第97話「南から、誰か」
「南の斜面の中ほどに、折れた草」
ヒガが見張り台の上から低く言った。
ノカが生まれた朝の翌日の、まだ日の高くない時刻だった。風は止んでいた。止んだ朝の空気の中で、ヒガの声は焚き火の脇まで、まっすぐに降りてきた。
ソウは作業場の脇の平らな石の前にしゃがんでいた。
「人の足か」
ガランが焚き火の反対側から低く返した。
立ち上がる動きはしなかった。膝の上に置いた両手の指の組み方も変えなかった。声だけが、火の脇から斜めに見張り台の方角へ向けて流れて出た。
「分からん」
ヒガが続けた。
「だが、獣の足じゃない」
ヒガの声には軽口の語尾がなかった。
ノカの泣き声が住居の革幕の内側から、間を置いて一度流れ出た。
*
梯子の半ばで、ダイが一度足を止めた。
ヒガと交代する刻限の少し前。ヒガが肩越しに目を流し、ダイが頷いた。一拍、二人とも口を開かなかった。並んだ二つの背中が南の斜面の同じ一点を見ていた。
ソウは作業場の脇から立ち上がった。
焚き火の脇のリアの影が、空き地の中央の方を向いて立っていた。今朝のリアは、ヨルの住居の入口の方角を見ていない。
南の斜面の方を見ていた。
「梯子に登るのか」
ソウはリアに低く聞いた。
リアは振り返らなかった。指の関節を一度だけ動かし、空気の中で弓の弦の張りを確かめるような動きをした。
「ヒガとダイで今は足りる」
リアは答えた。
「ダイが見つけ直してから、私が登る」
声の高さは、ノカが生まれた朝の朝より、ほんの一段低かった。
*
空き地の縁にベンが立っていた。
粥の鍋の脇でオンが杓を動かしながら、目を一度だけ南の方角に流した。流して、すぐに鍋の中に戻した。
ベンの脇でジンが立っていた。
「父さん」
ジンが低く言った。
「南って」
ベンは答えなかった。代わりに腰の脇の革袋の紐を、指でほどいてまた結び直した。北の谷を捨てて丘の上に上がってきた朝の指の動きが、今朝もまた同じ場所に戻っていた。
ジンはそれを横で見ていた。
カヤが焚き火の脇まで歩いてきた。
手には薬草の束が一つ。昨日ヨルの住居に運んだ三束のうちの、苦い葉の余りだった。カヤは二つの椀と、その隣に立て掛けられた板の前で足を止めた。板に手は伸ばさず、束を作業場の脇の平らな石の上に置いた。
置いてから手を引く時の指の動きが、いつもより一拍だけ早かった。
*
「南西だ」
見張り台の上でダイの声が低く立った。
ヒガが指を一本立てて、林の縁の方角を示していた。
「歩幅は——広くない」
ダイは続けた。
「重い背は負っていない。早足でもない。立ち止まってこちらを見て、また動く——そういう動き方の跡だ」
ガランが焚き火の脇で頷いた。
頷きの動きは、いつもの命令の頷きより、半秒だけ長かった。
ガランは咳を一つ落とした。
短い咳が二度。
「……埃だ」
ガランは低く言った。
火の縁の薪が一本ゆっくりと崩れた。粉が立って消えた。冬の入り口の風が北の縁の方角からまた一度、焚き火の煙を横にずらした。
ずらされた煙の向こうで、リアが空き地の中央から梯子の方へ歩き始めた。
*
梯子の上で、ダイがリアに場所を譲った。
指で南西の斜面の一点を指したまま、半歩だけ脇へずれた。指は下ろさなかった。リアが柵の隙間からその指の先を視線でなぞった。半呼吸、二人の目が同じ場所に止まっていた。
「昨日の夜から、今朝の間だ」
リアが低く言った。
「夜露が乗っていない。朝の光に当たって乾いた縁がもう内側まで乾いている」
ヒガがリアの脇で頷いた。秋の終わりの林の縁で見つけた、爪先だけの薄い足跡の話を、ヒガもリアも、まだ覚えている目をしていた。
*
「ハミの話の続きか」
ソウは低く呟いた。
夏の終わりにハミが置いていった「南で、熱が広がっている」の声は、集落の頭の中の棚の奥に下りていた。下りていたが、消えてはいなかった。だが今朝の影は、熱の話ではない。
「同じ南じゃない」
ガランは火を見たまま低く言った。
「ハミは海の方から来た。今度のは——尾根の向こうからだ」
ソウは頷いた。
頷きながら、頭の中で別の言葉が立った。秋の終わりの林の縁の薄い足跡。爪先だけで踏み込まれた地面。あの時、ガランが石の上で低く落とした名前。その三音を、ソウは口の中では出さなかった。
