第15話 生きてれば汚れます
サボン水を渡してから、二日後。
さっそく、お呼びがかかった。約束どおり、ふたりだけで。
聖女さまのお部屋は、大聖堂の、もっと奥にあった。
この前の広間より、さらに先。神官さんに連れられて、細い廊下をいくつも曲がる。奥へ進むほど、人の気配が減っていく。明かりも、ひとつ、またひとつ間遠になる。
ふと見ると、廊下のすみに、うっすら埃がたまっていた。掃除の手も、こんな奥までは回りきらないらしい。……いちばん清らかなはずの場所なのに、意外と、行き届いてないんだ。
いちばん奥の、地味な扉の前で、神官さんは足を止めた。
「ここから先は、おひとりで。……くれぐれも、ご無礼のなきよう」
重苦しいような空気。でも、わたしは平気だった。これから、あのくすみを近くで見られるのだから。
重い扉が、ギイ……と閉まる。
なかは、思っていたのと、ちがった。
この前みたいな、まばゆい白と金じゃない。物は少なく、灯りもやわらかい。聖女さまは、ひとり、長椅子に腰かけていた。侍女も、神官もいない。
お香の匂いも、今日はしない。きらきらした飾りも、最小限。まるで、見られたくないものを、ぜんぶ下げてしまったみたいに。
「来てくれて、うれしいわ。……ふたりだけのほうがいい。落ちついて話せるでしょう」
わたしはお辞儀もそこそこに、もう目を奪われていた。
近い。やっと、近くで見られる。
あの拝謁のときは、遠目だった。それでも芯まで澱んでいるのは分かった。でも、こうして間近で視ると――すごい。
くすみは、一枚じゃなかった。何層も、何層もある。古い澱の上に、また新しい澱。そのまた上に、もっと新しいの。長いあいだ、ずっと、塗り重ねるみたいに溜めこんできたんだ。いちばん下のほうは、もう、いつのものか分からないくらい固くこびりついている。
魔物の血の澱とも、ちがう。あれはどろっと生々しかった。これは、もっと乾いて、深い。布でいうなら――何年も洗っていない、汚れが芯で結晶になった、あの感じ。
胸もとが、いちばん濃い。ちょうど、心の臓のあたり。そこから肩へ、裾へと、滲むように広がっている。
……どこから手をつけよう。考えるだけで、指がうずうずした。
ふと、目に留まる。
その白い手の、手首のところ。そこだけ、くすみがすこし薄くなっているのに気づいた。煤けた灰色のなかに、ぽつんと、白い肌が顔を出している。
……あ。サボン水、使ってくれたんだ。
じわっと、嬉しさがこみあげた。効いた。ほんとに、効いたんだ。あの古い布きれでも、ユーリさんの当て布でもなく――本物の、聖女さまの瘴気に。
うれしくて、つい、声がはずんだ。
「サボン水、どうでした? ちょっとは抜けました?」
聖女さまの指がぴくりとした。
「……ええ。どんな聖水でも、落ちなかったのに。たった一晩で薄くなった」
うれしくないんですか、と聞きそうになってやめた。
聖女さまの声はよろこびじゃない。もっと、こわいものに触れたときの声だ。
ふふ、と聖女さまは笑った。でも、その目は笑っていない。
「……おそろしい子。あなた、いったい何者なの」
わたしが答えるより先に、聖女さまはことばを継いだ。声を、すっと低くして。
「……ねえ。わたしの耳にもね、入っているのよ」
聖女さまは、ひとつずつ、数えあげるように言った。
「夜会で毒を盛られた、さる奥さま。あのドレスから毒を取り出したのは、貴女でしょう。出納方の帳簿のことも、消えた調達長のことも。……ばらばらの『黒いもの』を、知らないまま手繰り寄せているのが、貴女」
わたしには、よく分からなかった。
ただ、汚れを落としていただけだ。誰の、なんのためかなんて、考えもせずに。
