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転生先は夜明け前 ―石器時代から文明を拓く―  作者: 夜摩 高嶺
第一部 播種の章

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第12話「育てる日々」

 発芽から数日後。


 芽は手のひらほどの長さに伸びていた。

 細い葉が空に向かって開いている。前世の記憶にある麦の幼苗に、少し似ていた。


 ソウは毎朝、畑に出た。

 葉の色を見る。

 土の湿り気を確かめる。

 害虫の気配を探す。


 作業というより、観察だった。

 前世の論文で「観察こそが最初の農業技術」と書かれていた一節を、今、体で理解し始めていた。



 問題は、十日ほどしてから現れた。


 葉に小さな穴が開き始めたのだ。

 よく見ると、葉の裏側に青緑色の細長い虫がついていた。


 一匹、二匹、三匹。

 手で取って潰すのは簡単だった。

 だが、畑全体を歩いて虫を取り続けるのは、膨大な時間がかかった。


 しかも、取っても、翌朝にはまた新しい虫がついている。


 ソウは途方に暮れた。


「テツ、これは」


「……多いな」


 テツが葉の裏を覗き込みながら、唸った。


「手で取るだけじゃ、追いつかないぞ」


「わかっている」


 前世の知識で知っている対策は、いくつかある。

 農薬。輪作。天敵の利用。虫除け植物の混植。

 だがこの世界ですぐに使えそうなのは、「虫が嫌う匂いの植物を畑の周りに植える」——コンパニオンプランツの発想だった。


 問題は、どの植物がこの世界の虫に効くのか、ソウには事前に知る術がなかった。



 バアに相談した。


 バアは、毎朝の薬草の仕分けをしながら、ソウの話を聞いていた。


「ふむ、青緑の細長い虫じゃな」


「はい」


「あれはな、匂いの強い草を嫌うんじゃよ」


 バアは手に取った薬草を見せた。

 細くて灰緑色の葉の植物だった。葉を指で潰すと、強い、鼻を刺すような匂いが立った。


 前世の記憶で、何かのハーブに似ていた。名前は思い出せないが、薬草として使うなら防虫効果を持つ植物は少なくない。


「これが、虫を寄せ付けないのですか」


「わしが薬草を干しとると、この草だけは虫がつかん。……お前が集めておる穂の草にも、たぶん効くじゃろうよ」


「試してみます」


「もう一つ」


 バアはもう一本、別の草を取り出した。

 白い花が咲きそうな、背の低い植物。


「これも同じじゃ。葉を揉むと、きつい匂いがする」


「二種類、植えてみます」


「畑の周りに、ぐるりと植えるんじゃな。薬草畑を真似すればよい」


 ソウはバアが昔から続けている、小さな薬草の群生地を思い出した。

 バアは薬草を採るのではなく、一部を集落の近くに植えて育てていた。完全な栽培ではないが、半ば意図的な育成だった。


 ——バアは、ずっと前から、やっていた。


 ソウはそれに、今、気づいた。


 ガラの民には、農業がない、と思っていた。

 だが実は、薬草の半栽培という形で、農業の萌芽はすでにあった。

 ソウがやっているのはゼロから一を作ることではなく、バアの半栽培の技術を穀物に応用することだった。


 その事実に気づいた時、ソウは少しだけ気が楽になった。

 自分は一人で新しい何かを生み出しているのではない。

 この民の知恵の延長線上に、立っている。



 次の日から、ソウとテツはバアに教えられた二種類の草を集めに行った。


 匂いの強い草を畑の周囲に、帯状に植えた。

 根ごと掘って、移植する。完全な栽培ではないが、しばらくは匂いが畑の周りに漂うようになる。


 効果は、三日ほどで現れた。

 虫の数が目に見えて減った。

 葉の裏に、青緑色の細長い虫はほとんどいなくなっていた。


 テツが驚いた顔で言った。


「……本当に、減った」


「バアの知恵だ」


「お前の知識と、バアの知恵と、両方が要るんだな」


 ソウは無言で頷いた。



 一ヶ月が過ぎた。


 畑の作物は、腰の高さまで伸びた。

 細かった茎が太くなり、しっかり地面に立っていた。

 葉も幅が広くなり、濃い緑色を帯びた。


 そして——穂が、出始めた。


