第9話「川沿いの土」
播種から一週間が過ぎた。
種は、まだ芽を出さない。
それは予想の範囲内だった。前世の知識では、発芽まで七日から十日ほどかかる。
だが、問題は別のところにあった。
畑は川から少し離れた場所にある。
毎日、水を運ばなければならない。
バアが運んでくれた最初の一回分を除けば、ソウとテツの二人で水汲みをしている。
片道五分ほどの距離だが、皮袋一つ分の水では、二本の溝を一度潤すのがやっとだ。一日に三往復すると、ソウの体は夕方には動かなくなる。
「——人手が、要る」
ソウはガランに、もう一度話しかけた。
*
「水を運びたいだけです。一人か、二人だけで良いんです」
「駄目だ」
ガランの返事は早かった。
「冬越しで、族の皆が疲れとる。狩りの人手は削れん。お前一人でやると、自分で言った」
「……はい」
ソウは退き下がった。
ガランが言ったことは正しかった。
ソウは「一人でやる」と宣言した。その宣言を自分で破れば、次に何か頼む時、ガランは耳を貸さなくなる。
——考え方を変えよう。
ソウは集落へ戻る途中、支流の流れを見ながら歩いた。
川の水がゆるやかに流れている。水は畑の方へ運ぶのではなく、畑の方が水の近くへ行けばいい。
そう考えた瞬間、答えは決まっていた。
——川沿いに、第二の畑を作る。
最初の畑は、すでに種を蒔いてしまっている。動かせない。
だが、種はまだ残っている。第二の畑を川のすぐ近くに作れば、水汲みは要らなくなる。
*
「——で、どこに作るんだ」
テツはソウの説明を聞くと、すぐに立ち上がった。
「川沿いの、東に少し下った場所。平らな地面で、支流が曲がっているところだ」
「あそこは、水が出ると浸かるぞ」
「わかっている。だから、少し高い部分に作る。水が溢れても、浸からない程度の高さの場所」
テツは頷いた。
「行ってみよう」
その場所に着くと、テツはすぐに地面に石鍬を打ち込んだ。
石の刃が——跳ね返った。
「……硬い」
テツは眉をひそめた。
もう一度打ち込んだ。
半分だけ、刃が入った。だが、土を起こそうとすると、鍬の柄にひどい抵抗があった。
土の色を見ると、青黒い。
最初の畑の土とは、明らかに違った。
ソウはしゃがんで土を握った。
「……粘土質だ」
粘土の割合が多い土は、雨が降れば泥になり、乾けば岩のように固くなる。川沿いの低地にはよくある土質だった。
前世の知識では、「粘土質の土は、そのままでは農業に向かない」という常識だった。
テツが不安そうにソウを見た。
「これ、駄目なのか」
「駄目じゃない。でも、このままでは種が根を張れない」
「じゃあ、どうする」
ソウはしばらく考えた。
前世の堆肥の知識を、この世界の素材で翻訳する。
枯れ草、落ち葉、獣の糞、魚の残骸。発酵して、土の構造を柔らかくする。
時間はかかる。だが、原理的にはこの世界でも同じことができるはずだった。
「——枯れ草と、落ち葉と、余った魚の骨や頭を、土に混ぜる」
「……魚?」
「そうだ。腐りかけのものほど、良い」
テツの眉が、さらにひそんだ。
*
翌日から、ソウとテツは枯れ草と落ち葉を集め始めた。
支流の岸沿いには、冬の間に枯れた草が厚く積もっている。それをかき集め、土に混ぜる。落ち葉も冬の林の床から、かごに詰めて運んだ。
問題は、魚の残骸だった。
リアたちが川で捕った魚を、解体したあとの骨や頭を、普段はそのまま川に捨てる。ソウはそれを自分の畑に使いたいと頼んだ。
リアは魚の内臓を切り取りながら、呆れた顔でソウを見た。
「……お前、魚の頭、何に使うの」
「土に、混ぜる」
「臭くなる」
「わかっている。でも、それが土を柔らかくする」
リアはしばらく無言だった。
それから、解体した魚の頭と骨をまとめて皮の袋に入れて、ソウに差し出した。
「好きにすれば」
「……ありがとう」
「礼は要らない。どうせ捨てるものだった」
