第6話「南へ、種を抱えて」
晩秋は急ぎ足でやってきた。
朝の霜が草を白く縁取り、風は骨に刺さる冷たさを帯び始めた。ガラの民は、例年通り、冬の移動準備を始めた。
北の丘から、南の低地へ。
十日ほどかけて、支流の流れを下っていく。低地には窪地や洞窟があり、冬を越しやすい。獲物も、北の寒さから逃れて南へ下ってくるから、狩りの効率がいい。これが、ガラの民が何百年も繰り返してきた冬の知恵だった。
ソウは、自分のジレンマを、はっきりと理解していた。
整地した畑の場所から、離れたくない。
だが、一人で残れば、間違いなく死ぬ。
食料がない。火を絶やす知恵もない。寒さを凌げるだけの住居を、一人で作る技術もない。
——テツに相談するしかない。
*
「種を、持っていけばいいんじゃないか」
テツはあっさりとそう言った。
ソウは一瞬、固まった。
「種を……持って?」
「畑の場所を守りたいんだろ。でも場所は、逃げない。種さえ春まで持てば、戻ってから蒔ける」
ソウは、目眩のような感覚を覚えた。
前世の自分なら、一晩かけて考えた答えを、テツは三秒で出した。知識の量ではなく、発想の筋道だ。テツの頭の中には、「固定観念」というものが、ほぼ存在しない。
「……その通りだ」
「だろ?」
テツは鼻を鳴らすように笑った。
「で、種はどうやって持ち運ぶんだ」
そこから先が、ソウの領分だった。
種子の保存——湿気と虫から守る必要がある。前世の知識で言えば、乾燥と密閉が鉄則だ。だがこの世界には、まだ密閉容器がない。
ソウは、バアを頼った。
「薬草は、どうやって保ちますか」
「陰干しじゃよ。風通しのいい所に吊るして、じっくり乾かす。水気を抜いたものは、虫もあまり寄ってこん」
「それです」
ソウはバアから教わった方法で、アムの穂を陰干しした。半月ほどかけて、ゆっくり、ゆっくり、水気を抜く。乾ききった穂から、丁寧に粒だけを外す。
次は、入れ物だった。
*
「テツ、石で入れ物は作れるか」
「……石?」
テツは首を傾げた。石で入れ物という発想が、この世界にはまだなかった。
「硬い石を、くり抜くんだ。中に空間を作る」
「穴を掘る、ってことか」
「そうだ。石の中に、小さな穴を掘る」
「……お前、面白いことを考えるな」
テツは嬉しそうに目を光らせた。
三日かけて、テツは大きめの凝灰岩のような、比較的柔らかい石を削った。石の中央に、指が二本入るくらいの浅い凹みを作り、上に蓋になる薄い石を重ねた。
それが、ガラの民の歴史で最初の、「石の容器」だった。
ソウは、乾燥したアムの粒を、その容器に詰めた。
蓋をした時、テツがぽつりと言った。
「……これ、何か、祈ってるみたいだな」
「祈る?」
「うん。神様に、『春まで守ってくれ』って」
ソウは石の容器を両手で抱えた。
その通りだと思った。
前世なら科学的な処理と呼ぶものが、この世界では祈りに似た行為になる。理屈と祈り。両方の気持ちが、胸の中に同居していた。
*
作業をしていたテツのもとに、一人の少女がやってきた。
「テツ、ご飯食べた?」
少女は、両手に焼いた魚を抱えていた。
カナという名前だった。
テツと同い年の幼馴染で、少し歳上の姉のような雰囲気がある。丸い頬、少しだけ黒い肌、よく笑う女の子だった。
「また食べ忘れてたでしょう」
「……忘れてた」
「もう。石ばっかり削ってるから、お腹減ったのも気づかないのよ」
カナはそう言って、焼き魚をテツに押し付けた。そして、ソウにも一切れ差し出した。
「ソウもどうぞ。テツに付き合って何かしてくれてるんでしょう。お腹減ってるはずよ」
「ありがとう」
ソウは受け取った。
温かかった。焼いたばかりの魚の温度が、両手に伝わった。
カナは二人の横にしゃがんで、石の容器を覗き込んだ。
「これ、何を入れるの?」
「粒だ。食べ物になるかもしれない粒」
「……食べ物? どうやって?」
ソウが簡単に説明すると、カナは目を丸くした。
「種を、土に埋める……?」
「そうだ」
「……想像もつかないけど、でも、面白そう」
