第14話 落としちゃっていいんですか!?
次の朝、わたしはいつもどおり寝坊寸前だった。
マリーに引きずり起こされて洗濯場に行くと、なんだか空気がへんだった。
みんながわたしを見て、こそこそ話している。きのうまでの「聖女さま直々だなんて!」っていう、きらきらした目とは、まるでちがう。
「ねえ、聞いた? サボンちゃん、聖女さまに『穢れてる』って言っちゃったらしいわよ」
「うそ。あの清らかなエルフリーデ様に?」
「しかも、『聖水よりよく効くお水を作ります』って言ったらしいの」
「まあ、こわい。ただじゃ済まないわよ、そんなの」
その横で、いつもまとめて干してくれる先輩が、ぴしゃりと割って入った。
「やめときなって、無責任な噂は。この子は親切で言っただけだよ。ねえ、サボンちゃん?」
「え? はい。……たぶん」
たぶん、としか言えなかった。
食堂へ行く途中、すれちがう侍女やお針子が、口もとを隠してこそこそ見てくる。
でも、当のわたしは。
昨日のあのくすみのことで、頭がいっぱいだった。
目を閉じれば、すぐに浮かぶ。あの純白の祭服に、うっすら刷いたみたいな灰色。肩から胸、裾の奥まで。表面じゃない。布の芯の、もっと奥の奥まで、みっちり沈みこんでいた。
あんなに深く溜めこんだ瘴気は、見たことがない。ふつうの汚れなら、ひと目で『これはこう落とす』って手順が浮かぶのに。あれは、視れば視るほど、底が見えなかった。
どうやったら、きれいに抜けるだろう。
考えるだけで、手のひらが、じんと熱くなる。あの灰色が、すうっと退いて、まっさらな白が顔を出す——その瞬間を想像しただけで。
……ああ、うずうずする。落としたい。早く、落としたい。
お洗濯がひととおり落ち着いた昼下がり。
ドロテアさんが、そんなわたしの額を指でつついた。
「いやな予感がするね。あんた、その顔はよくないよ」
「……わたし、聖女さまを怒らせてますかね? 親切で言ったんですけど」
「……その『親切』が、いちばんおっかないんだよ」
ドロテアさんは、ちらりと入口のほうを気にして、声を落とした。
「上の人らはね。ぴかぴかのものを見ると、どっちかなんだよ。……欲しがるか、邪魔に思うか」
わたしには、ぴんと来なかった。
マリーがよこで、何度もうなずいた。リリはもう半分、泣きそうな顔だ。
洗濯場の入口がにわかにざわついた。
教会の使者だ。昨日の、あの若い神官さん。すました顔で、まっすぐこっちへ来る。
「洗濯聖女どのに、聖女さまよりご用命です」
しん、となる。
「あ。洗濯聖女って、もう公式の名前みたいな感じなんだ……?」
「……サボン。今は、静かにしてて」
マリーが、ちいさく耳打ちしてくる。
神官さんは、こほんとひとつ咳ばらいをすると、もったいぶって巻物を広げた。
「過日申しつけた『お水』。あれを調えて献上せよ、とのこと。……くれぐれも、心して励むように」
まわりが、サァーッと青ざめた。
聖女さまに献上。失敗したら、どうなることか。みんな、わたしの代わりに震えあがっている。
わたしはというと。ぱあっと顔が明るくなるのが、自分でも分かった。気づいたら、神官さんのほうへ一歩、ふみ出していた。
「つくっていいんですか! あの瘴気を、落とすお水!」
「は……? あ、ああ。聖女さまの、ご所望ゆえ」
「やったーーーっ!」
思わず、声が出た。
聖女さまはこっちが願ったって会えない相手だ。それくらい分かる。それが向こうから、『落としてくれ』と言ってきた。こんなの、腕が鳴るどころじゃない。指の先まで、ぜんぶ鳴っている。
あのくすみを、この手でぜんぶ……!