ソウはその皮袋を受け取った。
リアは付け加えるように言った。
「ただ、臭かったら文句は言う」
*
翌日から、ソウとテツは第二の畑に、枯れ草・落ち葉・魚の残骸を混ぜ込む作業を始めた。
土を一度、深めに掘り返す。
そこに、集めた材料を放り込む。
また土を戻す。上から踏みつける。
この繰り返しだった。
問題は匂いだった。
魚の残骸と、濡れた枯れ葉の発酵の匂いが、畑全体を包んだ。
春先の風は、その匂いを集落まで運んだ。
ムロが顔をしかめて通りかかった。
ムロは族の最年長の男だ。バアと同じくらい年老いていて、杖をついて歩く。だが目だけは鋭く、若い頃は狩人の中でも知られた存在だった。今は、族の「長老」として、ガランの相談役のような立ち位置にいる。
「ソウ」
「はい」
「……何をしておる」
「畑の土を柔らかくするために、枯れ草と魚を混ぜ込んでいます」
ムロは目を細めた。
「不浄なことをしておる」
「……え?」
「死んだものを、土の中に埋める。土は獣の骨を葬る場所じゃ。生き物の残骸を、食べ物と一緒にするものではない」
ソウは少し返答に詰まった。
前世の自分であれば、「腐植の科学」として一言で説明できる話だった。だがこの世界で、「土に死んだものを混ぜれば、土が肥える」という概念は、「死」と「食」を結びつける、違和感のあるものとして映る。
「……土は、怒りませんか」
ソウはあえてこの世界の言葉で返した。
「怒るかどうかは、わしにはわからん」
ムロはそう言って、杖をつき直した。
「じゃが、お前のやっとることには、どこか——違和感がある」
そして、ムロはソウの畑を最後に一度見て、去っていった。
テツはムロの姿が見えなくなってから、小声で言った。
「……なんか、怖いな」
「怖い?」
「うん。ムロ爺さんは普通、そんなに他人のことに口を出さないんだ。今日、わざわざ見に来たってことは——」
テツは言葉を切った。
「これから、もっと色んなことを言うかもしれない、ってことか」
ソウは静かに頷いた。
*
数日後。
ソウは掘り返した第二の畑の土を、手に握ってみた。
最初の時より、ほんの少しだけ指の間からこぼれやすくなっていた。
握れば団子になるが、少し崩れる。
まだ、完璧ではない。
だが、明らかに土の構造が変わり始めていた。
ソウはもう一度、深く掘り返した。
混ざりきっていない枯れ草を、下の方まで押し込んだ。
「テツ」
「なんだ」
「……うまくいきそうだ」
テツは石鍬を肩に担いで、ふうと息を吐いた。
「……本当か?」
「本当だ」
「なら、いい」
テツは空を見上げた。
暖かくなり始めた春の陽が、顔にあたっていた。
「お前のやってること、理屈は俺にはよくわからん。でも、なんか動いてるものがあるのは、わかる」
「……そうか」
「だから、俺もついていくよ」
テツは鍬を下ろして、地面を平らにならし始めた。
ソウはその背中を見て、胸の中で静かに呟いた。
——これで、片方が失敗しても、もう片方が残る。
もし最初の畑が失敗しても、第二の畑がある。
もし第二の畑が失敗しても、最初の畑に賭ける。
二つの畑を持つのは、危険分散の発想だった。
前世の論文で何度も書いたリスク・マネジメントの言葉が、今、土の上で現実になっていた。
*
その夜。
焚き火の前で、ゴウザが誰かと話していた。
「……あいつ、まだ続けてるのか」
「続けてるらしい」
「もう少しすれば、音を上げる」
ソウはその会話を、聞こえる距離で聞いた。
気づかれていないふりをした。
——まだ、音は上げない。
最初の畑から芽が出るかどうか、もうそろそろわかる頃だった。
ソウの頭の中には、二週間後、三週間後までの予定がびっしりと詰まっていた。
雨が降るのか、降らないのか。
鳥が来るのか、来ないのか。
テツの石鍬が、いつ折れそうになるか。
一つ一つに、対応が必要だった。
——やることは、まだ、山ほどある。




