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転生先は夜明け前 ―石器時代から文明を拓く―  作者: 夜摩 高嶺
第一部 播種の章

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第11話「雨と最初の緑」

 失敗の翌朝、バアが畑の縁にやってきた。


 バアは空を見上げていた。

 風がごくわずかに、湿り気を帯び始めていた。


「ソウ」


「はい」


「……明後日、雨が来るよ」


 ソウはバアの横顔を見た。


 バアの目は遠く、西の空を見ていた。

 雲はまだほとんどない。

 前世の気象感覚でも、ソウはすぐに「明後日雨」とは判断できなかった。


「……どうして、わかるのですか」


「精霊が、そう言うとる」


「精霊」


「この辺りの水の精霊じゃ。空気に水の気配が増えると、精霊が騒ぐ。わしには、それが聞こえる」


 ソウは頷いた。


 前世の科学では、「精霊感応」は非科学的な迷信として扱われる。

 だが今、ソウはその「感応」の正体を、もう一つの角度から見始めていた。


 ——気圧の変化。風向きの変化。湿度の変化。空気の音の変化。


 バアはそれを「精霊の声」と呼ぶ。

 だが実体は、自然の微細な変化を、無意識のうちに体で読み取る能力だ。人が何百年もかけてこの土地で磨いてきた、体の知恵。

 それを「迷信」と括ってしまうのは、前世の傲慢だった。


「バア。雨は、どれくらい降りますか」


「そこそこ降る。半日から、一日くらいじゃろう」


「……わかりました」


 ソウは急いで畑に戻った。

 テツを呼んだ。


「テツ、畑の周りに排水の溝を掘る」


「……排水?」


「雨が来る。もし溝がなければ、水が畑に溜まって、また種が腐る」


 テツは何も聞き返さなかった。

 バアの雨予知は、族の中で外れたことがないと、テツも知っていた。



 排水溝を掘る作業は、朝から夕方まで続いた。


 畑の周囲に浅い溝を掘り、畑の外——川の方——へ水が流れるように傾斜をつけた。畑の中に水が入らないように、畑の高さを少し盛り上げた。


 ソウは図を描いて指示を出した。

 テツが石鍬で溝を掘った。

 ソウ自身も、手の届く範囲を木の棒で掘り返した。


 途中で、リアが通りがかった。


 リアはいつもと同じように、弓を背負っていた。

 畑の縁に立って、二人の作業を見た。


「……何してるの」


「明日、雨が来るんだ。畑が水浸しにならないように、溝を掘っている」


「——バアが言ったの?」


「そうだ」


「……なるほど」


 リアは少しの間、黙って作業を見ていた。

 それから無言で、弓を地面に置いた。

 細い若木の枝を一本拾い、畑の反対側に回った。


 そして、ソウの代わりに地面を掘り始めた。


 ソウは目を見張った。


「リア、……」


「一言も喋らない。早く終わらせる」


 リアはそう言って、手を休めなかった。


 狩人の手は、土を掘る作業に慣れていない。

 だがリアは文句を言わなかった。

 ただ、作業をした。


 テツがソウを横目で見た。

 ソウは小さく首を振った。


 ——何も言うな。

 ——この瞬間を、邪魔するな。


 三人で作業を続けた結果、夕暮れまでに排水溝は完成した。


 リアは最後まで一言も喋らず、溝が完成した瞬間に弓を拾い上げた。


「私は、行く」


「リア」


「なに」


「……助かった」


「別に」


 リアはそう言って、夕暮れの中へ去った。


 ソウはその背中を、長く見送った。



 翌日、雨が降った。


 バアの予言通り、半日で止まず、昼頃から夕方まで、しとしとと降り続いた。

 一時は、強い雨になった。


 ソウは集落の端で、畑の様子を見ていた。

 濡れないように、獣皮を頭からかぶっていた。


 雨は畑の中に溜まらなかった。

 排水溝を、水は順調に流れていった。畑の表面に水たまりはできず、土が適度に湿った状態で雨を受けた。


 第一の畑は、昨日の失敗があった。

 だが、第二の畑は今日の雨を耐えた。



 雨が上がったのは、夕方だった。


 西の空から雲が切れて、夕日が差した。

 畑全体に黄金色の光が当たった。


 ソウは畑に近づいた。


 土の表面は湿って、暗い色だった。

 排水溝には水がまだ少し残っていた。

 だが、畑そのものは無事だった。


 ソウは膝をついた。

