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転生先は夜明け前 ―石器時代から文明を拓く―  作者: 夜摩 高嶺
第一部 結実の章

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第97話「南から、誰か」

「南の斜面の中ほどに、折れた草」


 ヒガが見張り台の上から低く言った。

 ノカが生まれた朝の翌日の、まだ日の高くない時刻だった。風は止んでいた。止んだ朝の空気の中で、ヒガの声は焚き火の脇まで、まっすぐに降りてきた。

 ソウは作業場の脇の平らな石の前にしゃがんでいた。


「人の足か」


 ガランが焚き火の反対側から低く返した。

 立ち上がる動きはしなかった。膝の上に置いた両手の指の組み方も変えなかった。声だけが、火の脇から斜めに見張り台の方角へ向けて流れて出た。


「分からん」


 ヒガが続けた。


「だが、獣の足じゃない」


 ヒガの声には軽口の語尾がなかった。

 ノカの泣き声が住居の革幕の内側から、間を置いて一度流れ出た。



 梯子の半ばで、ダイが一度足を止めた。

 ヒガと交代する刻限の少し前。ヒガが肩越しに目を流し、ダイが頷いた。一拍、二人とも口を開かなかった。並んだ二つの背中が南の斜面の同じ一点を見ていた。


 ソウは作業場の脇から立ち上がった。

 焚き火の脇のリアの影が、空き地の中央の方を向いて立っていた。今朝のリアは、ヨルの住居の入口の方角を見ていない。

 南の斜面の方を見ていた。


「梯子に登るのか」


 ソウはリアに低く聞いた。

 リアは振り返らなかった。指の関節を一度だけ動かし、空気の中で弓の弦の張りを確かめるような動きをした。


「ヒガとダイで今は足りる」


 リアは答えた。


「ダイが見つけ直してから、私が登る」


 声の高さは、ノカが生まれた朝の朝より、ほんの一段低かった。



 空き地の縁にベンが立っていた。

 粥の鍋の脇でオンが杓を動かしながら、目を一度だけ南の方角に流した。流して、すぐに鍋の中に戻した。

 ベンの脇でジンが立っていた。


「父さん」


 ジンが低く言った。


「南って」


 ベンは答えなかった。代わりに腰の脇の革袋の紐を、指でほどいてまた結び直した。北の谷を捨てて丘の上に上がってきた朝の指の動きが、今朝もまた同じ場所に戻っていた。

 ジンはそれを横で見ていた。


 カヤが焚き火の脇まで歩いてきた。

 手には薬草の束が一つ。昨日ヨルの住居に運んだ三束のうちの、苦い葉の余りだった。カヤは二つの椀と、その隣に立て掛けられた板の前で足を止めた。板に手は伸ばさず、束を作業場の脇の平らな石の上に置いた。

 置いてから手を引く時の指の動きが、いつもより一拍だけ早かった。



「南西だ」


 見張り台の上でダイの声が低く立った。

 ヒガが指を一本立てて、林の縁の方角を示していた。


「歩幅は——広くない」


 ダイは続けた。


「重い背は負っていない。早足でもない。立ち止まってこちらを見て、また動く——そういう動き方の跡だ」


 ガランが焚き火の脇で頷いた。

 頷きの動きは、いつもの命令の頷きより、半秒だけ長かった。


 ガランは咳を一つ落とした。

 短い咳が二度。


「……埃だ」


 ガランは低く言った。

 火の縁の薪が一本ゆっくりと崩れた。粉が立って消えた。冬の入り口の風が北の縁の方角からまた一度、焚き火の煙を横にずらした。

 ずらされた煙の向こうで、リアが空き地の中央から梯子の方へ歩き始めた。



 梯子の上で、ダイがリアに場所を譲った。

 指で南西の斜面の一点を指したまま、半歩だけ脇へずれた。指は下ろさなかった。リアが柵の隙間からその指の先を視線でなぞった。半呼吸、二人の目が同じ場所に止まっていた。


「昨日の夜から、今朝の間だ」


 リアが低く言った。


「夜露が乗っていない。朝の光に当たって乾いた縁がもう内側まで乾いている」


 ヒガがリアの脇で頷いた。秋の終わりの林の縁で見つけた、爪先だけの薄い足跡の話を、ヒガもリアも、まだ覚えている目をしていた。



「ハミの話の続きか」


 ソウは低く呟いた。

 夏の終わりにハミが置いていった「南で、熱が広がっている」の声は、集落の頭の中の棚の奥に下りていた。下りていたが、消えてはいなかった。だが今朝の影は、熱の話ではない。


「同じ南じゃない」


 ガランは火を見たまま低く言った。


「ハミは海の方から来た。今度のは——尾根の向こうからだ」


 ソウは頷いた。

 頷きながら、頭の中で別の言葉が立った。秋の終わりの林の縁の薄い足跡。爪先だけで踏み込まれた地面。あの時、ガランが石の上で低く落とした名前。その三音を、ソウは口の中では出さなかった。

