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転生先は夜明け前 ―石器時代から文明を拓く―  作者: 夜摩 高嶺
第一部 播種の章

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第10話「芽が出ない」

 最初の畑の播種から、二週間が過ぎた。


 ソウは毎朝、畑の前で膝をついた。

 畑の表面を、指でそっと探った。

 何もなかった。


 二本の溝の上の土は、静かなままだった。

 細い緑の芽も、盛り上がりも、何もない。


 三日前に予定していた発芽の目安が、一日過ぎた。

 二日過ぎた。

 もう三日過ぎた。


 ——遅れている。



「おかしい」


 ソウはその夜、テツに言った。


「前世の知識では、もう出ている頃だ」


「前世って、お前、また」


 テツは首を傾げたが、深追いしなかった。

 ソウが時々、どこかよその世界の話をするように喋ることには、もう慣れていた。


「……出ない、ってことは、どういうことなんだ」


「考えられるのは、二つだ。一つは、この世界のアムが発芽に時間がかかる種類だということ。もう一つは——」


「もう一つは?」


「種が、もう死んでいるということだ」


 テツは少し黙った。


「……それ、どうやって確かめる」


「掘るしかない」


 ソウは翌朝、畑の一部を掘り返した。


 恐る恐る、溝の上の土を指でかき分けた。

 種はそこにあった。


 だが、粒の表面はふやけていた。

 指で押すと、簡単に崩れた。

 中の白い部分が、褐色に変色していた。


 ——腐っている。


 ソウはしばらく動けなかった。



「腐った?」


 テツは眉をひそめた。


「水のやりすぎだ」


 ソウは低い声で言った。


「バアが運んでくれた水、それに俺たちが何回か運んだ水。ちょうど土壌が粘土を少し含んでいて、水はけが悪かった。溝の底に水が溜まって——種がずっと湿ったままだった」


「……それで腐るのか」


「種は発芽する前に水を吸い込む。だが、吸い込みすぎれば呼吸ができなくなって、腐る」


 ソウは自分の手を見た。


 前世で、何度も読んだ論文の中に「灌漑過多による種子の腐敗は、初期農耕における典型的な失敗の一つ」という一節があった。

 その一節を、覚えていたはずなのに。


 知識と実践は、別だった。


 ——俺は、知っていたはずだ。知っていたのに、失敗した。


 ソウは静かに目を閉じた。



 掘り返しは続いた。


 二本の溝の、どの場所の種もほぼ同じ状態だった。

 ふやけ、褐色に変わり、すでに発芽能力を失っている。


 最初の畑は、ほぼ全滅していた。


 ソウが顔を上げると、いつの間にかゴウザが畑の縁に立っていた。


 ゴウザは腰に手を当てて、畑を見渡した。

 そして、大きく鼻で笑った。


「——言っただろう」


 声は、遠慮がなかった。


「土を掘っても、食い物は出てこない。若造の戯言だ、と」


 ソウは立ち上がらなかった。

 顔も上げなかった。

 土の上に膝をついたまま、ゴウザの声を背中で聞いた。


「……はい」


「はい、じゃない。お前、自分が何を言ったか覚えているか」


「覚えています」


「一人でやる、と言った。失敗しても、自分の腹が減るだけだ、と言った。——減らせ」


 ゴウザはそう言って、地面に唾を吐いた。


 ソウはそれでも動かなかった。


「やめろ。さっさと狩りの手伝いに回れ。お前のような女より弱い男でも、解体の手伝いぐらいはできる」


 ゴウザはそう言って、背を向けた。

 砂利を踏む音が、遠ざかっていった。


 ソウはゴウザがいなくなるまで動けなかった。



 夕方、リアが畑の近くを通った。


 リアは畑の崩された跡と、その前に膝をついているソウを見た。

 足を止めた。


「……腐ったのか?」


 リアはソウの後ろに立って、短く聞いた。


「……うん」


「全部?」


「最初の畑は、全部」


 リアはしばらく何も言わなかった。


 ソウは顔を上げなかった。

 顔を上げれば、リアの表情が見える。軽蔑なのか、憐れみなのか、何なのか——確かめるのが怖かった。


「……」