「神官さん、ありがとうございます! わたし、ぜったいきれいにしてみせます!」
「は、はあ……。熱心でよろしい……。で、では、よしなに……」
神官さんは、にこにこ詰め寄るわたしと、青ざめた周りを見くらべて。ちょっと気味悪そうな顔で、そそくさと帰っていった。
マリーが頭を抱えた。リリが「うわぁ……」と、両手で顔を覆う。
「……ねえリリ。これ、止められると思う?」
「無理だね。あの目、見ろよ。汚れのことしか考えてない目だ」
「だよね……」
ふたりが、そろってため息をついた。
わたしはもうそれ以降、ふたりの声なんて耳に入っていなかった。
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お水を仕上げる期日は、十日後と言いわたされた。次の大きなお勤めで、聖女さまがあの祭服をお召しになる前まで。
たっぷりあるようでいて、わたしには心もとない。なにせ、見本がない。あんなくすみ、ためしに作ってためせる相手なんて、どこにもいないのだから。
しかも、だ。
「言っとくけどね、サボン。聖女さまのお達しは大切だけれど、『お水』にかかりきりはだめだよ。あんたの洗い場の山も、ちゃんと回しな」
ドロテアさんに、くぎを刺された。
そりゃそうだ。わたしは今は王宮の洗濯婦。毎日運ばれてくる山は、待ってくれない。
というわけで、わたしのお水づくりは、いつもの洗濯の合間に進めることになった。
まずは、見立てから。
瘴気はふつうの汚れとちがう。血や油みたいに、布の表にのっているわけじゃない。もっと奥、繊維の芯に澱みたいに沈んでいる。
昔、ガロさんの魔物の血を落としたときとおなじだ。あのときは岩塩を溶かした湯に漬けこんだ。塩が、血にひそんだ魔素をじりじり追い出してくれる。
魔素っていうのは、魔物のなかにある、生の魔力みたいなもの。それが溜まって、澱んで、悪さをするようになったのが――瘴気だ。呼び名はちがっても、もとは、おなじもの。
だったら、瘴気の芯だって、塩で抜けるはずだ。
……それにしても、と思う。
瘴気は、魔物だけのものじゃない。人にも、溜まる。
人による、とは思うけど。大変な仕事を抱えている人とか、大きな悩みを抱えこんでいる人とか。そういう人ほど、奥のほうが澱んでいる気がする。
……そこまで考えて、あの祭服の、底なしのくすみを思い出した。
聖女さまは、いったい、どれだけのものを抱えているんだろう。
でも、聖女さまの祭服を、塩湯にざぶざぶ漬けこむわけにはいかない。肌だってそうだ。だから今度は、すりこめる『お水』にする。漬けなくても、瘴気だけ連れ出してくれるように。
洗濯場のすみから、いちばん古くくすんだ布きれを探してきた。長年、誰かの脂と埃を吸って芯まで澱んだやつ。瘴気とおなじとは言えないけど、似たような『奥の汚れ』だ。これでためす。
岩塩を、これでもかと水に溶かしこむ。瘴気を引っぱり出す、いちばんの要だ。泡草の根を揉んで泡を立て、酸っぱい果実の汁をほんのすこし。澱のしつこい芯をゆるめてやる。
布きれにすりこんで、待つ。
……だめだ。
いちど浮きかけた灰色が、拭くそばから、また芯へ沈み戻っていく。
ローズばあちゃんの声を、思い出す。
「こういうのはね、性根がしつこいんだ。表だけ撫でても、また染み戻ってくる」
あのとき、ばあちゃんは、何度も塩水をかえていた。汚れの溶け出した水を捨てて、新しい水に。そうやって、浮いた汚れを布へ帰さなかった。
でも、すりこむお水じゃ、その手が使えない。漬けていないんだから、捨てる水もない。浮かせたそばから、行き場をなくした澱が、また布へ帰ってしまう。
二日、頭をかかえた。合間の洗濯も、心ここにあらず。
マリーに「また上の空!」と、何度も小突かれた。
ヒントは、いつもの仕事のほうから来た。
その日、わたしは侍従さんの脂じみたシャツを洗っていた。襟の脂を泡草で浮かせて――うっかり、すすぎが遅れた。すると、いちど浮いた脂が、薄い輪っかになって布に戻りかけた。輪染みだ。
手が、先に動いた。浮いたところを、すかさず乾いた当て布でぽんぽんと吸い取る。汚れを水に逃がすかわりに、布へ移して連れていく。
「……あ」
水をかえられないなら、かえるのは『拭く布』のほうにすればいい。すりこんで、浮いたそばから清潔な布で吸い取って、また塗る。ばあちゃんが塩水をかえていたのと、おなじこと。
……ほんと、わたしはばあちゃんの孫だ。
汚れを吸った当て布は、あとでまとめて塩水で洗えばいい。瘴気だって、たっぷりの水に散らしてやれば薄まって、ただの水に紛れて流れていく。布は、また使える。
あとは、早かった。
仕上げに、鉱泉の白い粉。水をやわらかくして、浮いた澱が居座りにくいようにする。当て布のすべりも、よくなった。
それと、もうひとつ。葉の雫を、とろりと混ぜる。
ローズばあちゃんが、火傷やひび割れに塗ってくれた、あの葉っぱ。切ると、透き通ったぬめりがしたたる。これを足すと、お水にとろみがついて、布にも肌にもぴたっと留まる。垂れて流れないから、すりこむのにちょうどいい。塩や酸で肌が荒れないよう、守ってもくれる。