 指で、溝の上の土をそっと探った。


 ——あ。


 最初は気のせいかと思った。

 指先に、柔らかい何かが触れた。


 土ではない。

 細い、糸のような、しなやかな何か。


 ソウはもう一度、土を指でかき分けた。


 緑が、見えた。


 薄い、透き通るような緑が、土の表面から頭を出していた。

 芽だった。

 本当に小さな、針の先ほどの、緑の芽。



 ソウは動けなかった。


 手が止まった。

 息が止まった。

 胸の中で、何かが一度だけ、大きく鳴った。


 感情を出しにくいソウの体が、今、勝手に動こうとしていた。


 膝は、土の上についたままだった。

 指は芽に触れようとして、触れなかった。

 触れたら、壊してしまう気がして。


 目の前の、針の先ほどの緑をただ、じっと見つめた。


 ——出た。


 出た。


 一本だけじゃない。

 よく見ると、二本、三本、五本、十本。

 溝の上に一列になって、小さな緑がぽつぽつと顔を出していた。


 ソウはもう一度、土の上に視線を落とした。

 指が震えていた。



 テツが走ってきた。


「——ソウ!」


「……」


「いるか、ソウ?」


 ソウは顔を上げた。

 テツが息を切らして、畑の縁に立っていた。


「どうした」


「バアが、雨明けたから畑を見に行けって。——」


 テツはソウの顔を見た。

 それから、畑を見た。

 ソウが膝をついて、何を見ているのか。


 テツが気づいた。


 目が大きく開いた。

 口が、一瞬だけ開いた。


「……出たのか」


「出た」


「本当に?」


「本当だ」


 テツはソウの横に駆け寄った。

 しゃがんで、土の上に顔を近づけた。


 そして、自分の目で緑の芽を見た。


「——出た!」


 テツが大声を上げた。


「出たぞ、ソウ! 本当に、出た!」


 テツの声は集落の方まで届いたかもしれない。

 だが、ソウは止めなかった。

 止められなかった。


「出たな」


 ソウは自分の声が震えていることに気づいた。


「出たな、テツ」


 テツはソウを見た。

 ソウはテツを見た。


 二人とも何も言わなかった。

 ただ並んで、膝をついて、芽を見ていた。


 夕日が畑の向こうに沈もうとしていた。

 芽の影が小さく、長く伸びていた。



 畑の縁で、足音が止まった。


 リアが狩りから帰る途中で、畑を通りかかっていた。

 弓を肩に担ぎ、小さな獲物を腰に下げていた。


 リアはソウとテツが、土の上に並んで膝をついているのを見た。

 畑の中に小さな緑が、列をなしているのを見た。


 リアは立ち止まった。


 何も言わなかった。

 近づきもしなかった。

 ただ、しばらくその光景を見ていた。


 それから、静かにまた歩き出した。


 だが、ソウは知っていた。

 リアが今日、畑の縁で足を止めた。

 昨日、排水溝を無言で掘った。

 ——それはもう、以前のリアではなかった。



 その夜、焚き火の前で、バアがソウに言った。


「……出たか」


「出ました」


 バアは目を閉じて、頷いた。


「お前の、手柄じゃない」


「……はい」


「土の手柄じゃ。そして、精霊の手柄じゃ。……お前は、手を貸しただけじゃよ」


「はい」


 ソウはその言葉を、素直に受け取った。


 前世の自分なら、「いや、自分の知識が」と主張したかもしれない。

 だが今は違う。

 バアの言葉は、正しかった。


 土と、水と、太陽と、時間。

 そして、人の手。

 これらが噛み合って、初めて、種は芽を出す。


 主役は、土だ。


 人は手を貸しているだけ。


 ——それで、十分だった。



 その夜、ソウは寝床に戻る前に、畑をもう一度見に行った。


 月の光の下、畑の土は黒くて、静かだった。

 芽は小さくて、月の光ではほとんど見えなかった。

 だが、確かに、そこにあった。


 ソウは畑の縁に立ったまま、空を見上げた。

 星が、無数に散っていた。


 ——ここからが、本当の勝負だ。


 出ただけでは食べられない。

 穂をつけるまで、何ヶ月もある。

 害虫が来る。鳥が来る。干ばつが来るかもしれない。

 全部を越えて、ようやく最初の収穫だ。


 でも——出た。


 その事実がソウの中で、静かに、揺るがないものになっていた。

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