 リアは結局、何も言わなかった。

 そのまま、集落の方へ歩いていった。


 ソウが顔を上げた時、リアの背中はすでに遠かった。


 ——軽蔑されたのか、されなかったのか、わからない。


 だが、リアは何も言わなかった。

 嘲笑も、慰めも、質問も、何もなかった。


 その「何もなかった」ことが、ソウの胸にひどく鋭く刺さった。



 夜、バアの寝床を訪ねた。


 バアは薬草を干した皮の上に座っていた。

 ソウの顔を見て、一目で何かを察した。


「……どうしたんじゃ」


「……種が、腐りました」


「水か」


 ソウは少し驚いた。


「……バア、なぜそれが」


「薬草もな、水をやりすぎると根が腐る。いくら水が要るものでも、要りすぎれば殺す。それは、大地の摂理じゃ」


 バアは湯気の立つ木の椀を差し出した。

 薬草の煎じ汁だった。苦くて、喉に引っかかる味がした。


「お前の失敗は、水をやりすぎたこと。それだけじゃ」


「……それだけ、ですか」


「それだけじゃよ。次は水を控えればよい」


 ソウはしばらく黙って、煎じ汁を飲んだ。


 バアの言葉は単純だった。

 前世の論文が数式と図表で説明していたことを、バアはたった一言で言い切った。


 ——薬草は、水をやりすぎると根が腐る。


 その一言に、今必要だった知識の八割が詰まっていた。


 ソウは前世の「科学的知識」を絶対視しすぎていたことに、今、気づいた。

 知識はこの世界の土壌で、この世界の気候で、この世界の水の量で、翻訳されなければならない。

 その翻訳の鍵は前世の論文ではなく、バアのような「この土地を六十年見てきた人の感覚」の中にあった。



 ソウは翌朝、第二の畑へ向かった。


 第二の畑は、まだ種を蒔いたばかりだった。

 水のやり方を見直す必要があった。


 テツがすでに畑にいた。

 ソウを見ると、少しだけ申し訳なさそうな顔をした。


「……駄目だったな」


「ああ。最初の畑は、全滅だ」


「……」


 テツはしばらく何も言わずに、空を見た。


「じゃあ、こっちに賭けるしかないな」


「賭ける」


 ソウはその言葉を、静かに繰り返した。


 テツは自分の肩の袋から、新しい石鍬を取り出した。

 昨日の夜、急いで作り直したものだった。持ち手が前より長く、刃が少し厚くなっている。


「前のが折れそうだったから、新しいのを作った」


「……新しい石鍬」


「失敗したら、道具を作り直せばいい。そうだろ?」


 テツはそう言って、にっと笑った。


 ソウは一瞬、胸の奥で何かが動いた。

 涙腺に、熱が戻ろうとした。


 だが、涙は流さなかった。

 代わりに、石鍬の柄を指先でそっと撫でた。

 滑らかな木肌と、冷たい石の手触りが指先に伝わった。


「……助かる」


「いいって。面白いから作ってるだけだ」


 テツは刃を地面に軽く打ち込んだ。

 土の表面に、薄い切れ目が入った。



 ソウはしゃがんで、第二の畑の土を握った。


 粘土質と、堆肥の材料が混ざった土。

 指の間から、ゆっくりとこぼれていく感触。

 水分は最初の畑の土よりも控えめだった。


 ——この土地の声を、聞かなければならない。


 前世の知識を、絶対視しない。

 この世界の土の硬さ、水の多さ、空の色、風の匂い。

 全部を感覚として読み取る。

 その上で、前世の知識を補助として使う。


 順番が、逆だった。


 ソウは深く息を吸った。

 土の匂い、発酵しかけた魚の残り香、春の湿った空気。

 全部がソウの中に入ってきた。


「——賭ける」


 ソウは自分の声を、自分の耳で確かめた。


 最初の畑は、死んだ。

 だが、第二の畑は、まだ生きている。


 ここから先は水を控える。

 種を守る。

 土の声を、聞く。


 テツが横で、静かに頷いた。


「賭けるな」


「賭ける」


 二人の影が朝の光の中で、畑の端に並んでいた。


 前の畑は失敗した。

 だがその失敗は、消えない教訓になった。

 教訓があれば、次の一手を間違えずに打てる。


 ソウは土の上に立ち上がった。

 昨日より、膝が少しだけしっかりしていた。

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