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転生先は夜明け前 ―石器時代から文明を拓く―  作者: 夜摩 高嶺
第一部 播種の章

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第6話「南へ、種を抱えて」

 晩秋は急ぎ足でやってきた。


 朝の霜が草を白く縁取り、風は骨に刺さる冷たさを帯び始めた。ガラの民は、例年通り、冬の移動準備を始めた。


 北の丘から、南の低地へ。


 十日ほどかけて、支流の流れを下っていく。低地には窪地や洞窟があり、冬を越しやすい。獲物も、北の寒さから逃れて南へ下ってくるから、狩りの効率がいい。これが、ガラの民が何百年も繰り返してきた冬の知恵だった。


 ソウは、自分のジレンマを、はっきりと理解していた。


 整地した畑の場所から、離れたくない。

 だが、一人で残れば、間違いなく死ぬ。

 食料がない。火を絶やす知恵もない。寒さを凌げるだけの住居を、一人で作る技術もない。


 ——テツに相談するしかない。



「種を、持っていけばいいんじゃないか」


 テツはあっさりとそう言った。


 ソウは一瞬、固まった。


「種を……持って?」


「畑の場所を守りたいんだろ。でも場所は、逃げない。種さえ春まで持てば、戻ってから蒔ける」


 ソウは、目眩のような感覚を覚えた。


 前世の自分なら、一晩かけて考えた答えを、テツは三秒で出した。知識の量ではなく、発想の筋道だ。テツの頭の中には、「固定観念」というものが、ほぼ存在しない。


「……その通りだ」


「だろ?」


 テツは鼻を鳴らすように笑った。


「で、種はどうやって持ち運ぶんだ」


 そこから先が、ソウの領分だった。


 種子の保存——湿気と虫から守る必要がある。前世の知識で言えば、乾燥と密閉が鉄則だ。だがこの世界には、まだ密閉容器がない。


 ソウは、バアを頼った。


「薬草は、どうやって保ちますか」


「陰干しじゃよ。風通しのいい所に吊るして、じっくり乾かす。水気を抜いたものは、虫もあまり寄ってこん」


「それです」


 ソウはバアから教わった方法で、アムの穂を陰干しした。半月ほどかけて、ゆっくり、ゆっくり、水気を抜く。乾ききった穂から、丁寧に粒だけを外す。


 次は、入れ物だった。



「テツ、石で入れ物は作れるか」


「……石?」


 テツは首を傾げた。石で入れ物という発想が、この世界にはまだなかった。


「硬い石を、くり抜くんだ。中に空間を作る」


「穴を掘る、ってことか」


「そうだ。石の中に、小さな穴を掘る」


「……お前、面白いことを考えるな」


 テツは嬉しそうに目を光らせた。


 三日かけて、テツは大きめの凝灰岩のような、比較的柔らかい石を削った。石の中央に、指が二本入るくらいの浅い凹みを作り、上に蓋になる薄い石を重ねた。


 それが、ガラの民の歴史で最初の、「石の容器」だった。


 ソウは、乾燥したアムの粒を、その容器に詰めた。


 蓋をした時、テツがぽつりと言った。


「……これ、何か、祈ってるみたいだな」


「祈る?」


「うん。神様に、『春まで守ってくれ』って」


 ソウは石の容器を両手で抱えた。

 その通りだと思った。


 前世なら科学的な処理と呼ぶものが、この世界では祈りに似た行為になる。理屈と祈り。両方の気持ちが、胸の中に同居していた。



 作業をしていたテツのもとに、一人の少女がやってきた。


「テツ、ご飯食べた?」


 少女は、両手に焼いた魚を抱えていた。


 カナという名前だった。

 テツと同い年の幼馴染で、少し歳上の姉のような雰囲気がある。丸い頬、少しだけ黒い肌、よく笑う女の子だった。


「また食べ忘れてたでしょう」


「……忘れてた」


「もう。石ばっかり削ってるから、お腹減ったのも気づかないのよ」


 カナはそう言って、焼き魚をテツに押し付けた。そして、ソウにも一切れ差し出した。


「ソウもどうぞ。テツに付き合って何かしてくれてるんでしょう。お腹減ってるはずよ」


「ありがとう」


 ソウは受け取った。

 温かかった。焼いたばかりの魚の温度が、両手に伝わった。


 カナは二人の横にしゃがんで、石の容器を覗き込んだ。


「これ、何を入れるの?」


「粒だ。食べ物になるかもしれない粒」


「……食べ物? どうやって?」


 ソウが簡単に説明すると、カナは目を丸くした。


「種を、土に埋める……?」


「そうだ」


