第5話「アムを探して」
翌日から、ソウは支流沿いを歩き始めた。
目的は、穂をつけた野草を探すことだ。前世の記憶にある麦や稲そのものが、この世界にあるとは思っていない。だが、禾本科の植物なら、きっとどこかにある。食べられる種子をつける草は、自然界に必ず存在する。
問題は、体力だ。
朝、集落を出て川沿いを半刻歩いただけで、ソウは膝に手をついて休まなければならなかった。足の筋肉が燃えるように痛んだ。息は、ずっと浅い呼吸になっている。
——情けない。
ソウは前世で、大学院までほぼ運動をしなかった。その報いが、この世界の体にまで引き継がれている。
それでも、歩いた。
歩かなければ、種は見つからない。
見つからなければ、何も始まらない。
*
三日目の朝、支流沿いを歩いているソウの横を、リアが通り過ぎた。
リアは、肩に矢筒を背負い、手には弓を持っていた。朝の狩りに出る途中だった。
リアはソウを横目で見た。
「何してるの」
「……草を、探している」
「草?」
「食べられる種子をつける草だ」
リアは足を止めた。
眉をひそめて、ソウの顔をまじまじと見た。
「お前、まだその話、続けてるの?」
「続けている」
「族長に却下されたんでしょう」
「却下された。でも、一人でやれと言われた」
リアは呆れたように大きく息を吐いた。
「……馬鹿じゃないの」
それはいつもの毒舌だった。
だが、リアは、その場をすぐには離れなかった。
「お前、体力もないくせに、毎日どこまで行く気なの」
「……行けるところまで」
「倒れても、誰も拾いにこないよ」
「わかってる」
リアは、もう一度、呆れた顔をした。
そして、何も言わずに、朝の狩場の方へ歩いていった。
だがリアは——去り際に一度だけ、振り返った。
ソウには、その視線が何を意味しているのか、わからなかった。軽蔑にしては、少しだけ柔らかかった。心配にしては、少しだけ硬かった。
——ただ、見られている。
それだけが、確かなことだった。
*
発見は、五日目の午後にあった。
支流の少し上流の、小さな入り江のような湿地帯。普段、狩人は通らない場所だ。獣が少なく、歩きにくい。
そこに、腰の高さまである群生地があった。
細い茎の先に、小さな穂。
穂には、硬い外皮に包まれた粒がびっしりとついていた。
ソウは膝をついた。
一本の穂を、そっと指で挟んだ。
外皮を歯で割った。
中から、乳白色の小さな粒が出てきた。
前世の麦でも、稲でもなかった。
大きさは稗に近い。形は粟に近い。だが、前世のどの穀物とも、完全には一致しない。
噛んでみた。
渋みがあった。生のままでは食べにくい。
だが、粉にして水と練れば——食える。
ソウは膝をついたまま、小さく息を吐いた。
「……アム」
思わず、そう口にした。
ガラの民の言葉で「粒」を意味する言葉だった。
前世の「麦」や「稲」という名前は、この世界には似合わない。この世界で見つけた穀物には、この世界の名前を与えるべきだった。
アム。
口に出すと、自分の声が少し震えていることに気づいた。
*
集落に戻ると、バアが薪を束ねていた。
ソウの手に握られた穂の束を見て、バアは手を止めた。
「それは、何じゃね」
「食べられるかもしれない、粒です」
バアは穂を受け取り、指で外皮を剥いた。中から出てきた小さな粒を、じっと見つめた。
「……見たことがある」
「え?」
「この草は、あちこちに生えとる。誰も食わんがな。硬くて、渋くて、鳥しか食わんからの」
「俺は、これを食えるようにしたい」
バアは、ソウの顔を見た。
それから、小さく笑った。
「面白いことを考える子じゃ」
「バア、他に同じ草が生えている場所を知っていますか」
「知っておるよ。薬草を集めるついでに、見かけておるから」
バアは指で地面に簡単な地図を描いた。支流の上流、北の丘の裏、東の林の縁。三箇所、アムの群生地があるという。
ソウは、その情報の価値を、すぐに理解した。
前世の自分が一ヶ月かけて探しても、三箇所は見つけられなかっただろう。この世界で薬草を集めて六十年以上歩いてきたバアの頭の中には、ソウの知らない地図が広がっている。
「ありがとうございます」
「礼には及ばん。教えただけじゃ、手は出さん」
「それで十分です」
バアは穂の束をソウに返した。
「ただ一つだけ、聞いてやろう」
「はい」
「お前がやろうとしとること——成功したら、何が変わる」
ソウは少し考えてから、答えた。
「……誰も、飢えて死ななくて済むようになります」
バアは、それを聞いて、しばらく黙った。
遠くの空を見ていた。
「……そうかい」
それだけ言って、バアは薪を束ね直し始めた。
だがソウには、バアの背中が、いつもより少しだけ小さく見えた。
*
次の問題は、蒔く場所だった。
ソウは前世の知識を整理した。麦や粟に近い穀物なら、水はけの良い土地を好む。だが、ある程度の水分は必要だ。理想は、川の近くの沖積地。川が氾濫した時に運んできた細かい土が積もり、養分が豊かで、水も近い。
支流の、少し内側に入った平らな地面。
陽当たりがよく、排水もそこそこ。
前世の教科書で「初期農耕地に適している」と書かれていた条件に、かなり近い場所があった。
ソウはそこを、頭の中で畑と呼んだ。
その夕方。
テツがソウの横にやってきた。手には、改良した石器。
「何見てるんだ」
「畑になる場所」
「畑?」
「種を蒔く場所のことだ」
テツはその場所を見渡した。
「広いな」
「最初はもっと狭くていい。半分、いや、もっと小さくていい。二人で耕せる範囲だけ」
テツは少し考えてから、地面に自分の足で線を引いた。
「この線から、あっちまで」
「それくらいでいい」
「じゃあ、明日から整地するか」
「やろう」
テツは、それだけ言って、石器を肩に担いだ。
「……面白いな」
そう呟いて、にっと笑った。
ソウは頷いた。
*
その夜、ソウは焚き火の前で、ガランに話しかけた。
「ガラン」
「何だ」
「川沿いの、東の平地に、小さく畑を作ります」
ガランは、穂の束を見た。
それから、ソウの顔を見た。
長い沈黙があった。
ゴウザが横から「また始まった」というように舌打ちしたが、ガランは反応しなかった。
「——本当に、やるのか」
「やります」
ガランは、ゆっくり頷いた。
「そうか」
それだけだった。
許可ではないし、応援でもなかった。
だが——
その「そうか」の中に、反対の色は、なかった。
ソウにとっては、十分だった。
*
寝床に戻る前、テツが横で欠伸をしながら言った。
「冬が来るぞ」
「ああ」
「種、蒔くのは春だろう?」
「春だ。それまで、種を保つ方法を考える」
「保つ?」
「湿気で腐る。虫に食われる。それを防がないと、春まで持たない」
テツは小さく唸った。
「……また、面白いことを考えてるな」
ソウは笑わなかった。
笑う代わりに、焚き火の向こうの闇を見た。
——冬が来る。
種を抱えて、南の低地へ移動する。
その道中は、ソウの体力にとって、最初の大きな試練だった。