「この王宮で、それがどれだけ危ういことか。……貴女、ほんとうになんにも分かっていないのね。だから、こわい。あなたみたいな子が、いちばん」
こわい、と言われても。
でも、わたしには。目の前の人が、ただ苦しそうにしか見えなかった。
何者と言われても、わたしはただの洗濯婦だ。
「うーん。べつに、何者でもないですよ。汚れてるものをきれいにするだけで」
それから、ばあちゃんの言葉をふと思い出した。
「ローズばあちゃんが言ってました。人は生きてれば、かならず汚すし汚れる。でも、それをちゃんと落とす。また汚しても平気なようにしておく。……それが、一生懸命に生きるってことだって」
聖女さまはなにも言わず、わたしを見ていた。
ずっと我慢していたものを、ふいにつつかれたみたいな顔で。
「だから、聖女さまだって。生きてれば、お洗濯物くらい出ますよ」
わたしは、にっと笑ってみせた。
「瘴気なんて、溜まってたっていいんです。落とせばいいんだから」
しんとした。
聖女さまはぽかんと口を開けた。あの完璧な微笑みが、はがれて。
それから、がっくりと肩を落とした。
「……じゃあ、なんなの。あなた、そこまで言っておいて」
「?」
「自分の身なりは、どうしてそんなにどうでもいいわけ……!?」
わたしの寝癖としわしわの裾を、聖女さまがびしっと指さした。
「あー……。他人の汚れは燃えるんですけど。自分のは、なんかどうでも。今日はリリが……身なりを整えてくれる友達が不在で。マリーもお使い頼まれて居なかったので、そのまま来ちゃったんですよ」
「……最初、あなただと分からなかったわよ。この前は、あんなに着飾っていたじゃない」
聖女さまが頭を抱えた。
でも。
頭を抱えたまま、声が低くなった。
「……ねえ。ひとつ、教えてあげる。極位のスキルはね、この世に生まれた者には宿らない。……転生者にしか、ね」
てんせいしゃ。
聞いたことのない言葉だった。
「あなたはどこか妙なの。向こうで生きてきた感じが、薄い」
わたしは首をかしげた。
そんなこと言われても、心当たりなんてない。
……いや。ひとつだけ、ある。
ときどき見る、変な夢。
白くてぴかぴか光る、薄い板。長い蛇みたいな乗り物。馬より早く走る鉄の箱。だれかのあったかい手。えらい人みたいなのに、わたしがなにかを駄々こねてる夢。どれも意味はわからない。
でも、いちばんよく見るのは。
「夢なら、たまに。……白い四角い箱が、ごうんごうん回ってるんです。なかでお洗濯物がぐるぐる」
聖女さまが顔を上げた。
しばらくぽかんとして。それから――。
「それ洗濯機ッ!!!」
ものすごい勢いだった。
聖女さまが立ちあがって叫んでいた。
あの清らかさのかたまりみたいな人が、目をまんまるにして。
「洗濯機よ、洗濯機! ボタンひとつで、ぜんぶ勝手にやってくれるの。水も洗剤も、自動で。ぐるぐる回して、脱水まで! 干すだけでいいのよ。あんなに便利なもの、ほかにないわ……!」
「は、はあ……そんな便利なものがあるんですね……?」
「ねえ、夢のなかのそれ。上から入れる形だった? それとも、前に丸い窓があった?」
「えっと……前に、丸い窓がありました」
「ドラム式! いいなあ、うらやましい……うちの実家のは縦型だったわ」
聖女さまは、両手をにぎって、うっとりと宙を見ていた。
……なんだろう。すごく、早口だ。
いつもの、鈴を転がすみたいな澄ました声じゃない。年相応の、ただの女の子みたいな声。
「……あ」
言ってしまってから、聖女さまは自分の口を手で押さえた。
へんな間があいた。みるみる、耳まで赤くなっていく。
それから聖女さまは、こらえきれないというふうにちいさく噴き出した。
