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転生先は夜明け前 ―石器時代から文明を拓く―  作者: 夜摩 高嶺
第一部 結実の章

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第93話「白板の上に」

 作業場の脇の平らな石の上に、新しい板が一枚、置かれていた。

 まだ何も刻まれていない。表面は朝のうちに乾き、薄い白さが残っている。秋の光が斜めに当たって、板の縁の影が石の上に細く伸びていた。


 ソウは木片の先を、その白さの上にかざした。

 手前で、止めた。先にもう一つの板が脇にあった。配給の板。鍬印の板。今朝はそれらの隣に、三枚目を増やそうとしている。


 カヤが、半歩離れて立っていた。

 膝の脇に薬草の束が三つ。苦い葉、丸い葉、傷の根。テツがカナの盛り土の前に並べていたのと同じ順序で揃えてあった。


「これ、置いていい?」


 カヤの声は低い。

 粥配給の朝に鍋の脇でオンと交代する時の声と、同じ高さだった。聞かせる声ではなく、隣に置く声。


 ソウは頷いた。

 頷きの動きが小さかったのは、何かを大きく動かす朝ではないと、両方が分かっていたからだった。



 カヤは束のひとつ目を取り上げた。

 苦い葉。

 葉先を指の腹で一度撫でて、青い香りを立たせた。香りは板の上をひと撫でして、石の縁から消えた。


「カナはこれを三枚」


 カヤはそれだけ言って、口を閉じた。

 ソウは木片の先を白い板の上に下ろした。葉の形を線で写す。茎が一本、葉が三枚、左右に開く。バアの薬草畑で苦い葉の畝に最初に芽を出したあの葉の縁の鋸の歯まで、指は覚えていた。


 葉の絵の脇に短い縦の線を一本。

 その隣に点を三つ。

 葉一枚を点一つで置いた。三枚なら点が三つ。煎じる量は線の長さで置いた。長い線が一杯、短い線が半杯。アズとガンの皿で立てた決まりがここでも使えた。


「丸い葉は二枚」


 カヤが二つ目の束を石の脇に置いた。

 ソウは丸い葉の絵を描いた。茎は短く、葉は丸く、縁は滑らかに。脇に縦の線を一本、点を二つ。


「傷の根は一本」


 三つ目。

 根の絵は塊で描いた。土の中で太く膨らんだ部分と細く伸びる髭。脇に縦の線を一本、点を一つ。


 三つの絵が、白い板の上に並んだ。

 それぞれの脇に点と線。長さの違いが煎じる量の違い。点の数が葉の数。



 空き地の縁を、足音が一つ通った。

 軽くも重くもない足の運び。ソウは顔を上げなかった。顔を上げなくてもサガの歩き方は分かる。柵の杭を確かめに行く時の、左の足の踏みが半拍だけ遅いあの運び方だった。


 サガは作業場の脇で足を止めた。

 止めた場所は板の正面ではない。斜め後ろ。粘土板の三枚に視線を流すには、ちょうど良い位置だった。


 カヤは手を止めなかった。

 苦い葉の束の縁を、もう一度指の腹で揃えた。揃えた葉は板の脇の地面の上に、絵の順序と同じ並びで置かれた。苦い葉が頭の側。丸い葉が中。傷の根が足元の側。


 サガの目が板の上を上から下に流れた。

 絵、線、点。

 長い線、短い線。

 点の数。


 サガは口を開かなかった。

 開かないまま、視線だけが板の上の三つの絵の縁を、丁寧に急がず飛ばさずに辿っていた。あの夜ガランがムロの前で族の輪を見渡したのと同じ速さだった。



 焚き火の脇から、咳が一つ聞こえた。

 ガランだった。

 短い咳が二度、それから一度、間を置いて鼻を鳴らした。


「……埃だ」


 ガランは低く呟いた。

 誰にも聞かせる声ではなかった。焚き火の薪の脇にしゃがんだまま火の方を見ている。目だけが時折こちらに流れて、また火に戻る。


 ソウは目を逸らした。

 逸らした先に、白い板があった。

 板の上の三つの絵は、まだ乾ききっていない。木片の線の縁から、薄く粉が立った。



 カヤが口を開いた。


「東の谷でも、似たことがあった」


 声は粘土板の方を向いていた。ソウの方ではない。

 ソウは木片を一度、持ち直した。


「葉の使い方ですか」

「うん。葉の数を覚える人がいた/その人が死んだら、誰も覚えていなかった」


 カヤはそこで一度、息を置いた。

 息の後にもう一度、言葉が出た。


「だから——板に置くのはいい」


 ソウは頷いた。

 頷きの動きの中に、カヤがどこまで自分の中で確かめながら言葉を置いているのかが、わずかに見えた気がした。東の谷で誰が死んで、誰が覚えていなかったのか。カヤはその名前を口にしなかった。口にしないことが、ここでは別の形の覚え方だった。


 サガは、まだ動かなかった。



 ソウは板の脇に、もう一つの組み合わせを描いた。

 苦い葉の絵と丸い葉の絵を、短い線で結んだ。

 熱の出た者には、この二つ。煎じる時間は、火の縁で息を百回。

 息の百回は、線の長さでは置けない。ソウは縦の線を百本引くのではなく、線の脇に小さな丸を一つ打って、その中に短い線を十本だけ並べた。十の丸が十並ぶと決めた。


「百」


 ソウは低く言った。

 カヤは葉から目を上げて板の上の丸の中の十本の線を見た。


「百か」

「百です。息の数を覚える代わりに、線で」

「うん」


 カヤはそれだけ言った。

 うん、の声の中に納得とも確かめともつかない音が混じっていた。だが手が新しい束を脇に置く動きに移っていた。指は次の絵を待っていた。



 サガが、動いた。


 体ごとではない。

 膝の上の右手だった。

 その手が空き地の縁の薪の山の方へ伸びた。伸びた手が細い薪を一本取った。取った薪をサガはしばらく手の中で持っていた。木の縁を親指の腹でなぞって、節の場所を一度押さえた。