「……想像もつかないけど、でも、面白そう」


 カナはそう言って、にっこり笑った。


「春が、楽しみだね」


 ソウは頷いた。


 カナの笑顔は、少しだけ、バアの若い頃の笑顔に似ている気がした。前世で資料として見た民族誌の中の、生きている人の、素直な笑顔。


「カナ」


「うん?」


「ありがとう。魚、うまかった」


「どういたしまして」


 カナはそう言って、立ち上がった。


「じゃあ、私、洗い物。テツ、また後でね」


「おう」


 カナが去った後、テツは静かに言った。


「カナは、昔から、こうなんだ」


「……そうか」


「俺が変なことしてても、叱らない。面白がってくれる。たまにこうして飯を持ってくる」


 テツはそう言って、焼き魚を頬張った。


 ソウはその横顔を見て、静かに胸に刻んだ。

 ——この子を、守らなければならない。


 なぜそう思ったのか、ソウには説明できなかった。

 ただ、そう思った。



 冬の移動が始まった。


 二十三人の族民が、荷物を背負って南へ歩く。子供たちは走り回り、大人たちは重い皮袋を担ぎ、バアのような年寄りは杖をついて、それでも歩く速さは遅くなかった。


 ソウは、石の容器を皮で包んで、背中に背負っていた。

 他の荷物は少なかった。それでも、半日歩いた頃には、列から遅れ始めていた。


 息が、上がっていた。

 脚が、鉛のように重かった。


 ——駄目だ、このままでは置いていかれる。


 ソウは歯を食いしばった。

 だが、体はついてこない。


 誰かが、横で足を止めた。

 リアだった。


 リアは無言で、ソウの背中から石の容器の包みを受け取った。


「……重そう」


「大丈夫だ、自分で持てる」


「持てなくなってるよ」


 リアは、ソウの返事を待たずに、それを自分の肩に担ぎ直した。


「……すまない」


「別に。ただ、遅れると全員が迷惑する。それだけ」


 そう言って、リアは先を歩き始めた。


 ソウは、少しだけ荷物が軽くなった背で、リアの後ろを歩いた。


 リアは、ソウを助けたのではない。

 族の流れを乱さないために、荷物を減らしただけだ。


 それでも——リアが、ソウの荷物を担ぐことを、選んだ。


 その事実が、ソウの胸に残った。



 移動の途中、小さな騒ぎがあった。


 列の後ろで、幼い子供が赤い実を拾っていた。

 鮮やかな朱色の、小さな丸い実。子供は口に入れようとしていた。


 ソウは、咄嗟に叫んだ。


「食べるな!」


 子供は驚いて、手を止めた。母親が振り返り、ソウを睨んだ。


「何よ」


「……その実、毒かもしれない」


「赤い実よ? 鳥も食べてるじゃない」


「鳥と人の体は違う。鮮やかすぎる色の実は、危険なものが多い。特に、苦味の強い葉がついているやつは」


 母親は眉を寄せた。バアが横から口を挟んだ。


「……確かに、あの実は、腹を壊すよ。わしも昔、若い子にやったことがある。半日苦しんで、命は助かったがな」


 母親の顔色が変わった。慌てて子供の手から実を払い落とした。


 バアがソウを見た。


「お前、なぜ知っとる」


「……昔、誰かから聞きました」


「また『誰か』かね」


 バアは笑った。


 だがその時、もう一人、黙って聞いている人物がいた。


 リアだった。


 リアは少し離れた場所で、ソウとバアのやり取りを聞いていた。表情は変えなかった。ただ、ソウの横顔を、少しの間、まっすぐ見ていた。


 ——このソウという男は、狩りはできない。

 ——力仕事もできない。

 ——だが、知っていることが、多い。


 その種の認識が、リアの頭の中で、少しずつ形を変え始めていた。



 南の低地に着いたのは、十日後の夕方だった。


 見慣れた窪地が広がり、族の冬越しの拠点になる場所。風が弱く、水もある。獣の気配も、北より多い。


 ソウは、石の容器の包みを、自分の寝床の横に置いた。


 春まで、これを守る。

 それが、この冬の一番の仕事だった。


 その夜、ソウは眠る前に、背負ってきた荷物の中から小さな木片を取り出した。テツが歩きながら削っていた、火起こし道具の試作品だった。


 ——冬を越さなければならない。


 種だけではない。

 ソウ自身もこの冬を生き延びなければならない。

 体力のない、十六歳の、役立たずとされている体で。


 やることはいくらでもあった。

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