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転生先は夜明け前 ―石器時代から文明を拓く―  作者: 夜摩 高嶺
第一部 結実の章

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第98話「丘の前で」

 ハミは、丘に近づいた。

 前に来た時より、人が多かった。壺の数も、増えていた。粥の煙が、空に七本。前は五本だった。柵が二段になっている。一段目の丸太の上に、薄い細い線。革ひもに、貝殻。前は、その線はなかった。見張り台が、北西の角に高く立っていた。前の見張り台は、もっと低かった。袋を地面に下ろす前に、ハミは一度だけ南の斜面の方を振り返った。袋の中の音が、肩の重さよりも先に止まった。



「ハミだ」


 見張り台の上から、ダイの声が低く降りてきた。

 軽口の語尾はない。最近の数日、ダイの声には軽口の語尾がない。冬の入り口の風が、北の縁から南の縁へ斜めに渡っていた。


 ソウは作業場の脇の平らな石の前から立ち上がった。

 石の上には粘土板が五枚並んでいる。配給板、鍬印板、白板、医療制度板、そしてカナの薬の板。五枚目の縁だけが、他の四枚より、まだほんの少しだけ白っぽい。焼き上がってから日が浅い。


「袋は、いつもの形だ」


 ダイが続けた。


「一人。背に革袋。歩幅は変わらん」


 ガランは焚き火の脇から頷いた。

 頷く動きは、いつもの命令の頷きより、半秒だけ長かった。立ち上がる時、ガランの右手が一度、膝の上に置かれた。半秒。ソウだけがそれを拾った。



 ハミは斜面の中ほどで足を止め、袋を地面に下ろした。

 紐を一本ほどき、口を半分だけ開けた。半分だけ。中身の全部は見せない。三度目も、四度目も、ハミの手の動きは同じだった。


「ガラの丘」


 ハミは斜面の下から、低く名を呼んだ。

 その呼び方は、前の三度よりも、わずかに親しい角度を持っていた。だが、わずかに、というだけだった。


「冬の入り口に、と言った」


 ハミは続けた。


「来た」


 ソウは柵の南の側に立った。丸太の上に両手を置いた。

 四度目の同じ位置だった。


「覚えていた」


 ソウは答えた。



 袋の中身は、夏の終わりの時より少し減っていた。

 黒曜石の片が十枚。縁の整い方は前の二回より、また一段上がっている。塩の小袋。前と同じ大きさ。赤い色の塊。半分の大きさ。干した実の包みは、夏の倍からまた半分に戻っていた。

 代わりに、革で包まれた小さな束がもう一つ、袋の脇に置かれた。


「これは——」


 テツが柵の隙間から低く言った。

 ハミは束の革をめくった。中には、骨で作られた針が三本。針穴のところがきれいに磨かれている。


「南の海岸沿いで、布の縫い目に使う」


 ハミは静かに言った。


「お前たちの、編み目の方にも合うかもしれん」


 住居の北側の革幕の脇で、ミラの足が一度、止まった。

 ミラは籠を腕に抱えたまま、ハミの脇に置かれた骨の針の方を見ていた。見ていたが、近づきはしなかった。



「数えよう」


 ソウは言った。


「前の話の続きだ」


 ハミは頷いた。

 頷きの動きは、夏の終わりの時より、わずかに浅い。袋の口の紐を結び直す指の動きの方が、頷きより少し雄弁だった。


 代価は、粒の半袋と、薬草の束二つと、陶器の小皿一枚。アズが粒を量り、カナの薬草の干し紐から、苦い葉と丸い葉の束をオンが選んだ。傷の根は取らない。

 交換は柵の門の前で行われた。

 ジンがソウの後ろで一歩離れて見ていた。冬の入り口の風が、柵の隙間を抜ける時、薄い細い線の上の貝殻が、二度だけ、ごく小さく鳴った。



 ハミは袋を肩に背負った。

 背負ってから、丘の上を一度、目で順になぞった。住居の屋根の藁の編み目。窯の覆い。陶器大壺の並び。粥の鍋の脇でカヤが薬草を煎じる、小さな火の縁。作業場の脇の平らな石の上の、粘土板五枚。焚き火の脇の、二つの椀と、その隣の板。

