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転生先は夜明け前 ―石器時代から文明を拓く―  作者: 夜摩 高嶺
第一部 結実の章

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第91話「掌一つ分」

 朝。焚き火の脇に、二つの椀が並んでいた。

 バアの椀と、カナの椀。間には掌一つ分の隙間があった。隙間は昨夜と同じ広さで、夜の風が吹いた跡もなかった。

 朝の光が二つの椀の縁を順に撫でた。撫でて、地面の縁まで流れて薄く消えた。


 バアの椀の縁の欠けが薄い影を一つ伸ばし、カナの椀の縁は欠けがなく影の出方も違った。違う形の影が二つ、地面の上で並んだ。

 ソウは焚き火の脇に膝を落として、その影を見ていた。誰も二つの椀には触れなかった。触れる手の場所が誰の中にもまだ作られていなかった。


 昨夜から今朝にかけて、椀の位置は動いていない。動かす者がいないし、動かしてはいけないと誰かが決めたわけでもない。決めなくても、二つの椀の場所はもう焚き火の脇の地面の中に置かれていた。



 空き地の中央。粥の鍋から薄い湯気が上がっていた。

 火の高さは昨日のカヤの判断と同じ低さに保たれていた。鍋の中では苦い葉が二枚と丸い葉が一枚、もう湯の中で色を放していた。煎じたのはカヤだった。

 煎じる手と、配る手は別だ。


 ソウは作業場の脇に立っていた。昨日まで、その場所には別の人間が立っていた。杓を握って椀を四つ並べて、低い声で何かを言いながら順に注いでいた人間が。

 その人間は今朝、焚き火の脇の椀の側に移っていた。杓は鍋の脇の地面の上に置かれていて、誰の手にもまだ握られていなかった。


 オンが、自分の住居の革幕から出てきた。

 タル妻のオン。三十一歳。長子キイの母だ。

 キイの熱は昨日下がった。下がった後の朝、オンは寝床の脇で先に起きて、自分で椀を片付けて外に出てきた。出てきた足は、空き地の中央に真っ直ぐ向かった。杓の方角に、だ。


 オンは鍋の脇に膝を落とした。落として、しばらく動かなかった。

 杓に手を伸ばすまでの間に、半呼吸あった。半呼吸の間に、オンは杓の柄の角度を一度だけ目で確かめた。確かめて、握った。握る位置はカナの位置より親指一本分手前で、オンの手はカナの手より大きかった。

 ソウは何も言わなかった。言うべきことを持っていなかった。


 持っていないというより、置く場所が今は自分の中に作られていなかった。代わりにオンの杓の先が鍋の縁に当たる小さな音だけを、耳が拾った。

 オンは杓で薬湯を掬った。掬う角度はカナの角度ではなく、オンの手首は穀物を掬う角度に近かった。去年の冬、新しい穀物を量って配る役を一度だけやったことがあるとオンが言っていた。その時の手首の使い方が、今朝の薬湯の上に出ていた。

 杓の中の薬湯はこぼれなかった。


 オンは椀を並べた。昨日の四つではなく、五つ。今朝は熱の下がった四人だけではなく、集落の中で薬湯を飲む者の数だった。ムロ、メイ、ホシ、キイ、それからカヤ自身。カヤは煎じる側だが、自分の椀を最後に回しただけだった。並べる順番もカナの順番とは少し違って、ムロの椀が一番先に置かれた。


 オンの指は、迷わなかった。迷う位置を、もう自分の中で量り終えていた。

 ソウは、その指の動きを見ていた。



 昼前。メイが、自分の住居の革幕の縁に立っていた。

 ハマ妻のメイ。トゥの母だ。昨日まで寝床の脇で半身を起こす形だったが、今朝、革幕の縁まで歩いて出てきた。歩いた距離は住居の中の七歩分だった。


 メイの目が、空き地の中央のオンの背中の方を見ていた。オンの背中はカナの背中ではない。肩の幅が違うし、背の高さも違う。だが、杓を握って椀を並べる手の動きは、確かに今朝、空き地の中央で動いていた。

 メイは口を薄く開いて、閉じた。言葉にする相手も内容も今は持っていなかった。代わりに革幕の縁を一度だけ指の腹で押さえた。押さえる指の力は、トゥの体を昨日下ろした時の指の力と同じ重さだった。


