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転生先は夜明け前 ―石器時代から文明を拓く―  作者: 夜摩 高嶺
第一部 結実の章

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第96話「ノカ、生まれる」

 未明、空き地の脇を風が一度抜けた。

 冷たい風だった。北の縁の方角から、薄く乾いた葉の匂いを連れていた。冬の入り口の風が、空き地の地面の上を低く渡っていた。


 ソウは寝床の毛皮の縁で目を開けた。

 咳の音ではなかった。風の音でもなかった。住居の革幕の内側で、低く押し殺した女の声が一つ立っていた。続いて、もう一度。短く切れて、また立った。

 寝床の脇で、テツが先に起き上がっていた。


「ヨルの方だ」


 テツの声は低かった。

 声の出所をヨルの住居の方角と、すでに見定めていた。



 外に出ると、空気はまだ青かった。

 焚き火の灰の上で、熾だけが薄く赤く残っていた。脇の同じ場所にバアの椀があった。隣にカナの椀。縁の欠けの影は、まだ青の中で輪郭を持っていなかった。

 その隣にもう一つ、地面の上に立て掛けられた板が一枚あった。


 昨日テツが窯から取り出した三枚目の板だった。

 葉の絵と効きの印と組み合わせの形。焼き上がった面は、青の中で乾いた灰色をしていた。立て掛けの角度はバアの椀とカナの椀の延長の上にあった。板の縁がほんの少しだけ空き地の中央の方へ傾いていた。


 ヨルの住居の革幕の前にカヤが立っていた。

 腕に薬草の束を三つ抱えていた。苦い葉、丸い葉、傷の根。昨日と同じ三束だった。その上にもう一つ別の小さな袋を載せていた。袋の中身は、煎じた汁を入れる革袋だった。

 カヤの脇にコノが立っていた。


「鍋、運ぶ」


 コノの声は短かった。

 水を入れた小さな鍋を両手で抱えていた。鍋の底はまだ冷えていたが、湯気が立つ前に住居の中へ運ぶための鍋だった。カヤは頷いて革幕を一度押した。

 革幕が内側から開いた。



 住居の中から低い声が流れて出た。

 トウカの声だった。痛みを噛んでいる声だった。だが押し殺せていた。バアが生きていた頃なら、こういう場面の中心にバアがいた。バアの後を継いだカナももういない。

 今朝はカヤが薬草の束を持って入っていた。


 ヨルが、住居の入口の脇に立っていた。

 両手は脇に下ろしたまま、視線は地面の少し先に固定されていた。動かない肩の上で、首だけが、ほんの数度ずつ住居の方へ動いていた。秋の終わりにアズの住居の前に立っていたノモの背中と、春の朝のタルの背中と——ヨルの今朝の背中の角度は、その二つによく似ていた。

 似ているまま、また少しだけ違っていた。


 空き地の縁に族民が少しずつ集まり始めた。

 誰も入口の前まで押し寄せなかった。各々が自分の朝の仕事の場所の近くに立ち、その向きだけがヨルの住居の方を向いていた。

 ベンが焚き火の脇に立っていた。ジンが道具小屋の前で何を取るでもなく立っていた。ハクはその後ろで鍬の柄の頭の節を、指の腹でなぞっていた。

 ガランは焚き火の反対側に立っていた。歩いてはこなかった。立ったまま、住居の方を見続けていた。



 住居の中で、カヤの声が一度低く落ちた。


「血が、出ている」


 短い声だった。

 続いて、もう一つ。


「カナの薬を、入れる」


 ソウは焚き火の脇でその声を受け取った。

 受け取ったまま、しばらく動かなかった。カナの薬、と他者の口から固有名詞として出た声は、昨日ガランが集落の中ほどで落とした声の次の、二つ目の声だった。

 ベンが焚き火の脇で、両手を腹の前で組んだ。


 組んだ掌は震えなかった。

 震える場所が今朝はもう外にない、という形が、昨日カヤの脇で見たベンの形と同じだった。


 住居の中で湯気の立つ音がした。

 革袋の口を解く音。葉を鍋に落とす音。傷の根を指の腹で揉んでから入れる音。コノが運んだ鍋の中で、苦い葉の青い香りが湯気と混じって立ち始めていた。

 香りは革幕の隙間から外まで薄く流れて出た。



 夜明けが丘の縁から上がってきた。

 光が空き地の地面を横から斜めに撫でていった。バアの椀の縁の欠けの影が地面の上で短く立った。カナの椀の縁の影は、バアの椀の影とは違う角度で並んだ。三枚目の板の縁の影は、二つの椀の影の続きの場所に薄く長く伸びた。

 三つの影が地面の上で一直線に近い形に並んでいた。並んだまま、ほんの少しだけずれていた。


 住居の中から別の声が立った。

 赤ん坊の声だった。

 空気を吸って吐く。その繰り返しが声の形になっている声だった。生きた声だった。


 ヨルの肩がわずかに下がった。

 首の角度が、夜の間ずっと固まっていた角度から外れた。

 ガランは何も言わずに焚き火の脇から薪を一本選んだ。



 革幕が内側から押された。

 カヤが先に出てきた。両手で布の塊を抱えていた。塊がカヤの腕の中で小さく動いた。続いてコノが空の鍋を抱えて出てきた。鍋の内側の縁に、苦い葉の青い色が薄く残っていた。

