第10話「芽が出ない」
最初の畑の播種から、二週間が過ぎた。
ソウは毎朝、畑の前で膝をついた。
畑の表面を、指でそっと探った。
何もなかった。
二本の溝の上の土は、静かなままだった。
細い緑の芽も、盛り上がりも、何もない。
三日前に予定していた発芽の目安が、一日過ぎた。
二日過ぎた。
もう三日過ぎた。
——遅れている。
*
「おかしい」
ソウはその夜、テツに言った。
「前世の知識では、もう出ている頃だ」
「前世って、お前、また」
テツは首を傾げたが、深追いしなかった。
ソウが時々、どこかよその世界の話をするように喋ることには、もう慣れていた。
「……出ない、ってことは、どういうことなんだ」
「考えられるのは、二つだ。一つは、この世界のアムが発芽に時間がかかる種類だということ。もう一つは——」
「もう一つは?」
「種が、もう死んでいるということだ」
テツは少し黙った。
「……それ、どうやって確かめる」
「掘るしかない」
ソウは翌朝、畑の一部を掘り返した。
恐る恐る、溝の上の土を指でかき分けた。
種はそこにあった。
だが、粒の表面はふやけていた。
指で押すと、簡単に崩れた。
中の白い部分が、褐色に変色していた。
——腐っている。
ソウはしばらく動けなかった。
*
「腐った?」
テツは眉をひそめた。
「水のやりすぎだ」
ソウは低い声で言った。
「バアが運んでくれた水、それに俺たちが何回か運んだ水。ちょうど土壌が粘土を少し含んでいて、水はけが悪かった。溝の底に水が溜まって——種がずっと湿ったままだった」
「……それで腐るのか」
「種は発芽する前に水を吸い込む。だが、吸い込みすぎれば呼吸ができなくなって、腐る」
ソウは自分の手を見た。
前世で、何度も読んだ論文の中に「灌漑過多による種子の腐敗は、初期農耕における典型的な失敗の一つ」という一節があった。
その一節を、覚えていたはずなのに。
知識と実践は、別だった。
——俺は、知っていたはずだ。知っていたのに、失敗した。
ソウは静かに目を閉じた。
*
掘り返しは続いた。
二本の溝の、どの場所の種もほぼ同じ状態だった。
ふやけ、褐色に変わり、すでに発芽能力を失っている。
最初の畑は、ほぼ全滅していた。
ソウが顔を上げると、いつの間にかゴウザが畑の縁に立っていた。
ゴウザは腰に手を当てて、畑を見渡した。
そして、大きく鼻で笑った。
「——言っただろう」
声は、遠慮がなかった。
「土を掘っても、食い物は出てこない。若造の戯言だ、と」
ソウは立ち上がらなかった。
顔も上げなかった。
土の上に膝をついたまま、ゴウザの声を背中で聞いた。
「……はい」
「はい、じゃない。お前、自分が何を言ったか覚えているか」
「覚えています」
「一人でやる、と言った。失敗しても、自分の腹が減るだけだ、と言った。——減らせ」
ゴウザはそう言って、地面に唾を吐いた。
ソウはそれでも動かなかった。
「やめろ。さっさと狩りの手伝いに回れ。お前のような女より弱い男でも、解体の手伝いぐらいはできる」
ゴウザはそう言って、背を向けた。
砂利を踏む音が、遠ざかっていった。
ソウはゴウザがいなくなるまで動けなかった。
*
夕方、リアが畑の近くを通った。
リアは畑の崩された跡と、その前に膝をついているソウを見た。
足を止めた。
「……腐ったのか?」
リアはソウの後ろに立って、短く聞いた。
「……うん」
「全部?」
「最初の畑は、全部」
リアはしばらく何も言わなかった。
ソウは顔を上げなかった。
顔を上げれば、リアの表情が見える。軽蔑なのか、憐れみなのか、何なのか——確かめるのが怖かった。
「……」
リアは結局、何も言わなかった。
そのまま、集落の方へ歩いていった。
ソウが顔を上げた時、リアの背中はすでに遠かった。
