第7話「冬を越える知恵」
冬は、想像していたよりも厳しかった。
雪は、この地では降らない。だが、夜の冷え込みは骨を凍らせた。獣皮の下に潜り込んでも、体の奥が震える。朝、焚き火の灰が凍っていることがあった。
そして、食料が減り始めていた。
冬の低地には獣が集まってくると言われていたが、この年はそれが少なかった。南の平原の獲物が、さらに南へ抜けてしまったらしい。北の丘から降りてきたガラの民は、空振りの狩りが続いていた。
族民の顔から、笑顔が消え始めた。
——このままでは、腹を減らして春を迎える。
ソウは自分の体もだが、それ以上に、バアのような年寄りや幼い子供たちのことが気になった。
*
「ソウ、何をじっと見ておる」
バアがソウの横に座った。
ソウは、罠にかかった小さな兎が狩人の手からすっぽ抜けて逃げていく光景を、遠くから見ていたところだった。
「……罠が、うまく獲物を掴めてないのが気になって」
「そうかい」
「罠を、改良したい」
バアは少し考えてから、言った。
「言うてみなさい」
ソウは焚き火の前で、地面に小枝で絵を描いた。
現在の罠は、落とし穴のような単純なものだった。地面に浅い穴を掘り、上に枝を渡して、獲物が踏んだら落ちる。だがこれは、穴から獲物がよじ登って逃げることが多い。
ソウが提案したのは、「くくり罠」だった。
しなやかな枝で輪を作り、その輪に獲物の足が入ると、枝の弾力で輪が締まる。獣が暴れれば暴れるほど、締まりは強くなる。
テツが横から覗き込んだ。
「……それ、面白い」
テツが「面白い」と言えば、あとはもう半日で形になる。
テツはしなやかな若木を曲げ、石の重りと、細い革紐を組み合わせた。仕掛けを三つ、獣道に仕掛けた。
翌朝。
三つの罠のうち、二つに兎が掛かっていた。
一つは完璧に掴んでいた。もう一つはもがいて枝が折れていたが、獲物は逃げずに残っていた。
テツが両手で兎を掲げた。
「——これ、すごいぞ」
狩人の一人が、遠くから見ていた。
ガラの民の中で、罠は「狩りの本筋」ではない。本筋は弓と槍だ。罠は副次的で、当たれば嬉しい程度の扱いだった。
だが今朝の二匹は、弓と槍ではこの場所で獲れなかった獲物だった。
*
次にソウが取り組んだのは、火起こしだった。
ガラの民の火起こしは、「きりもみ式」が主流だった。両手で棒を挟み、板に押し付けて、手のひらで高速に回転させる。摩擦熱で火種を作る方法だ。
問題は、時間がかかることだった。
腕力のある男でも、半刻かかることがある。朝の冷え切った体で半刻きりもみを続けるのは、拷問に近かった。
ソウは前世の記憶から「弓きり式」を提案した。
弓の弦を火起こしの棒に一度巻きつける。弓を前後に動かせば、棒は高速に回転する。両腕ではなく、片腕の前後運動で、一定の速度が保てる。
テツに図を描いて見せた。
「……これ、本当に回るのか」
「回る。弦を強く巻いて、下向きに少し押さえれば、回る」
テツは半日で試作を組み上げた。
最初は弦が緩すぎて、棒が空回りした。
次に強く巻きすぎて、弓がしなって折れそうになった。
三度目で、ちょうど良い張りが見つかった。
棒が、高速で回転した。
煙がするすると立ち上った。
四分の一刻もかからずに、火種が落ちた。
テツが目を見張った。
「……速い」
「そうだろう」
「きりもみの、半分以下だ」
火起こしの場にいたガランが、黙って見ていた。
族長は、火種が落ちた瞬間、わずかに眉を上げた。口は開かなかった。だがその「少しの驚き」を、ソウは見逃さなかった。
——また一つ、記憶された。
煙の肉、罠の改良、弓きり式の火起こし。
族長の頭の中で、「あの若造」の記憶が、少しずつ増えていっている。
*
冬の最中でも、テツは石を削り続けていた。
ソウはそんなテツに、次の道具の話をした。
「鍬みたいな道具が、欲しい」
「鍬?」
「畑を耕す時に使う。平たい石を、柄の先につける。土を掘り返すための道具だ」