 ハミの目はそれを順に留めた。


「もう一つだけ、置いていく」


 ハミは言った。声は売り込みの声ではなかった。袋の紐をほどく時と同じ温度の声だった。


「南の集団が、お前たちのことを話している」


 ハミは続けた。


「数えていた。何を持っているか」


 ソウは答えなかった。

 ガランも答えなかった。リアが梯子の半ばで、片手を柵の上に置いたまま、ハミの方ではなく南の斜面の方に視線を流した。

 ハミはそれ以上は言わなかった。言わない代わりに、もう一度袋の紐を結び直した。


「次は」


 ガランが低く聞いた。


「春の入り口に」


 ハミは答えた。


「雪が早ければ、その先だ」


 ハミは踵を返した。

 来た時と同じ歩幅で、斜面を降りていく。林の縁で角度を変えた。南西の方角だった。背中は、一度も振り返らなかった。



 ハミの背中が見えなくなってから、半刻も経たないうちだった。

 見張り台の上で、ヒガが先に気づいた。


「南西。今度は三人」


 ヒガが低く言った。

 ハミの去った林の縁とは、別の角度だった。南の尾根の中ほどから、丘の方角へ向かって、三人の影が並んで上がってきていた。一人が前、二人がその後ろに少し離れて並んでいた。ハミのような大きな革袋は背負っていない。腰の脇に短い革袋を一つずつ。手には何も持っていない。


「歩き方が違う」


 ヒガが続けた。


「来る形ではない。見る形だ」



 ソウは梯子を登らなかった。

 柵の南の側の、丸太の上に両手を置く位置に立った。三人の影は、斜面の三分の二の高さで一度、足を止めた。前の一人が頭を一度動かして、丘の上の方を順になぞっているのが、その距離からでも分かった。

 見張り台。柵の二段。一段目の上の薄い線。五棟の住居の屋根。窯の覆い。畑の方角の、収穫の終わった三つの畝の縁。

 目が一つずつ留まる。留まり方が、ハミの留まり方と似ていた。だが、温度が違った。


 リアは梯子の上に立っていた。柵の隙間から、弓には触れず、ただ手の指を丸太の上に並べたまま動かさなかった。声を張ることもなかった。

 ガランは焚き火の脇のいつもの位置に膝を落としていた。立ち上がらなかった。



 前の一人が、斜面の半分の高さまで上がってきた。

 短い革袋の口を開ける動きはしない。両手を体の脇に下ろしたまま、丘の上を見ている。男だった。陽に焼けた顔。顎の線が深い。歳の見当はつきにくい。

 男はソウの方を一度見た。目が合った。合ったが、口を開かなかった。


 男は柵の前まで上がってくることはしなかった。

 三人とも、斜面の半分の高さで動きを止めたままだった。前の一人が後ろの二人に目だけで合図した。後ろの二人の片方が、丘の上の見張り台の方を、片方が三つの畑の方を、それぞれ目で順に確かめている。