 代わりに、リアの背中の方をもう一度見た。



 評議という形では集まらなかった。

 ガラン、ソウ、リア(梯子の上から降りてきて)、テツ、ベン。焚き火の脇に五人だけが、いつの間にか並んでいた。粥の鍋の向こうにオンとカヤがいたが、二人は口を挟まなかった。


「夜の見張りを二人増やす」


 リアが先に言った。


「ジンを夜にも入れる。ガンを昼に。ヒガとダイは半刻ではなく四半刻交代で南だけを見る」


 ガランは頷いた。

 頷きの後で、ガランは口を開いた。


「追わん」


 ガランは低く断定した。


「追えば向こうに口実を渡す。今は向こうが動くのを見てから決める」


 ソウは頷いた。

 秋の終わりに同じ石の上から落ちた言葉が、今朝、別の声の中でもう一度立ち上がっていた。ガランの「追わん」は、四年前と同じ重さだった。

 だが、重さが同じであることが、今朝のソウには別の意味で聞こえた。


「待つ」


 ガランは続けた。


 誰も、頷かなかった。

 頷かない動きが頷きと同じ形をしていた。焚き火の脇でテツが薪をもう一本選び、火の縁に置いた。火の角度がもう一度変わった。



 ベンが空き地の縁に戻った。

 革袋の口の紐は、もう結び直されていた。北の谷の方角を一度だけ振り返って、それから第三畑の方へ歩いていった。歩幅は、いつもより、ほんの少しだけ短かった。

 ジンはベンの後ろを追わず、焚き火の脇に残った。


「俺が夜に出るのか」


 ジンは低く呟いた。

 リアがジンの方を見た。


「明日からだ」


 リアは答えた。


「今夜はいつも通り」


 ジンは頷いた。

 頷きの動きはまだ少しぎこちなかったが、首の角度は逃げなかった。リアはそれを一度だけ見て、また南の斜面の方角に目を流した。



 昼の光が空き地の中央に高く上がった。

 ガランが膝を立て、立ち上がる時に右手が一度だけ膝の上に置かれた。半秒。ソウの目だけがそれを拾った。ガランは取り繕う動きはしなかった。立ち上がってから二つの椀と板の前を通り過ぎ、空き地の中央で、南の斜面の方角に一度だけ目を向けた。


「ノカが生きている」


 ガランは誰にともなく低く呟いた。

 ソウの耳が、その一言を拾った。誰にも聞かせる声ではなかった。だが、今朝の集落の地面の上では、その一言だけが、別の温度を持っていた。

 住居の革幕の内側から、ノカの泣き声がもう一度間を置いて流れ出た。



 夕の光が丘の南の縁から薄くなった。

 ヒガが見張り台の梯子を半ばまで降りてきて、ダイと交代した。リアは梯子の下に立ったまま、南の斜面の方角を見ていた。

 風が止んだままだった。


 ソウは作業場の脇の平らな石の前にもう一度しゃがんだ。

 石の上に並ぶ粘土板の五枚。配給板、鍬印板、白板、医療制度板、そしてカナの薬の板。その隣に、カヤが置いていった苦い葉の束の縁が、薄く青い香りを残していた。


 ソウは指の腹で板の縁を一度だけなぞった。

 なぞった指は線の上には触れず、線の脇の、何も書いていない場所の粘土の表面を、上から下へゆっくり辿った。

 頭の中で別の線が動いていた。秋の終わりに林の縁で見たあの薄い足跡と、今朝、南の斜面の中ほどに立った折れた草の影。別々の朝の、別々の場所の、別々の人の目に映ったその二つを、ソウの頭の中だけが、一つの線の上に並べていた。



 夜の入り口の風が、丘の南の縁から薄く上がってきた。

 風には、馬の汗の匂いに似た何かは、もう混じっていなかった。乾いた葉の匂いと、焚き火の煙の匂いだけが、空き地の上を低く渡っていた。

 ガランは焚き火の脇のいつもの位置に膝を落とした。


 咳を一つ落とした。

 短い咳が二度。


「……埃だ」


 ガランは火を見たまま低く呟いた。

 誰も、頷かなかった。


 梯子の上のダイの黒い影が、南の斜面の方角を向いて立っていた。

 その斜め下で、リアの黒い影が、まだ柵の脇に立ったままだった。今夜のリアは、見張り台には登らなかった。柵の脇から、空き地の中央のヨルの住居の入口と、南の斜面の中ほどの一点とを、同じ間隔で交互に見ていた。

 住居の入口の脇で、ヨルが膝の上にノカを乗せて、座っていた。


 ソウは焚き火の脇でその二つの方角を、自分の中でもう一度結んだ。

 内側にノカ。外側に、まだ見えない誰かの影。

 夜が、丘の縁から上がってきていた。

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