第3話「焚き火の前で」
煙で乾かした肉は、三日経っても腐らなかった。
五日経っても、まだ食えた。
七日経って、表面にうっすらと黴が出かけたところで、ようやく「そろそろ限界だ」とテツが判断した。
普通の生肉なら、秋のこの時期でも二日が限度だ。七日持つというのは、ガラの民にとって、前例のないことだった。
族民たちが、少しずつ気づき始めた。
「あの肉、まだ食えるのか」
「テツんとこに干してある肉、色が変だぞ」
「……でも、食ったら死ぬんじゃないのか」
誰かが一切れを口に入れ、無事だったことが確認された夜——焚き火の周りに、微妙な空気が流れた。
興味と、警戒と、少しの困惑。
古参の狩人ゴウザだけは、鼻で笑った。
「たまたまだ。秋の乾いた日が続いただけだ。雨が降れば、あんなもの一日で駄目になる」
誰もゴウザに反論しなかった。
ソウも反論しなかった。
反論する必要が、なかったからだ。
*
夜が深まってきた。
焚き火のそばで、ガランが狩人たちに指示を出していた。
「明日は北の林に回れ。南はしばらく休ませる。獣が戻ってくるまで、待つ」
短い言葉だった。
ガランは族長だが、声を張り上げることはほとんどない。むしろ、部族の中で一番静かに話す男だ。それでも、彼が口を開けば、全員が黙って聞いた。
ソウはその様子を、少し離れた場所から見ていた。
——この人は、結果を見る。
前世の修士論文で、ソウはかつて「族長型リーダーシップ」の古典研究を読んだことがあった。狩猟採集民の首長は、命令する者ではなく、「最も正しい判断をしている者」として認められている、という理論。
ガランは、まさにその型だった。
今日ソウが作った燻製肉は、小さな結果だ。それだけでは、族長は動かない。だが、族長の頭の中に、一つの記憶として残った。「あの肉の件」として。
それで、十分だった。
——次は、もっと大きな結果を見せる。
そう思った瞬間、胸の奥で、何か温かいものが動いた。
*
バアがソウの隣にやってきた。
手に、小さな皿のようなもの——平たい石——を持っている。上に干した薬草が少しだけ載っていた。
「ソウ、一つ、話を聞かんか」
「はい」
「川の向こうに、昔、ツハという男がおった」
バアはそう言って、火を見た。
「その男は、一つの場所に留まろうとした。獣を追うことをやめて、石で囲いを作った。木の実を集め、魚を捕って、なんとか食いつないだ」
「……それから、どうなりましたか」
「冬が来た。木の実は尽きた。魚も凍った川では捕れん。男は、食料が尽きて死んだ」
ソウは何も言わず、バアの横顔を見ていた。
バアは昨夜、これと似た話をした。あの時は「そういう男がいた」という概要だけだった。今夜は、違う。もう少し詳しい。
バアは、わざと詳しく話している。
「笑われる道を選んだ男の話じゃ。笑った者の方が、正しかったのかもしれん」
「……それでも、バアはその男のことを覚えている」
バアは小さく笑った。
「そうじゃな。覚えておる」
火の粉が、風に舞った。
ソウはバアの話の裏にあるものを、静かに読み取った。
——もし、ツハが食料を保存できていたら。
——もし、ツハが食料を「育てる」ことを知っていたら。
冬を越せたかもしれない。死ななかったかもしれない。ツハの選んだ道が、正しかったということになったかもしれない。
バアはこの話を、ソウが「煙で肉を乾かした」今夜、したのだ。
偶然ではない。
「バア」
「うん」
「……俺はもう少し、やってみたいことがあります」
「何じゃね」
「種を、土に埋めてみたい」
バアは横目でソウを見た。
「育てるのかね」
「はい」
バアは何も言わなかった。少しだけ、目を細めた。
「お前は、本当に不思議な子じゃ」
それだけ言って、火に視線を戻した。
*
ソウがテツのところに戻ったのは、夜もかなり更けてからだった。
テツは相変わらず石を削っていた。昼間、燻製小屋を組み上げたばかりだというのに、手が止まらない。
「テツ」
「なんだ」
「……種を土に埋めたら、食べ物が増える。そういう話を、知ってるか」
テツは手を止めた。
石の欠片を、掌の上で転がした。
「……土に?」
「そうだ」
「石や木の実みたいに、勝手に増えるのとは違うのか」
「違う。種を選んで、土に埋めて、水をやって、時間を待つ。ちゃんと世話をすれば——一つの種が、何十、何百の種になる」
「……百?」
テツは石を持つ手を止めた。
長い沈黙があった。
焚き火の燃える音だけが、二人の間に落ちていた。
「それ、本当か」
「理屈では、正しいはずだ」
「……煙で肉を乾かす話より、もっとすごいってことか」
「たぶん、もっとすごい」
テツは石を地面に置いた。
「面白そうだな」
ソウは、喉の奥で小さく笑った。
テツの「面白そう」は、ソウにとって、何よりも心強い言葉だった。
「カナにも聞かせてやろう」
「カナ?」
「幼馴染だ。あいつも、変な話が好きなんだ」
ソウは頷いた。
その名前を、頭の中に留めた。
*
焚き火が、少しずつ小さくなっていった。
族民たちは、一人、また一人と眠りに戻っていった。
ソウは自分の寝床に横たわり、天井代わりの獣皮を見上げた。
——明日。
明日の朝、ガランが一人になる時間がある。水を汲みに、一人で川に降りていく習慣がある族長は、その時だけ、誰の目も気にせずに一人で立っていられる。
その時、声をかける。
今日作った燻製肉を、手に持って。
——煙で肉を乾かせた俺が、次は食べ物を育てたい。
その言葉を、どう組み立てるか。
ソウは目を閉じた。
笑われるだろう。
反対されるだろう。
それでも——一度、言葉にしてしまえば、引き返せなくなる。
その「引き返せなさ」こそが、必要だった。