 ガランは咳を一つ落とした。短い咳が二度。


「……埃だ」


 ガランは火を見たまま低く言った。

 今日の埃は、夏の終わりにハミの前で出た埃と、形が同じだった。前の一人の男の目が一度、焚き火の脇のガランの方角に流れた。流れて、すぐに戻った。



 カヤは粥の鍋の脇で、薬草を煎じる小さな火の縁から目を上げなかった。

 指の腹で苦い葉の縁を一枚分めくる。葉の裏を確かめる。三枚を選ぶ。指の動きは、いつもの朝と同じ角度だった。

 オンが粥の鍋の上で杓を動かしている。子の何人かが空き地の縁で椀を並べている。アサとハナ。キイがカナの椀の方角は見ない位置で、椀の山の脇に立っている。

 日常の動きが、止まらなかった。誰も柵の方を指で示さなかった。


 前の一人の男の目が、もう一度、丘の上を順になぞった。

 焚き火の脇の、二つの椀。その隣に立て掛けられた、五枚目の粘土板。その縁の白さ。男の目はそこで、半呼吸ほど留まった。

 留まって、それから、外れた。


 男は後ろの二人の方を見て、首だけで動きを示した。

 三人とも、斜面の方へ踵を返した。来た時と同じ角度で降りていく。林の縁で、ハミの方角とは違う、もう一段東寄りの角度に折れた。

 三つの背中は、林の縁の手前で、一度も振り返らなかった。



 三つの背中が見えなくなってから、しばらくの間、誰も口を開かなかった。

 風が止んだままだった。粥の鍋の縁から、湯気の細い柱が一本、空き地の上に立ち上がっていた。


 ガランは焚き火を見たまま、低く言った。


「言葉を、置かなかったな」


 ガランの声は、責めの色ではなかった。

 頷く者もいなかった。頷かない動きが、頷きと同じ形をしていた。


 リアが梯子を降りてきた。

 降りる動きは静かだった。柵の脇まで来て、ガランの方ではなく、ソウの方を一度見た。


「南西の、林の縁から東寄り」


 リアは低く言った。


「ハミの帰り道とは別だ」


「分かっている」


 ソウは答えた。



 ソウは作業場の脇の平らな石の前に、もう一度しゃがんだ。

 石の上の粘土板は五枚のまま。何も加わっていない。

 だが、頭の中の白板の方では、別のものが並びかけていた。ハミが置いていった一言。「数えていた」。三人の男の目が留まった場所。住居の数。畑の畝の縁。陶器大壺。煎じの火。粘土板。


 見られた。

 全部、見られた。

 だが、隠す必要はなかった。

 隠す必要のないものを、隠さずに置いていることが、たぶん、丘の上の今日の形だった。



 夕の光が丘の南の縁から薄くなった。

 ヒガが見張り台の梯子を半ばまで降りてきて、ダイと交代した。リアは梯子の下に立ったまま、南の斜面の方角を見ていた。

 ガランは焚き火の脇のいつもの位置に膝を落としていた。膝を落とす時、右手が一度だけ膝の上に置かれた。半秒。今日は、ソウの目だけではなく、リアの目も、たぶんそれを拾っていた。

 誰も、その動きの話はしなかった。


 カヤが粥の鍋の脇から、煎じの椀を一つ、ガランの脇に運んだ。

 苦い葉と丸い葉。傷の根は入れない。冬の入り口の咳に対しての、今夜の選び方だった。カヤはガランの方には目を上げず、椀を置いて、戻った。指の動きの中に、説明はなかった。説明のなさが、説明と同じ形をしていた。


 ガランは椀を口に運んだ。一口。それから、火を見た。



 夜の入り口の風が、丘の南の縁から薄く上がってきた。

 風の中に、馬の汗の匂いに似た何かは、混じっていなかった。乾いた葉の匂いと、焚き火の煙の匂いと、煎じの薬草の薄い青い匂いが、空き地の上を低く渡っていた。


 ソウは焚き火の脇で、もう一度頭の中の白板の方を見た。

 男たちの目が留まったのは、丘の上の余裕の場所ばかりだった。その余裕を、男たちは数えて、何も言わずに降りていった。

 言葉を置かないということは、まだ向こうも、こちらをどう扱うかの形を決めていないということだった。


 梯子の上のダイの黒い影が、南の斜面の方角を向いて立っていた。

 その斜め下で、リアの黒い影が、まだ柵の脇に立ったままだった。柵の隙間から、林の縁の、男たちが折れていった東寄りの角度の、もう少し先の方角を見ていた。

 夜が、丘の縁から上がってきていた。



「春の入り口」


 ガランが焚き火の脇から、低く呟いた。

 ハミの去り際の声を、ガランの口がもう一度繰り返していた。


「向こうの春も、こちらの春も、同じ時に来る」


 ガランは続けた。

 誰にともない声の高さだった。だが、火の縁から焚き火の脇に座る者たちの背中の方へ、その声は斜めに渡って届いた。

 ソウは頷かなかった。頷かない代わりに、指の腹で粘土板の縁を、もう一度上から下へ辿った。

 線は、まだ何も加わっていない。だが、加わるべき場所が、どこに空いているかは、頭の中で形を持ち始めていた。


 夜の風が、丘の南の縁からもう一度上がってきた。

 風は、止まらなかった。

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