第2話「弓と槍と、煙の棚」
翌朝、リアが狩りから戻ってきた。
背中に小さな鹿を担いでいる。矢は首筋に一本。一撃で仕留めた痕だ。リアの後ろから若い猟師が二人ついてきたが、獲物を担いでいるのはリアだけだった。
赤い紐で束ねた髪が、汗で頬に張りついている。目の色は、狩りの直後特有の、少しだけ澄んでいて、少しだけ鋭い色をしていた。
ソウは解体の場に近づいた。
「リア、手伝わせてほしい」
リアは一瞬だけソウを見た。
「お前、今日は何をしていたの?」
軽い声だった。意地悪というより、もっと素朴な軽蔑。「お前に狩りの手伝いなんてできるの?」という、ただの事実確認。
「解体の手伝いなら、できる」
「ふうん」
リアは鹿を地面に下ろし、石の刃を手に取った。ソウは腰を落として、内臓を受ける皮を広げた。
リアの手は速かった。
皮を剥ぎ、関節を外し、骨から肉を削ぎ取る。流れるような動きだった。ソウはその横で、指示されるまま余った肉や内臓を運んだ。
解体が進むにつれて、地面に捨てられる部位が積み上がっていった。
——これだけ、捨てる。
ソウは捨てられた内臓と余り肉の山を見つめた。前世の知識が勝手に動いた。ガラの民は獲物の三割近くを、腐るという理由で捨てている。冷蔵する手段がないからだ。夏なら半日で、秋でも二日で腐る。
だが、もし煙で乾かせば。
「リア」
「なに」
「この肉、少しだけもらってもいいか」
「……何に使うの」
「試したいことがある」
リアは肉切りの手を止めなかった。
「好きにすれば。どうせ捨てるものだから」
ソウは余り肉を数切れ拾い上げた。リアはそれ以上何も聞かなかった。
*
テツは集落の端で石を削っていた。
同じ年頃の少年だが、リアとは正反対の存在だった。手先が異常に器用で、集中しすぎて一日中食事を忘れる。肩幅は狭く、足は速くない。狩りには連れていかれない。
そして——ソウ以外に、部族の中で唯一、ソウの話を真剣に聞く相手だった。
「テツ、頼みがある」
テツは石から顔を上げた。目が、少しだけ輝いた。
「何だ」
「肉を、煙で乾かす棚を作りたい」
「……煙で?」
ソウは地面に棒で図を描いた。木の枝を組んで棚を作り、その下で火を焚く。煙が棚に当たるように、周りを皮で囲う。
テツはしゃがんで図を見た。
「この棚に、肉を吊るす?」
「そうだ。じっくり煙を当てる」
「……火が強すぎると、肉が焼けるんじゃないか」
「だから、直火じゃなく、少し離す。煙だけを当てる」
テツは黙って図を見ていた。
それから、にっと笑った。
「面白い。やってみよう」
テツの「面白い」は、ソウが最も聞きたい言葉だった。
この少年が「面白い」と言った瞬間、その手は止まらない。
*
最初の試作は、失敗した。
煙が足りなかった。棚の高さがありすぎて、煙が拡散してしまう。肉は半分生乾きのまま、いつまでも柔らかかった。
「上からじゃ駄目だ。下から、もっと密に当てないと」
ソウがそう言うと、テツは半日かけて棚の周囲を掘った。浅い穴を作り、その中で火を焚く。穴の上に棚を設け、周囲を獣皮で囲う。煙が逃げず、棚に滞留するようにした。
半地下の燻製小屋。
前世の基礎技術に、ほぼ近い形になった。
火を焚いてから半日。棚の中を開けると、肉の表面が飴色に変わっていた。触れても指がべとつかない。匂いは、焚き火の香りと肉の香りが混じった、不思議な匂いだった。
テツがその一切れを、指でつまんだ。
「……食っていいのか」
「食ってくれ。俺より先に」
テツは口に放り込んだ。
噛む。
噛むたびに、表情が変わっていった。
「……硬い」
うん、とソウは頷いた。
「でも、うまい」
ソウの心拍数が、一瞬上がった。
前世で「うまい」と言われたことはあっただろうか。修士論文を書いていた頃、誰かに何かを褒められた記憶はほとんどない。
なのに今、石器時代の少年に「うまい」と言われて、体温が上がっている。
——これが、結果か。
形になった成果は、言葉よりも速く、相手の体に届く。
「もう一切れ、バアとリアにも食わせよう」
テツはそう言って、二切れを皮に包んだ。
*
バアは目を閉じて、ゆっくり噛んだ。
咀嚼の時間が長かった。
飲み込んで、少し黙って、もう一度口を開いた。
「……これは、良い」
「気に入りましたか」
「煙で乾かせば、肉が腐らん。お前、それを考えついたのか」
「昔、誰かから聞いた気がして」
「嘘じゃな」
バアはそう言って、笑った。
「じゃが、聞かんよ。上手くいったなら、それで良い」
バアのこういう距離感に、ソウは何度も救われていた。
*
リアは、解体場の近くに一人で座っていた。
手が血で汚れたままだ。獲物の血は、すぐには洗えない。洗うのは夜、焚き火の前で湯を作ってからだ。
ソウは肉の一切れを差し出した。
「……なに?」
「煙で乾かした肉だ。食ってみてくれ」
リアは眉をひそめた。だが、一切れをつまみ、口に入れた。
噛んだ。
もう一度、噛んだ。
飲み込んだ。
「……なにこれ」
声が、いつもの軽蔑混じりではなかった。単なる驚き。
「悪くないだろう」
「……悪くない」
リアは自分の言葉を、もう一度口の中で確かめるように呟いた。それから、ソウを見た。
初めてだった。
リアがソウを、「何もできない役立たず」以外の目で見たのは。
「お前、朝の解体で肉をもらった時、これが作れると分かってたの?」
「理屈では」
「……変な奴」
リアはそう言って、顔を背けた。
それだけだった。
それだけだったが——軽蔑は、そこに混ざっていなかった。
*
夜。
焚き火の前で、ガランがバアから一切れをもらった。
族長は、黙って噛んだ。
黙って、飲み込んだ。
何も言わなかった。
だが、翌朝——ガランは、集落の隅でソウに視線を向けた。一瞬。短く。
ただ、それだけ。
ソウはその視線を、正面から受け止めた。
——届いた。
族長の頭の中には、小さな記憶が一つ残ったはずだ。「あの痩せた若造が、煙で肉を保存する方法を考えついた」という記憶が。
それだけで、十分だった。
*
作業を終えたテツが、ソウの隣にしゃがみ込んだ。手は炭で黒く汚れている。だが目だけは、いつもより光っていた。
「なあ、ソウ」
「なんだ」
「お前の頭の中って、他にも面白いもの入ってるのか?」
ソウは答えなかった。
答える代わりに、少しだけ、笑った。
テツは不思議そうに首を傾げた。
「……ある」
ソウはそう言った。
「もっと、大きなことが」
テツは笑った。
二人の影が、夕暮れの焚き火の光で、地面に長く伸びていた。