カナはそう言って、にっこり笑った。
「春が、楽しみだね」
ソウは頷いた。
カナの笑顔は、少しだけ、バアの若い頃の笑顔に似ている気がした。前世で資料として見た民族誌の中の、生きている人の、素直な笑顔。
「カナ」
「うん?」
「ありがとう。魚、うまかった」
「どういたしまして」
カナはそう言って、立ち上がった。
「じゃあ、私、洗い物。テツ、また後でね」
「おう」
カナが去った後、テツは静かに言った。
「カナは、昔から、こうなんだ」
「……そうか」
「俺が変なことしてても、叱らない。面白がってくれる。たまにこうして飯を持ってくる」
テツはそう言って、焼き魚を頬張った。
ソウはその横顔を見て、静かに胸に刻んだ。
——この子を、守らなければならない。
なぜそう思ったのか、ソウには説明できなかった。
ただ、そう思った。
*
冬の移動が始まった。
二十三人の族民が、荷物を背負って南へ歩く。子供たちは走り回り、大人たちは重い皮袋を担ぎ、バアのような年寄りは杖をついて、それでも歩く速さは遅くなかった。
ソウは、石の容器を皮で包んで、背中に背負っていた。
他の荷物は少なかった。それでも、半日歩いた頃には、列から遅れ始めていた。
息が、上がっていた。
脚が、鉛のように重かった。
——駄目だ、このままでは置いていかれる。
ソウは歯を食いしばった。
だが、体はついてこない。
誰かが、横で足を止めた。
リアだった。
リアは無言で、ソウの背中から石の容器の包みを受け取った。
「……重そう」
「大丈夫だ、自分で持てる」
「持てなくなってるよ」
リアは、ソウの返事を待たずに、それを自分の肩に担ぎ直した。
「……すまない」
「別に。ただ、遅れると全員が迷惑する。それだけ」
そう言って、リアは先を歩き始めた。
ソウは、少しだけ荷物が軽くなった背で、リアの後ろを歩いた。
リアは、ソウを助けたのではない。
族の流れを乱さないために、荷物を減らしただけだ。
それでも——リアが、ソウの荷物を担ぐことを、選んだ。
その事実が、ソウの胸に残った。
*
移動の途中、小さな騒ぎがあった。
列の後ろで、幼い子供が赤い実を拾っていた。
鮮やかな朱色の、小さな丸い実。子供は口に入れようとしていた。
ソウは、咄嗟に叫んだ。
「食べるな!」
子供は驚いて、手を止めた。母親が振り返り、ソウを睨んだ。
「何よ」
「……その実、毒かもしれない」
「赤い実よ? 鳥も食べてるじゃない」
「鳥と人の体は違う。鮮やかすぎる色の実は、危険なものが多い。特に、苦味の強い葉がついているやつは」
母親は眉を寄せた。バアが横から口を挟んだ。
「……確かに、あの実は、腹を壊すよ。わしも昔、若い子にやったことがある。半日苦しんで、命は助かったがな」
母親の顔色が変わった。慌てて子供の手から実を払い落とした。
バアがソウを見た。
「お前、なぜ知っとる」
「……昔、誰かから聞きました」
「また『誰か』かね」
バアは笑った。
だがその時、もう一人、黙って聞いている人物がいた。
リアだった。
リアは少し離れた場所で、ソウとバアのやり取りを聞いていた。表情は変えなかった。ただ、ソウの横顔を、少しの間、まっすぐ見ていた。
——このソウという男は、狩りはできない。
——力仕事もできない。
——だが、知っていることが、多い。
その種の認識が、リアの頭の中で、少しずつ形を変え始めていた。
*
南の低地に着いたのは、十日後の夕方だった。
見慣れた窪地が広がり、族の冬越しの拠点になる場所。風が弱く、水もある。獣の気配も、北より多い。
ソウは、石の容器の包みを、自分の寝床の横に置いた。
春まで、これを守る。
それが、この冬の一番の仕事だった。
その夜、ソウは眠る前に、背負ってきた荷物の中から小さな木片を取り出した。テツが歩きながら削っていた、火起こし道具の試作品だった。
——冬を越さなければならない。
種だけではない。
ソウ自身もこの冬を生き延びなければならない。
体力のない、十六歳の、役立たずとされている体で。
やることはいくらでもあった。