——軽蔑されたのか、されなかったのか、わからない。
だが、リアは何も言わなかった。
嘲笑も、慰めも、質問も、何もなかった。
その「何もなかった」ことが、ソウの胸にひどく鋭く刺さった。
*
夜、バアの寝床を訪ねた。
バアは薬草を干した皮の上に座っていた。
ソウの顔を見て、一目で何かを察した。
「……どうしたんじゃ」
「……種が、腐りました」
「水か」
ソウは少し驚いた。
「……バア、なぜそれが」
「薬草もな、水をやりすぎると根が腐る。いくら水が要るものでも、要りすぎれば殺す。それは、大地の摂理じゃ」
バアは湯気の立つ木の椀を差し出した。
薬草の煎じ汁だった。苦くて、喉に引っかかる味がした。
「お前の失敗は、水をやりすぎたこと。それだけじゃ」
「……それだけ、ですか」
「それだけじゃよ。次は水を控えればよい」
ソウはしばらく黙って、煎じ汁を飲んだ。
バアの言葉は単純だった。
前世の論文が数式と図表で説明していたことを、バアはたった一言で言い切った。
——薬草は、水をやりすぎると根が腐る。
その一言に、今必要だった知識の八割が詰まっていた。
ソウは前世の「科学的知識」を絶対視しすぎていたことに、今、気づいた。
知識はこの世界の土壌で、この世界の気候で、この世界の水の量で、翻訳されなければならない。
その翻訳の鍵は前世の論文ではなく、バアのような「この土地を六十年見てきた人の感覚」の中にあった。
*
ソウは翌朝、第二の畑へ向かった。
第二の畑は、まだ種を蒔いたばかりだった。
水のやり方を見直す必要があった。
テツがすでに畑にいた。
ソウを見ると、少しだけ申し訳なさそうな顔をした。
「……駄目だったな」
「ああ。最初の畑は、全滅だ」
「……」
テツはしばらく何も言わずに、空を見た。
「じゃあ、こっちに賭けるしかないな」
「賭ける」
ソウはその言葉を、静かに繰り返した。
テツは自分の肩の袋から、新しい石鍬を取り出した。
昨日の夜、急いで作り直したものだった。持ち手が前より長く、刃が少し厚くなっている。
「前のが折れそうだったから、新しいのを作った」
「……新しい石鍬」
「失敗したら、道具を作り直せばいい。そうだろ?」
テツはそう言って、にっと笑った。
ソウは一瞬、胸の奥で何かが動いた。
涙腺に、熱が戻ろうとした。
だが、涙は流さなかった。
代わりに、石鍬の柄を指先でそっと撫でた。
滑らかな木肌と、冷たい石の手触りが指先に伝わった。
「……助かる」
「いいって。面白いから作ってるだけだ」
テツは刃を地面に軽く打ち込んだ。
土の表面に、薄い切れ目が入った。
*
ソウはしゃがんで、第二の畑の土を握った。
粘土質と、堆肥の材料が混ざった土。
指の間から、ゆっくりとこぼれていく感触。
水分は最初の畑の土よりも控えめだった。
——この土地の声を、聞かなければならない。
前世の知識を、絶対視しない。
この世界の土の硬さ、水の多さ、空の色、風の匂い。
全部を感覚として読み取る。
その上で、前世の知識を補助として使う。
順番が、逆だった。
ソウは深く息を吸った。
土の匂い、発酵しかけた魚の残り香、春の湿った空気。
全部がソウの中に入ってきた。
「——賭ける」
ソウは自分の声を、自分の耳で確かめた。
最初の畑は、死んだ。
だが、第二の畑は、まだ生きている。
ここから先は水を控える。
種を守る。
土の声を、聞く。
テツが横で、静かに頷いた。
「賭けるな」
「賭ける」
二人の影が朝の光の中で、畑の端に並んでいた。
前の畑は失敗した。
だがその失敗は、消えない教訓になった。
教訓があれば、次の一手を間違えずに打てる。
ソウは土の上に立ち上がった。
昨日より、膝が少しだけしっかりしていた。




