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転生先は夜明け前 ―石器時代から文明を拓く―  作者: 夜摩 高嶺
第一部 播種の章

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第8話「播種の朝」

 春が、静かにやってきた。


 雪の降らないこの地では、春の訪れは風の匂いと地面の色で知れた。湿った土の匂いが強くなり、枯れ草の黄色の下から薄い緑が滲み出してくる。


 ガラの民は、南から北の丘へ戻った。


 冬を越した族民は、誰一人欠けていなかった。バアの咳がひどくなったが、命に関わるものではなかった。ソウが予感していた「冬で誰かが死ぬ」という最悪の事態は、今年は起きなかった。


 ——今年は、だ。


 来年も同じ保証はない。

 だからこそ、今年の春に、蒔く。



 播種の朝は、よく晴れていた。


 ソウとテツは、夜明け前から畑に立っていた。

 昨日までに冬の間に伸びた雑草を抜き、土を軽く起こしておいた。今朝やるのは、溝を掘って種を並べ、土をかぶせる作業だ。


 テツが冬の間に作り上げた石鍬を担いでいた。


 石の刃が朝の光を反射した。持ち手の木は、テツが一冬かけて削って磨いた、滑らかな棒だった。石と木の接合部は、細い革紐で何重にも巻かれていた。


「じゃ、やるぞ」


「……ああ」


 テツが石鍬を振り下ろした。


 石の刃が土に食い込んだ。

 柔らかな土が、二つに割れた。


 ソウはそれを見て、静かに息を吐いた。


 ——耕せた。


 前世の世界では、鉄の鍬が当たり前だった。石で土を耕すという行為そのものが、自分の時代から見れば「原始的」と括られる方法だった。


 だが今、目の前で石の刃が土を割った。

 割られた土が、湿った香りを立てた。


 前世の感覚で見れば、効率は悲しいほど低い。

 だがこの世界の感覚で見れば、これは——新しい技術だった。



 一時間ほど、テツが土を起こし続けた。


 ソウも石鍬を手にしたが、体力が持たなかった。十回ほど振り下ろして、息が上がった。二十回で腕が震え始めた。三十回を超えられなかった。


 テツが手を止めて、ソウを見た。


「お前、無理するな」


「……」


「指示を出せ。俺がやる。お前はどこをどう掘るか、考える役だ」


 ソウは石鍬を置いた。


 悔しさはなかった。

 あきらめに近い、静かな気持ちだった。


 ——この体では、無理だ。

 ——だが、それでいい。

 ——俺にしかできないことは、別にある。


 ソウは土の上に膝をついて、指で線を引いた。


「ここから、ここまで。二本の溝を掘ってくれ。間隔は大人の一歩分」


「——わかった」


 テツは言われた通りに掘った。


 溝は浅く、まっすぐだった。

 等間隔で、二本。

 前世の教科書に載っていた「条播」の、最も原始的な形だった。



 種を蒔く作業は、ソウの担当だった。


 石の容器から、乾いたアムの粒を手のひらに出した。

 一粒一粒が、乾いて、硬くて、小さい。

 この一粒から、いくつの粒が取れるのか。前世の穀物なら、一粒から二十粒、三十粒と取れる。だがこの世界のアムでは、どれくらい取れるのか、ソウ自身もわからない。


 ——わからないから、やるんだ。


 ソウは溝の上に膝をついた。

 指で一粒ずつ、土の上に落とした。


 一粒。

 少し間を置いて、もう一粒。

 前世で読んだ論文の記述が、頭の中で甦った。「初期農耕における播種の基本は、過密を避けること」——一粒と一粒の間は、指二本分くらい。


 ソウは指二本分の間隔を空けながら、種を落としていった。

 二本の溝の端から端まで。


 途中、風が吹いた。

 小さな粒の一つが指から転がって、溝の外に落ちた。

 ソウはそれを拾い、溝の中に戻した。


 ——この一粒も、大事だ。


 ソウは、自分の動作が少し奇妙に映っていることを知っていた。

 だが、止められなかった。



 種を蒔き終えた頃、バアが畑の縁にやってきた。


 手に、水を汲んだ皮袋を持っていた。


「水じゃ」


「……ありがとうございます」


「大地に、何かを返しとるんじゃな」


 バアはそう言って、畑を見回した。


「昔の、精霊の話のようじゃ」


「精霊の話?」


「大地に何かを差し出して、それが何倍にもなって返ってくる、という話があるんじゃ。昔、子供の頃に婆さんから聞いた」


 ソウは黙って聞いた。


 前世の知識では、農業の起源と宗教の起源はしばしば重なると言われていた。「大地に種を埋める」という行為は、供物としての意味合いを持つようになった、という仮説がある。


 だが今、バアから聞いて、その仮説が急に生々しく感じられた。

 供物なのか、理屈なのか。

 その区別はこの世界では、まだはっきりしていない。


「バア」


「うん」


「俺も、正直、祈るような気持ちでやっています」


 バアは少し笑った。


「それが、一番正しい気持ちじゃ」



 土をかぶせる作業は、簡単だった。

 溝に落とした種の上に、テツが軽く土をかき寄せた。

 優しく、平らに。

 踏みつけず、ふんわりと。


 最後にバアが持ってきた水を、細い竹筒で溝に沿って流した。水が染み込んで、土が暗い色に変わった。


 作業が、終わった。


 ソウは土の上に立ち上がった。

 腰が痛かった。膝が震えていた。指先に土の感触が残っていた。


 見下ろす二本の溝は、朝の光の中で黒く湿って、静かだった。

 種はもう見えなかった。

 土の下でこれから何が起きるのか、ソウにも完全には予測できない。


 ——蒔いた。


 それだけだった。

 だがその「それだけ」が、前世の死んでからここまでの十六年間、ずっと待ち望んだ瞬間だった。



 遠くで、リアが弓を担いで歩いていた。


 朝の狩りに出る途中だった。

 リアは畑の方を一度見た。


 何も言わなかった。

 表情も変えなかった。

 だがリアは一度だけ、立ち止まって、畑をじっと見た。


 しばらくしてから視線を戻して、歩き出した。


 ソウはその横顔を、畑の上から見ていた。


 リアに、農業のことを説明する必要はなかった。

 やっていることを、見せればいい。

 見た上でリアが何を思うか、それはリアのものだ。



 帰り道、テツが言った。


「なあ、ソウ」


「なんだ」


「さっき、一粒が溝から落ちた時、お前、すぐに拾ったな」


「……うん」


「あれ、何かあったのか」


 ソウは少し考えてから、言った。


「……一粒が、どれだけ増えるか、わからないんだ」


「増える?」


「一粒から、十になるか、二十になるか、百になるか。もしかしたら、ゼロかもしれない。だから、一粒でも落とせない」


 テツはしばらく黙って歩いた。


「……そうか」


「そうだ」


「じゃあ、俺も溝の外に落ちた種は必ず拾う」


 ソウは頷いた。


 二人の歩幅は、ゆっくりだった。

 だが、足元の地面は確実に、今朝より春に近づいていた。


 ——あとは、待つ。


 待つのは、ソウにとって最も苦手なことの一つだった。

 だが、農業は待つしかない仕事だった。


 種がどう答えるか。

 それは土と、水と、太陽と、時間が決める。


 ソウは大きく息を吸った。

 春の匂いが胸いっぱいに広がった。

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