第8話「播種の朝」
春が、静かにやってきた。
雪の降らないこの地では、春の訪れは風の匂いと地面の色で知れた。湿った土の匂いが強くなり、枯れ草の黄色の下から薄い緑が滲み出してくる。
ガラの民は、南から北の丘へ戻った。
冬を越した族民は、誰一人欠けていなかった。バアの咳がひどくなったが、命に関わるものではなかった。ソウが予感していた「冬で誰かが死ぬ」という最悪の事態は、今年は起きなかった。
——今年は、だ。
来年も同じ保証はない。
だからこそ、今年の春に、蒔く。
*
播種の朝は、よく晴れていた。
ソウとテツは、夜明け前から畑に立っていた。
昨日までに冬の間に伸びた雑草を抜き、土を軽く起こしておいた。今朝やるのは、溝を掘って種を並べ、土をかぶせる作業だ。
テツが冬の間に作り上げた石鍬を担いでいた。
石の刃が朝の光を反射した。持ち手の木は、テツが一冬かけて削って磨いた、滑らかな棒だった。石と木の接合部は、細い革紐で何重にも巻かれていた。
「じゃ、やるぞ」
「……ああ」
テツが石鍬を振り下ろした。
石の刃が土に食い込んだ。
柔らかな土が、二つに割れた。
ソウはそれを見て、静かに息を吐いた。
——耕せた。
前世の世界では、鉄の鍬が当たり前だった。石で土を耕すという行為そのものが、自分の時代から見れば「原始的」と括られる方法だった。
だが今、目の前で石の刃が土を割った。
割られた土が、湿った香りを立てた。
前世の感覚で見れば、効率は悲しいほど低い。
だがこの世界の感覚で見れば、これは——新しい技術だった。
*
一時間ほど、テツが土を起こし続けた。
ソウも石鍬を手にしたが、体力が持たなかった。十回ほど振り下ろして、息が上がった。二十回で腕が震え始めた。三十回を超えられなかった。
テツが手を止めて、ソウを見た。
「お前、無理するな」
「……」
「指示を出せ。俺がやる。お前はどこをどう掘るか、考える役だ」
ソウは石鍬を置いた。
悔しさはなかった。
あきらめに近い、静かな気持ちだった。
——この体では、無理だ。
——だが、それでいい。
——俺にしかできないことは、別にある。
ソウは土の上に膝をついて、指で線を引いた。
「ここから、ここまで。二本の溝を掘ってくれ。間隔は大人の一歩分」
「——わかった」
テツは言われた通りに掘った。
溝は浅く、まっすぐだった。
等間隔で、二本。
前世の教科書に載っていた「条播」の、最も原始的な形だった。
*
種を蒔く作業は、ソウの担当だった。
石の容器から、乾いたアムの粒を手のひらに出した。
一粒一粒が、乾いて、硬くて、小さい。
この一粒から、いくつの粒が取れるのか。前世の穀物なら、一粒から二十粒、三十粒と取れる。だがこの世界のアムでは、どれくらい取れるのか、ソウ自身もわからない。
——わからないから、やるんだ。
ソウは溝の上に膝をついた。
指で一粒ずつ、土の上に落とした。
一粒。
少し間を置いて、もう一粒。
前世で読んだ論文の記述が、頭の中で甦った。「初期農耕における播種の基本は、過密を避けること」——一粒と一粒の間は、指二本分くらい。
ソウは指二本分の間隔を空けながら、種を落としていった。
二本の溝の端から端まで。
途中、風が吹いた。
小さな粒の一つが指から転がって、溝の外に落ちた。
ソウはそれを拾い、溝の中に戻した。
——この一粒も、大事だ。
ソウは、自分の動作が少し奇妙に映っていることを知っていた。
だが、止められなかった。
*
種を蒔き終えた頃、バアが畑の縁にやってきた。
手に、水を汲んだ皮袋を持っていた。
「水じゃ」
「……ありがとうございます」
「大地に、何かを返しとるんじゃな」
バアはそう言って、畑を見回した。
「昔の、精霊の話のようじゃ」
「精霊の話?」
「大地に何かを差し出して、それが何倍にもなって返ってくる、という話があるんじゃ。昔、子供の頃に婆さんから聞いた」
ソウは黙って聞いた。
前世の知識では、農業の起源と宗教の起源はしばしば重なると言われていた。「大地に種を埋める」という行為は、供物としての意味合いを持つようになった、という仮説がある。
だが今、バアから聞いて、その仮説が急に生々しく感じられた。
供物なのか、理屈なのか。
その区別はこの世界では、まだはっきりしていない。
「バア」
「うん」
「俺も、正直、祈るような気持ちでやっています」
バアは少し笑った。
「それが、一番正しい気持ちじゃ」
*
土をかぶせる作業は、簡単だった。
溝に落とした種の上に、テツが軽く土をかき寄せた。
優しく、平らに。
踏みつけず、ふんわりと。
最後にバアが持ってきた水を、細い竹筒で溝に沿って流した。水が染み込んで、土が暗い色に変わった。
作業が、終わった。
ソウは土の上に立ち上がった。
腰が痛かった。膝が震えていた。指先に土の感触が残っていた。
見下ろす二本の溝は、朝の光の中で黒く湿って、静かだった。
種はもう見えなかった。
土の下でこれから何が起きるのか、ソウにも完全には予測できない。
——蒔いた。
それだけだった。
だがその「それだけ」が、前世の死んでからここまでの十六年間、ずっと待ち望んだ瞬間だった。
*
遠くで、リアが弓を担いで歩いていた。
朝の狩りに出る途中だった。
リアは畑の方を一度見た。
何も言わなかった。
表情も変えなかった。
だがリアは一度だけ、立ち止まって、畑をじっと見た。
しばらくしてから視線を戻して、歩き出した。
ソウはその横顔を、畑の上から見ていた。
リアに、農業のことを説明する必要はなかった。
やっていることを、見せればいい。
見た上でリアが何を思うか、それはリアのものだ。
*
帰り道、テツが言った。
「なあ、ソウ」
「なんだ」
「さっき、一粒が溝から落ちた時、お前、すぐに拾ったな」
「……うん」
「あれ、何かあったのか」
ソウは少し考えてから、言った。
「……一粒が、どれだけ増えるか、わからないんだ」
「増える?」
「一粒から、十になるか、二十になるか、百になるか。もしかしたら、ゼロかもしれない。だから、一粒でも落とせない」
テツはしばらく黙って歩いた。
「……そうか」
「そうだ」
「じゃあ、俺も溝の外に落ちた種は必ず拾う」
ソウは頷いた。
二人の歩幅は、ゆっくりだった。
だが、足元の地面は確実に、今朝より春に近づいていた。
——あとは、待つ。
待つのは、ソウにとって最も苦手なことの一つだった。
だが、農業は待つしかない仕事だった。
種がどう答えるか。
それは土と、水と、太陽と、時間が決める。
ソウは大きく息を吸った。
春の匂いが胸いっぱいに広がった。




