第4話「笑われた日」
朝靄の中、ガランが一人で川へ降りていくのを、ソウは見届けた。
少し間を置いてから、同じ道を歩いた。
川辺の岩の上に、ガランは腰を下ろしていた。革の袋に水を汲んでから、なぜか一度、そのまま座る。これが族長の日課だった。一日に一度、何も決めず、誰とも話さず、水の音だけを聞いている時間。
ソウはその静けさを壊すことを、申し訳なく思った。
だが、今日しかない。
近づくと、ガランは顔を上げた。
驚かなかった。だが、歓迎もしなかった。
「何だ」
ソウは立ったまま、燻製肉を布に包んだものを差し出した。
「昨夜、皆さんに配ったやつです。余りです」
「食った」
「はい、ガランが食べたのは見ました。——ただ、これは、別の話をするために持ってきました」
ガランは眉をわずかに動かした。
「別の話」
「……種を、土に埋めます」
沈黙があった。
川の水音だけが、ソウとガランの間を流れていった。
ガランは布の包みを自分の膝に置き、ソウを見上げた。
「種を、土に埋める」
「はい」
「何のために」
「育てるためです。食べ物を」
ソウは続けた。簡単に、シンプルに、余計なことを足さずに。
「種を選んで、土に埋めて、水をやれば、穂が出ます。穂には、種が何十、何百とつきます。それを集めて、粉にして、食べる。——そういう方法があります」
「聞いたことがない」
「どこにもない方法だからです」
「誰から聞いた」
ソウは答えに詰まった。
「……昔、誰かから聞きました」
嘘ではない。前世の自分は、確かに「誰か」だった。
ガランは何度かゆっくり瞬きをして、最後に言った。
「それで、冬までに何人分の食料が取れる」
「……わかりません」
ソウは正直に答えた。ここで嘘をつけば、全部崩れる。
「やったことが、ないからです。今年は、試しに小さい場所でやってみる。来年、うまくいくなら、広げる。そういう順番で」
ガランは黙った。
川の音がまた戻ってきた。
ソウには、その沈黙がひどく長く感じられた。
ようやく、ガランが口を開いた。
「却下する」
短い言葉だった。
「やったことがないことに、人手は割けん。肉を燻したのとは話が違う。あれは失敗しても、ただの肉が無駄になるだけだった。今度のは、種と、土と、時間と、人と——全部無駄になる」
「……はい」
ソウは、膝の力が少しだけ抜けた気がした。
覚悟はしていた。
だが、覚悟していても、きちんと堪える。
*
背後で、枯れ葉を踏む音がした。
ゴウザだった。
古参の狩人で、族の中では最年長の男に次ぐ発言力を持っている。いつの間に近づいてきたのか、ソウは気づかなかった。
「何の話だ」
ゴウザは露骨に聞こえるように言った。
ガランは答えなかった。ソウが答える番だった。
「種を土に埋めて、食べ物を育てる話を……」
ゴウザが鼻で笑った。
大きな音だった。朝の静けさを破るほどの、嘲笑。
「若造の戯言だ」
ゴウザはそう言って、ソウの顔をまっすぐ見た。
「煙で肉を乾かしたくらいで、調子に乗るな。肉を乾かすのと、土から食い物を生やすのは、まるで話が違うぞ。お前にできると思ってるのか」
「……できるかどうかは、やってみないと」
「やって、できなかったら、どうするんだ」
「それは——」
「誰が責任を取る。人手を割いて、種を捨てて、冬に食料が足りなかったら、誰が腹を空かせるんだ。お前一人の腹じゃないぞ」
ソウは、返す言葉をすぐには思いつかなかった。
ゴウザの言い方には、嘲笑の奥に、小さな正しさがあった。ソウ一人のやることで、ソウ一人の腹が減るのではない。もし本当に食料がなくなれば、子供から死ぬ。バアのような年寄りから死ぬ。
ゴウザは、その重みを、嘲笑の形で突きつけてきただけだ。
「——だから、一人でやります」
ソウは低い声で言った。
「人手は借りません。種は、俺が一人で探します。土も、俺が掘ります。失敗しても、俺の腹が減るだけです」
ゴウザは、今度こそ大きく笑った。
「一人でやれるものなら、やってみろ。言っておくが、笑ってやらんぞ。見もしない。俺は狩りで忙しい」
ゴウザはそれだけ言って、背を向けた。
*
ガランは、何も言わなかった。
だがガランは、立ち上がらなかった。ゴウザがいなくなっても、まだ川の岩に座ったまま、ソウを見ていた。
少しだけ、目を細めていた。
「ソウ」
「はい」
「お前一人でやる分には、止めない」
ガランはそう言って、立ち上がった。
燻製肉の包みを、膝から取って、腰の革袋に入れた。
「だが、人手は出せん。種も、道具も、自分で何とかしろ。それでもやるなら——」
ガランは、ソウの肩をすれ違いざまに、軽く叩いた。
「やれ」
それだけ言って、ガランは去った。
*
ソウは川辺に一人残された。
体が、少しだけ震えていた。
寒さではなかった。
拒絶されたことへの震えでも、なかった。
——許可じゃない。
許可じゃない。
だが、禁止でもない。
ガランはあえて、「禁止しない」という言葉を選んだ。あれは族長の本気の黙認だった。族長自身は責任を取らないが、ソウ一人のやることを止めはしない。その余白を、わざわざ残してくれた。
背後で、砂利を踏む音がした。
リアが、川の上流から降りてきていた。弓を肩に担いで、朝の狩りから戻る途中だった。
リアはソウの顔を見た。
それから、遠ざかっていくガランの背中を見た。
そしてもう一度、ソウを見た。
「お前、何を話していたの」
「……種を、土に埋めたいと」
「……は?」
リアは眉をひそめた。
「お前、頭おかしいの?」
「多分、おかしい」
ソウは、自分でも意外なほど冷静に答えた。
リアは一瞬、言葉に詰まった。
それから、ぷいと横を向いた。
「……馬鹿じゃないの」
そう言い捨てて、集落の方へ歩いていった。
だが——リアは足を止めた。
振り返らなかった。
ただ、足だけを止めた。
しばらくしてから、また歩き出した。
ソウはその背中を見送った。
——軽蔑された。
——でも、あの足は止まった。
ゴウザの嘲笑より、ガランの黙認より、リアの「足が止まった」という一瞬が、ソウの胸に一番深く残った。
*
集落に戻ると、テツが燻製小屋の後片付けをしていた。
ソウの顔を見て、作業の手を止めた。
「どうだった」
「却下だ」
「……そっか」
テツは少し黙った。
「で、どうするんだ」
ソウは、深く息を吸った。
「一人でやる。ガランは『止めない』とだけ言った。それでいい」
「一人じゃない」
テツは、自分の胸を指差した。
「俺がいる」
ソウは、テツの顔を見た。
テツの目は、昨日と同じ目だった。「面白そう」と思っている時の目。
「……助かる」
「助かるも何も。俺は、面白いからやるだけだ」
テツはそう言って、石の欠片を拾い上げた。
「それで、何から始める?」
ソウは、西の空を見た。
秋は深まっている。冬はすぐそこだ。種を探し、蒔く場所を決め、冬を越し、春を待つ——やることは、山ほどある。
「……まず、種を探しに行く」
「だな」
テツは、にっと笑った。
二人の影が、朝の光に伸びていた。短い影だった。だが、二つ並んでいた。
それで、十分だった。