すりこんで、吸い取って、また塗る。布きれの灰色が、ひと拭きごとに、目に見えて薄くなっていく。
……いける。これなら、祭服にも、肌にも使える。
でも、ひとつ引っかかっていた。
これ、ぜんぶ古い布きれの話だ。脂と埃の『似たような汚れ』で、ほんものの瘴気じゃない。あのくすみに、ほんとうに効くのか。試したわけじゃない。
ほんものの瘴気。どこかに、ないだろうか。
……あ。
次の日、わたしは鎧を出しにきた見習い騎士を、つかまえた。ユーリさんだ。前に、返り血まみれの外套を持ちこんできた人。
「ユーリさん。へんなこと聞きますけど……魔物の瘴気にまみれたもの、ありませんか? 布きれでも、すこしでいいんです」
「しょ、瘴気……?」
ユーリさんは目をぱちくりさせて、それから、なにを思ったかぱっと顔を輝かせた。
「あ、ありますとも! 討伐で使った当て布が、まだ洗えていなくて……。瘴気が染みて気味が悪いと、誰も触りたがらず」
「それです! ください!」
差し出された布には、ガロさんの魔物の血とおなじ、澱んだ黒がべったり。鼻を近づけると、つんと、瘴気のにおい。……うん。まちがいなく、ほんものだ。
さっそく、できたてのお水をすりこむ。すりこんで、吸い取って、また塗る。
黒が、ひと拭きごとに薄くなっていく。古い布きれのときと、おなじ。いや、それ以上に、すうっと。
「……落ちた」
ほんものの瘴気でも、ちゃんと抜けた。これなら、いける。
「す、すごい……! 誰にも落とせなかったのに!」
「ありがとうございます、ユーリさん。おかげで、確かめられました」
「い、いえ……! お役に立てたなら……!」
ユーリさんは、なぜか耳まで赤くして、鎧を抱えて帰っていった。
あれもこれもと夢中でやっていたら、三日が過ぎていた。十日の期日には、ちゃんと間にあった。洗い場の山も、なんとか回した。……ドロテアさんには、こってり絞られたけど。
とろりと澄んだ、無色の水。瓶に詰めると、ほのかに若草の匂いがした。
……うん。これならあの瘴気にも、きっと届く。
マリーが、瓶をのぞきこんで聞いてきた。
「これ、なんて呼ぶの。お水だけじゃちょっと変よね」
「うーん。わたしが作ったから……サボン水、とか?」
われながら、安直だ。でも、なんだか、しっくりきた。
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できあがった瓶を、神官さんに渡した。
神官さんはおっかなびっくり、それを受けとった。まるで、なかみが爆発でもするみたいに。
「使い方なんですけど。布でも肌でも、どっちでも平気です。朝と晩。黒ずんだところに、とろっとすりこんでください。すこし置いて、なじませて」
「は、はあ」
「そうしたら、奥の黒いのがじわっと浮いてきます。浮いてきたら、すかさず乾いたきれいな布で吸い取って。こすっちゃだめですよ、ぽんぽん押さえる感じで。それでまた塗って、また吸い取って。何回か、繰り返すんです」
「布で吸い取る……?」
「はい。一回じゃ抜けません。何日もかけて溜まったものだから、抜くのも何日もかかります。焦らず、根気よく。……あ。汚れを吸った布は、塩水で洗えばまた使えますから」
われながら、いい出来だ。これであの瘴気がすこしずつ抜けると思うと、なんだかわくわくした。
でも神官さんは、瓶を抱えたまま動かなかった。
それから、あたりをうかがって声をひそめた。
「……聖女さまは、過日からおまえを気にかけておいでだ。このお水ができたら、もう一度会いたい。かねてそう仰せでな」
神官さんはさらに、声を落とした。
「こんどは――おまえとふたりだけで、と仰せだ」
ぴたり、と。
まわりの音が止まった気がした。
マリーがわたしの腕をつかんだ。ドロテアさんが眉をぎゅっと寄せる。ふたりとも、なにか言いたげに口をひらいて――結局なにも言わなかった。
神官さんが行ってしまうと、マリーが堰を切ったように詰め寄ってきた。
「ねえサボン。お願いだから、断って。聖女さまとふたりきりなんて、ぜったいだめ」
「えー。なんで? せっかく、近くで見られるのに」
「そういうとこ! そういうとこだってば!」
マリーの声が、すこしふるえていた。
ドロテアさんもめずらしく、ひと言も言わない。ただわたしの肩を、ぎゅっと掴んでいる。
ふたりがこんなに必死なのは、ちゃんと分かる。分かるんだけど。
わたしの頭は、もう、ぜんぜんちがうことでいっぱいだった。
聖女さまとふたりきりなら、あの瘴気を、いちばん濃いところまで近くで見られる。早速サボン水を試してもらって、もっとこうしたら……とか考えて。きっと、もっといい水が作れる。
……ああ、早く。早く、あのくすみを落としたい……!
あれを落としたらものすっごくスッキリする気がする!
エルフリーデさまが、わたしを呼ぶ声を思い出す。どんな目をして笑っていたかなんて。その時のわたしは、これっぽっちも気にしていなかった。