 カヤはヨルの方を見て、それからガランの方へ目を移した。


「女の子だ」


 カヤの声は淡かった。


 ヨルはしばらく動かなかった。

 一歩を出した後の二歩目に少し間があった。間のあとで二歩目を出した。三歩目はもう続いて出た。カヤが布の塊をヨルの方へ差し出した。ヨルは両手を出した。手は震えていた。震えながら布を受け取った。

 受け取った布の重さが、ヨルの肩の角度をもう一段下げた。


 ヨルは布の中を見て頷いた。

 頷きは一度きりだった。だがその角度は、ノモの時ともタルの時とも、また違う角度をしていた。



 ガランが焚き火の脇から歩いてきた。

 歩み方はいつもより慎重だったが、足の運びには迷いがなかった。布の塊の前で足を止め、しばらく赤ん坊を見ていた。光がガランの白い髪の縁を一度撫でた。

 ガランは咳を一つ落とした。


 短い咳が二度。

 それから、低く言った。


「ノカだ」


 声は短かった。

 短かったが、いつもの命名の短さとは、ほんの少しだけ違う形をしていた。一拍の長さの中で、ガランは口の中でその名前を一度確かめてから出していた。

 ガランは続けた。


「カナの音と、ひと音違う」


 誰にも聞かせる声ではなかった。

 火の脇で薪を選んでいたサガの手が一拍止まった。柵の方角から戻ってきたリアの足も止まった。ベンが焚き火の脇で目を伏せた。

 誰も頷かなかった。


 頷く動きの代わりに、空き地の上を流れる風の音だけが、しばらく続いた。

 頷かないことが頷くことと同じ形をしていた。

 族民の何人かが、口の中で「ノカ」と繰り返した。繰り返した声は口の外には出なかった。



 ヨルは布の塊を抱え直して住居の入口の脇に座った。

 膝の間で両手を組み、布の塊を膝の上に乗せた。ノカはヨルの腕の中でもう動かなかった。住居の中からトウカの低い息が、間を置いて流れて出ていた。生きている息の流れだった。

 カヤは焚き火の脇まで歩いてきて、空の革袋を薬草の束の脇に置いた。


「カナの薬を入れた」


 カヤはそれだけ言った。

 声は淡かった。報告でも誇りでもなかった。覚えていた、というだけの形の声だった。

 ベンがカヤの脇で両手を腹の前から下ろした。


 ソウは焚き火の脇に座ったまま、しばらく動かなかった。

 目を上げて焚き火の脇を見た。バアの椀。カナの椀。その隣に、昨日テツが焼き上げた三枚目の板。板の上に並んだ葉の絵と効きの印と組み合わせの形。

 カナはいない。

 だが、カナの薬が今朝ノカを助けた。


 頭の中で集落の人数を数えた。

 名前が口の中で並ぶ。ガラン、ゴウザ、ムロ、サガ、リア、ヨル、イサ、ハル、トト、ナツ、トウカ、ノタ、アズ、ノモ、ハナ、ベン、カヤ、ジン、コノ、ダイ、ヒガ、ミラ、テツ、タル、オン、キイ、アサ、ガン、ハク、ハマ、メイ、ホシ。名前のある顔をそこまで並べ、名前の置き場がまだ揺れている顔も頭の中で足した。ノカを最後に加えてもう一度。

 ——四十人。



 ガランが焚き火の脇で咳を一つ落とした。

 短い咳が二度。

 ガランは火の方を見たまま低く呟いた。


「……埃だ」


 誰にも聞かせる声ではなかった。

 火の縁の薪が一本崩れた。粉が薄く立って消えた。冬の入り口の風が、北の縁の方角からもう一度渡ってきていた。

 風はバアの椀の縁を撫で、カナの椀の縁を撫で、三枚目の板の縁を撫でて、焚き火の煙を一度横にずらした。


 ずれた煙の向こうで、リアの黒い影が空き地の中央の方を向いて立っていた。

 視線は南の斜面の方ではなかった。今朝のリアの目は、住居の入口の脇に座ったヨルとその腕の中のノカの方を、しばらく見ていた。

 それからもう一度、南の斜面の方へ流れた。


 風の中に、別の匂いが混じっていた。

 苦い葉の青い香りではなかった。乾いた葉でも、焚き火の煙でもなかった。南の斜面の遠い方角から、薄く、馬の汗の匂いに似た何かが流れてきていた気がした。

 気のせいかもしれなかった。

 あるいは気のせいではないかもしれなかった。


 ソウは焚き火の脇でその匂いを一度だけ確かめて、目をヨルの腕の中のノカの方へ戻した。

 ノカはまだ動かなかった。

 ヨルの肩の角度は、夜の間の角度から完全に外れていた。

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