃんの腕を、食い入るように見ている。だれかが、ごくりと唾を呑んだ。おそるおそる、自分の手のひらを見おろす子もいる。
その目に、見たことのない色が、ぽつりと灯った。……たぶん、あれは。希望、っていうやつだ。
よかった。
「落ちない汚れは、ございません」
とびきり、得意な気分だった。でも、その気分は長く続かなかった。
廊下の向こうから、大勢の足音がばたばた近づいてくる。
神官たちだ。さっきの侍女も、青い顔で戻ってきた。
先頭の神官が、まっ黒い桶の水を見て、悲鳴みたいな声をあげた。
「な……っ。あれだけ溜めた“器”を、よりによって——」
器。
いまこの人、ノラちゃんのことを、そう呼ばなかった?
意味は、よく分からない。でも、その言い方は、なんだかいやだった。
聞き返すより早く、人垣が割れた。
エルフリーデさまが、現れた。
わたしと、まっ白のノラちゃんを見る。それから、黒くなった桶の水を。
その顔から、血の気が引いていく。
でも、その目の奥で、なにかがちらっと揺れた。
こわがっているような。それでいて、すがるような。
わたしは、にこにこ報告した。
「聖女さま。この子の汚れ、ぜんぶ落ちました。ね、こんなに白く」
しん、と。
大聖堂が、凍りついた。
誰も、動かない。動けない。
マリーが、わたしの腕を、痛いくらいに握った。震えている。
ユーリさんは、いつのまにかわたしの前に立っていた。腰の剣に手をかけて、神官たちとにらみあっている。
なのに、わたしには、やっぱり分からなかった。
ただ汚れを落としただけなのに。
どうしてみんな、こんなに——こわい顔をしているんだろう。