 それからサガは焚き火の方へ歩いた。

 焚き火の脇にしゃがみ、火の縁に薪を一本足した。足し方は丁寧で火の粉は飛ばなかった。火の縁が薪の端を舐めて、薄い煙が一筋立った。


 立ち上がる時、サガの膝が一度押された。

 押した手はサガ自身の掌だった。


 サガはそのまま作業場の方へ戻ってきた。

 戻った先で板の脇まで来た。来た足は板の正面ではなく、また斜め後ろの位置に止まった。手の中にはもう何もなかった。


 代わりにサガは腰の革袋から、小さな物を一つ取り出した。

 木の椀ではなかった。

 水の入った小さな素焼きの皿だった。粥配給の朝に子に湯気の上で温めた水を渡す時に使っている、あの皿だった。


 サガはその皿を、白い板の脇の石の上に静かに置いた。

 置いた手はすぐに引いた。

 皿の中の水の縁が一拍揺れて、止まった。


 サガは何も言わなかった。

 言わないまま空き地の縁の方へ歩いて行った。柵の杭の方ではない。畑の方でもない。住居の革幕の脇にただ立った。立ったまま、こちらをもう振り返らなかった。



 カヤが皿に目を落とした。

 水の縁が、まだ薄く揺れていた。素焼きの皿の縁には小さな欠けが一つあった。サガがいつも使っている皿の、いつもの欠けだった。


 ソウも皿に目を落とした。

 粘土板の脇に水の皿が一つ。

 絵を写す時に指の腹を湿らせる用の水。線の縁の粉を払う水。指の汚れを落とす水。


 使い道は複数あった。

 どの使い道のために置いたのかは、サガは口にしなかった。

 口にしないことが、ここでは答えだった。


 カヤはわずかに頷いた。

 頷きはサガの背中の方へは向かなかった。板の方を向いていた。

 ソウも頷いた。


 水の皿は、置かれたままだった。



 ガランが、焚き火の脇で立ち上がった。

 立ち上がる動きは、少しだけ遅かった。膝の上の掌を一度押し付けてから、ようやく腰が上がった。上がってからガランは咳を一つだけ、短く落とした。


「埃が立つな」


 ガランは焚き火の方を見たまま言った。

 その目はゆっくりと、作業場の脇の板の方へ流れた。流れた先で止まった。止まった視線はしばらく板の上の絵と脇の皿の上を、上から下へなぞった。


 ガランはそれ以上は何も言わなかった。

 焚き火の脇から空き地の中央の方へ、いつもの足の運びで歩いて行った。歩く背中の脇で、ガランの右の手は一度だけ膝の頭を撫でた。



 ソウは板に目を戻した。

 三つの絵。脇の線。点の数。組み合わせの結び。丸の中の十本の線。それから隣の素焼きの皿。皿の中の水はもう揺れていなかった。


 ソウは木片を一度、皿の水の縁に浸した。

 濡れた木片の先で、板の余白にもう一つの線を引いた。

 今は何の意味も持たない、ただの短い線。明日、ここに何かが置かれる場所。


 カヤが脇から見ていた。


「明日は何を置くの」

「葉をもう一つ」

「どの葉」

「カヤさんが覚えているもの」


 カヤは少しの間、口を結んでいた。

 結んだ口の端がわずかにほどけた。


「東の谷の別の葉。ここの薬草畑にはまだない」

「育てられますか」

「分からない。だが葉の形は、覚えている」


 ソウは頷いた。

 頷いた先で、白い板の余白を、もう一度目で測った。線一本、絵一つを足すには十分な広さがあった。



 日が空き地の上を半分まで回った。

 光の角度が変わって、板の上の絵の影が、わずかに伸びた。素焼きの皿の縁の影も石の上に細く落ちていた。


 カヤは束を一度揃え直して、立ち上がった。


「鍋の方に戻る」

「はい」

「皿、置いたままでいい?」

「いいです」


 カヤは焚き火の方へ歩いて行った。

 歩く背中の脇で、苦い葉の青い香りが薄く残っていた。


 ソウは板の前にしゃがんだまま、しばらく動かなかった。

 動かない場所で、板の上の三つの絵を、もう一度目で追った。苦い葉、丸い葉、傷の根。脇の線。点の数。組み合わせの結び。

 カナがいない。

 だがカナが鍋の脇で揉んでいた葉の順序が、板の上に並んでいた。


 ソウは目を上げて住居の革幕の脇を見た。

 サガはもう、そこにいなかった。



 焚き火の脇にバアの椀があった。

 その隣にカナの椀が並んでいた。

 縁の欠けの形は二つとも違っていた。違ったまま、同じ場所に置かれていた。


 ソウは板に目を戻した。

 明日、葉が一つ増える。

 その葉を覚えているのは、もうここに一人いた。


 木片の先で、ソウは余白に短い線を一本、もう一度だけ引いた。

 線は乾いた板の上に薄く跡を残した。

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