 メイは目を焚き火の脇の二つの椀の方に流した。二つの椀。掌一つ分の隙間。

 メイは隙間の方をしばらく見ていた。見て、自分の住居の革幕の中に戻った。革幕の縁がゆっくり下りた。



 昼。ソウは作業場の脇で、白板の前に膝を落としていた。

 白板の上には昨日カヤが刻んだ葉の形が二つと根の形が一つ、火の印と下向きの矢印が並んでいる。今朝、その脇に新しい線が一本足されていた。カヤが足したのではなかった。

 オンの指だった。


 オンは白板の前に来てカヤの形の脇に、自分の指で短い縦線を引いた。引いた線の意味をオンは口にしなかった。線は薬湯の数を意味するのか、配る順序を意味するのか、人の数を意味するのか、まだ決まっていなかった。

 決まっていないまま、線はそこに置かれた。


 カヤがその縦線の脇に膝を落とした。カヤは縦線の意味をオンに問わず、自分の木片を持ち、縦線の右側に小さな点を一つ打った。点の意味も決まっていなかった。

 決まらないまま、二つの形が並んだ。縦線と、点。

 カヤとオンの間で、何かが置かれた。置かれた何かを二人とも口にしなかった。ソウは、その二つの形を見ていた。


 形は線になるかもしれなかったし、ならないかもしれなかった。今朝はまだ線にはなっていなかった。だが二つの形が並んでいることだけは、白板の上で確かに見えていた。



 夕。夕の配給は、カヤが担った。

 カヤが鍋の脇に膝を落として、杓を握った。握った手の動きはカナの動きではなく、バアの動きに少し似ていた。葉を選ぶ指の使い方が、もともとバアの薬草の知恵から伝わったものだから、カヤの指は遠回りにバアの方角を向いていた。


 オンはカヤの脇に立って、椀を並べた。朝はオンが配り、夕はカヤが配る。並べる役は、両方で分け合った。分け方を二人は口で決めなかったし、決めなくても、夕の鍋の脇で二人の手が当たることはなかった。


 メイの椀、ホシの椀、キイの椀、ムロの椀。カヤ自身の椀は最後に並んだ。


 夕の薬湯が、五つの椀に順に注がれた。注ぐ角度は朝のオンの角度よりも、夕のカヤの角度の方がカナに近かった。同じではない。近い、というだけだった。

 カヤは何も言わなかった。カナの「みんな、元気でいてね」を、誰も口にしなかった。


 口にしないことが二人の中で暗黙の形になっていた。真似ない。引き継ぐのは動きの方だ。声は、声を出した者のところにそのまま残しておく。

 夕の配給が終わった。カヤとオンは杓を鍋の脇に下ろして立ち上がった。



 夜の入り口。ソウは焚き火の脇に戻った。

 戻った場所に、ガランが先に座っていた。座って、二つの椀の方を見ていた。ガランの喉の奥で、低い音が一つ上がった。咳だった。二度。三度ではなかった。咳の後でガランの肩がわずかに上がって、また下がった。

 ガランは口元に掌を当てて下ろし、膝の上に乗せて、低く言った。


「埃だ」


 声はいつもの声だった。ソウは答えなかった。答える代わりに焚き火の脇の二つの椀の方を見た。バアの椀と、カナの椀。掌一つ分の隙間は朝と同じ広さのまま、夕の風の中にあった。

 ガランは二つの椀の方をもう一度見た。見て、低く何か呟いた。

 ソウには聞き取れない四音だった。声は風に乗らず、ガランの口の中で終わっていた。ソウは頷かなかった。頷く動作が今、自分の中で形にならないと知っていた。代わりに火の縁に膝を落とした。

 落とした膝の脇で薪が一本爆ぜた。爆ぜた火の粉が、二つの椀の縁を一度だけ撫でて消えた。


 風が、丘の縁から下りてきた。風は薬草の匂いを運んでいた。今朝オンが鍋の脇で立てた匂いと、夕にカヤが鍋の脇で立てた匂いが、混じった匂いだった。

 二つの匂いが焚き火の脇を抜けて、空き地の縁の住居の革幕の方へ流れた。

 ハマ家の革幕の隙間から、メイの息が一度、深く下りた。震えてはいなかった。

 タル家の革幕の縁では、キイがオンの脇で薄く笑った声が外まで微かに漏れた。一度だけの笑い声で、すぐにまた静かになった。


 日は丘の東側の三つの盛り土の上からゆっくりと消えていった。バアの盛り土、カナの盛り土、トゥの盛り土。三つの盛り土の上に秋の終わりの薄い光が最後に一度だけ乗って、消えた。


 ソウは二つの椀の間の隙間をもう一度見た。隙間は変わらなかった。変わらないまま、夜が丘の縁から上がってきた。


 焚き火の脇では、ガランの肩がもう動かなかった。咳ももう出なかった。

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