わらった顔は、やっぱり普通の女の子みたいだった。黒いものを抱えた人とは思えないくらい。
「……ひさしぶりに出したわ。こんな、大きな声」
ひとしきり笑って、聖女さまは目もとをぬぐった。
その横顔から、はりつめた感じがふっと抜けていた。
聖女さまは、それから、ためらいがちに聞いてきた。
「……ねえ。貴女は、いつからいるの? ……うーん、ちがうわね。いつまで、向こうにいたの?」
向こう……。たぶん、夢の中の世界のことだとは分かる。けれど、それ以上のことは分からない。
「……分からないです。わたし、捨て子で。洗濯婦のローズばあちゃんに拾われました。それからずっと、わたしも洗濯婦です」
聖女さまは、すこし、目を見ひらいた。
それから、まぶしいものでも見るような顔になった。
「……わたしもね。いたのよ。あなたと、おなじ世界に」
え、と思った。
聖女さまの声が、すこし遠く聞こえた。
「だからね。あなたが『洗濯聖女』だと聞いたとき、とうとう本物が来たんだと思ったの。真っ白なワンピースに背筋の伸びた女の子。物怖じしない態度……わたしには本来ない物ばかりだわ」
本物。
どういう意味か、聞き返せなかった。
「わたしね、本当は祓えないの。穢れを、よそへ〈転嫁〉しているだけ。聖女なんて呼ばれているけれど……。浄化ができない、まがいものなのよ」
どうして、そんな大事なことをわたしに。
聖女さまの指が、胸もとのいちばん黒いあたりをそっと撫でた。
「最初はね。わたしも、あなたみたいに思っていた。穢れが溜まっても、頑張って払えればいいって。……でも、いつのまにか。払うより、隠すほうがうまくなっていたの」
その意味は、半分も分からなかった。
でも、エルフリーデさまがどれだけ苦しいのか。それだけは、なんとなく伝わってきた。
ふいに、聖女さまが立ちあがった。
肩の留め具に手をかけて、純白の祭服を、ためらいもなく滑り落とす。きらきらの装身具も、ひとつ、またひとつと外していく。
最後に残ったのは、薄い肌着が一枚きり。
……息を、のんだ。
祭服に隠されていたぶんが、ぜんぶ視えてしまった。肩。腕。鎖骨のくぼみ。露わになった肌の、すみずみまで。あの煤けた灰色が、芯から、びっしりと染みている。布で隠れていたところほど、濃い。もっと、深い。
聖女さまは、両腕を、すこしだけひろげた。隠すものを、ぜんぶ手放すみたいに。
「ね。……こんなにくすんでても」
その声は、震えていた。
「いつかは、落ちると思う?」
すがるような、目だった。
わたしは、そのくすみを、じっと見た。肩から、指の先まで。いちばん濃い、胸のあたりまで。
……手強い。とんでもなく、手強い。何年も、何層も、溜めて固めたやつだ。
でも。
だからつい、いつものひとことが、口をついて出た。
「落ちない汚れは、ございません。……聖女さまの、それも」
気が付けば、わたしはエルフリーデさまの近くにまで寄って両手を握っていた。
聖女さまは、笑わなかった。そのまま顔を伏せる。
頬を伝って、ぽたりとなにかが落ちた。
……黒い。
わたしの目には、粘っこい墨みたいな黒に視えた。とろりと糸を引いて、床に落ちて、にぶく光った。
一瞬、幻覚かと思った。こんなに綺麗な人から、そんなものが出るなんて。
でも、すぐに分かった。
涙。
ただの涙が、溜めこんだ黒いものを吸って、あんな色になっている。隠しつづけたものが、涙にまじって、こぼれ出ていた。
気づいたら、わたしは、言っていた。
「……あの。サボン水、もっとたくさん作りましょうか。お風呂にザブザブ入れて、使えるやつ」
あの黒い雫も、ぜんぶ、落としてあげたくて。
その緊張も、苦しみも、よく分からないまま。ただ、ほうっておけなくて。
そう、言ってしまっていた。