ソウは地面に絵を描いた。
テツはしばらく黙って見ていた。
「……石を、木に括りつけるのか」
「そうだ」
「括りつけるだけじゃ、石が外れる」
「だから、石に穴を開けるか、切れ込みを作る。そこに柄を通して、紐で固定する」
「石に、穴……」
テツは興奮した目でソウを見た。
「お前、穴の開け方、知ってるのか」
「硬い砂ともう一本の石を使えば、根気で開く。水を流しながらやれば、もっと速い」
テツはもうそれ以上、質問しなかった。
次の日から石に穴を開ける練習を始めた。
冬の間ずっと、夜までその作業を続けていた。
*
カナが、毛皮の工夫をしていた。
ソウがある日の焚き火の前で、カナに話しかけた。
「カナ。もし、毛皮を二枚重ねて、間に乾いた草を詰めたら、温かくなると思わないか」
カナは目を丸くした。
「草?」
「乾いた草には、空気が入っている。その空気が、体の熱を逃がさない」
「……そういうものなの?」
「試してみる価値はある」
カナは次の日、古い毛皮を二枚縫い合わせ、間に乾かした草をみっしりと詰めた。小さな敷物のようなものを作って、それを自分の寝床に敷いた。
翌朝、カナは嬉しそうに駆け寄ってきた。
「ソウ、あれ、あったかい! 本当に、あったかい!」
その日のうちに、同じ作りの毛皮を、何人もが真似し始めた。バアにも一つ作って差し入れた。
バアは夜、毛皮を抱きしめて眠った翌朝、ソウに言った。
「……お前、わしの体を救ったかもしれん」
ソウは何も答えられなかった。
前世で、祖母の介護ができなかった記憶が、胸の底で少しだけ動いた。
*
冬の底が近づいた頃。
食料の備蓄が、本当にぎりぎりになった。
狩人たちの顔に焦りが浮かび始めた。
ゴウザがガランに噛みついた。
「族長。早く移動すべきだ。この場所はもう獲物が尽きた。北に戻るか、さらに南へ行くか、決めろ」
「……北に戻る」
ガランは、短くそう言った。
「まだ冬は明けていない。北はもっと寒い」
「わかっている。だが、北に戻った方が春に間に合う。ここに留まれば獲物がない。北ならば、少なくとも慣れた土地だ」
ガランの判断は早かった。
翌日、族は荷物をまとめて、北への移動を始めた。
ソウにとっては、願ってもない展開だった。
整地した畑の場所に、早く戻れる。
だがもちろん、それは族長の判断材料にはなっていない。族長は、族全体の冬越しのことだけを考えて、北への撤退を決めた。
*
夜、バアがソウの隣に座った。
「冬は、人を試す」
「試す?」
「ああ。寒さも、食料の乏しさも、全部が人を試す。この冬を越した者は、少しだけ強くなる」
「……そうですか」
「でも、冬があるから、春の芽吹きが嬉しいんじゃよ」
バアはそう言って、火に手をかざした。
ソウは自分の荷物の中から、石の容器を取り出した。
蓋を開けた。
中のアムの粒は、乾いたまま無事だった。
春まで、あと少し。
バアはソウの手の中の石の容器を見て、静かに微笑んだ。
「その粒も、冬を越すんじゃな」
「越します」
「……種と人は、似とるね」
バアの言葉がソウの胸に、妙にくっきりと残った。
*
数日後、族は北の丘が見える所まで戻ってきた。
遠くに、秋の終わりに整地したばかりの、小さな平地が見えた。
冬の間、誰も手をかけていない。雑草が伸び、動物の足跡が縦横に走っている。
だが、土そのものはそこにあった。
ソウが選んだ、陽当たりの良い、川に近い土地はそのまま残っていた。
ソウは胸の奥で小さく息を吐いた。
——春が、来る。
春が来たら、蒔く。
今度こそ、この土地を変える。
振り向くと、テツが隣に立っていた。
肩に、冬の間に作った石鍬を担いでいた。
テツは地面を足で軽く蹴った。
「……硬いな、土」
「春になれば、柔らかくなる」
「そうか」
テツはにっと笑った。
冬は、まだ完全には明けていない。
だが、風の匂いは少しだけ、違う方向を向き始めていた。