代わりに、リアの背中の方をもう一度見た。
*
評議という形では集まらなかった。
ガラン、ソウ、リア(梯子の上から降りてきて)、テツ、ベン。焚き火の脇に五人だけが、いつの間にか並んでいた。粥の鍋の向こうにオンとカヤがいたが、二人は口を挟まなかった。
「夜の見張りを二人増やす」
リアが先に言った。
「ジンを夜にも入れる。ガンを昼に。ヒガとダイは半刻ではなく四半刻交代で南だけを見る」
ガランは頷いた。
頷きの後で、ガランは口を開いた。
「追わん」
ガランは低く断定した。
「追えば向こうに口実を渡す。今は向こうが動くのを見てから決める」
ソウは頷いた。
秋の終わりに同じ石の上から落ちた言葉が、今朝、別の声の中でもう一度立ち上がっていた。ガランの「追わん」は、四年前と同じ重さだった。
だが、重さが同じであることが、今朝のソウには別の意味で聞こえた。
「待つ」
ガランは続けた。
誰も、頷かなかった。
頷かない動きが頷きと同じ形をしていた。焚き火の脇でテツが薪をもう一本選び、火の縁に置いた。火の角度がもう一度変わった。
*
ベンが空き地の縁に戻った。
革袋の口の紐は、もう結び直されていた。北の谷の方角を一度だけ振り返って、それから第三畑の方へ歩いていった。歩幅は、いつもより、ほんの少しだけ短かった。
ジンはベンの後ろを追わず、焚き火の脇に残った。
「俺が夜に出るのか」
ジンは低く呟いた。
リアがジンの方を見た。
「明日からだ」
リアは答えた。
「今夜はいつも通り」
ジンは頷いた。
頷きの動きはまだ少しぎこちなかったが、首の角度は逃げなかった。リアはそれを一度だけ見て、また南の斜面の方角に目を流した。
*
昼の光が空き地の中央に高く上がった。
ガランが膝を立て、立ち上がる時に右手が一度だけ膝の上に置かれた。半秒。ソウの目だけがそれを拾った。ガランは取り繕う動きはしなかった。立ち上がってから二つの椀と板の前を通り過ぎ、空き地の中央で、南の斜面の方角に一度だけ目を向けた。
「ノカが生きている」
ガランは誰にともなく低く呟いた。
ソウの耳が、その一言を拾った。誰にも聞かせる声ではなかった。だが、今朝の集落の地面の上では、その一言だけが、別の温度を持っていた。
住居の革幕の内側から、ノカの泣き声がもう一度間を置いて流れ出た。
*
夕の光が丘の南の縁から薄くなった。
ヒガが見張り台の梯子を半ばまで降りてきて、ダイと交代した。リアは梯子の下に立ったまま、南の斜面の方角を見ていた。
風が止んだままだった。
ソウは作業場の脇の平らな石の前にもう一度しゃがんだ。
石の上に並ぶ粘土板の五枚。配給板、鍬印板、白板、医療制度板、そしてカナの薬の板。その隣に、カヤが置いていった苦い葉の束の縁が、薄く青い香りを残していた。
ソウは指の腹で板の縁を一度だけなぞった。
なぞった指は線の上には触れず、線の脇の、何も書いていない場所の粘土の表面を、上から下へゆっくり辿った。
頭の中で別の線が動いていた。秋の終わりに林の縁で見たあの薄い足跡と、今朝、南の斜面の中ほどに立った折れた草の影。別々の朝の、別々の場所の、別々の人の目に映ったその二つを、ソウの頭の中だけが、一つの線の上に並べていた。
*
夜の入り口の風が、丘の南の縁から薄く上がってきた。
風には、馬の汗の匂いに似た何かは、もう混じっていなかった。乾いた葉の匂いと、焚き火の煙の匂いだけが、空き地の上を低く渡っていた。
ガランは焚き火の脇のいつもの位置に膝を落とした。
咳を一つ落とした。
短い咳が二度。
「……埃だ」
ガランは火を見たまま低く呟いた。
誰も、頷かなかった。
梯子の上のダイの黒い影が、南の斜面の方角を向いて立っていた。
その斜め下で、リアの黒い影が、まだ柵の脇に立ったままだった。今夜のリアは、見張り台には登らなかった。柵の脇から、空き地の中央のヨルの住居の入口と、南の斜面の中ほどの一点とを、同じ間隔で交互に見ていた。
住居の入口の脇で、ヨルが膝の上にノカを乗せて、座っていた。
ソウは焚き火の脇でその二つの方角を、自分の中でもう一度結んだ。
内側にノカ。外側に、まだ見えない誰かの影。
夜が、丘の縁から上がってきていた。