 細くて、まだ青い穂が、茎の先にぽつぽつと顔を出した。

 ソウはそれを見た時、胸の奥でまた何かが動いた。


 種が芽になり、葉が茂り、そして今、穂が出た。

 前世の教科書で何度も読んだ「植物の成長のサイクル」が、目の前で時間をかけて、一つずつ起きていた。


 学問としての知識が、現実の形を取り始めていた。



 この頃から、族民の何人かが畑に興味を持ち始めた。


 最初は子供たちだった。

 穂の形が珍しかったらしく、畑の縁までやってきて、じっと見ていた。


「これ、食べられるの?」


 五歳くらいの男の子が、ソウに聞いた。


「まだ食べられないよ。でも、夏の終わりには、食べられるようになる」


「いつ?」


「あと、二つ満月が過ぎたら」


 子供は指を折って数え、少しがっかりしたような、それでも期待しているような顔をして、走って戻っていった。



 次に来たのは、大人たちだった。


 若い女たちが、数人で畑の縁に立っていた。

 木の実や根菜を集める係の女たちだった。普段は族の食料確保の大部分を担っている。


「……これ、本当に食べられるようになるの?」


「穂が茶色くなって、粒が硬くなったら、食べられます」


「粉にするって、聞いたけど」


「はい。粒を石で潰して、水で練って、火で焼きます」


「それは、木の実の粉と同じ作り方ね」


 彼女たちはお互い顔を見合わせた。


 木の実を粉にして焼き餅にする技術は、この民にはすでにあった。だから、穀物の粉の活用はゼロから教える必要がなかった。

 彼女たちは穂の形と粒の数を見て、「木の実よりもたくさん粉が取れるかもしれない」という計算を、自分たちで始めていた。


 ——これも、延長線だ。


 ソウは小さく頷いた。



 ゴウザは、畑の前を通った。


 ソウは畑の縁で穂の観察をしていた。

 ゴウザの足音に気づき、顔を上げた。


 ゴウザはソウを見た。

 次に、穂の伸びた畑を見た。

 次に、畑を囲む匂い草の帯を見た。


 そして——何も言わずに通り過ぎた。


 ソウはゴウザの背中を見送った。

 あれは嘲笑ではなかった。

 黙認とも違った。


 何かを——この男は胸の中で飲み込んだ。


 それが何かを、ゴウザ自身もまだ整理していないだろう。

 ソウはその「整理前の沈黙」を、遠くから静かに受け止めた。



 夕方、畑の脇でリアに会った。


 リアは狩りから戻ってきたばかりだった。

 獲物は若い鹿だった。矢は一本。喉元に命中していた。


 リアはソウを見つけると、足を止めた。

 いつもなら、すれ違うだけのところだった。

 今日は止まった。


「伸びたね」


「……ああ、伸びた」


 リアは畑を見渡した。


「これ、全部食べ物になるの?」


「穂の先の粒が、食べ物になる」


「……一粒が、どれくらい増えるの?」


 ソウは少し考えてから答えた。


「まだ、わからない。でも、たぶん、一粒から二十粒は取れる」


「二十」


 リアは指を折って数えているようだった。


「一粒が、二十粒。——二十粒を蒔けば、四百粒」


「その通りだ」


「四百粒を蒔けば、八千粒」


「……そうなる」


 リアはしばらく、畑を見つめていた。


「……すごい話ね」


 リアはそう言って、獣の脚を担ぎ直した。


「じゃあ、狩りに時間がかからなくなるの?」


「いずれは、そうなる」


「……へえ」


 リアはそれ以上何も言わず、また歩き出した。


 だが、ソウは知っていた。

 リアの頭の中で、今、何かが計算され始めていた。

 狩りだけで生きてきた女の頭の中に、「狩りだけではない」という可能性が、一つだけ入った。


 それは小さな、小さな変化だった。

 だが、確かに始まりだった。



 その夜、ソウは寝床で畑の成長予測を頭の中で立てていた。


 あと二ヶ月で、収穫。

 粒の数は畑の大きさから逆算すると、大人三人が十日食べられるくらい。

 少ないが、「できた」という事実の大きさは、量では測れない。


 次は、保存だ。

 そして、播種を拡大すること。

 二年目、三年目と繰り返せば、族の食料事情は根本的に変わる。


 ——順調だ。


 だが、順調な時こそ警戒しなければならない。

 前世の論文に、何度も書かれていた言葉。

 今は、静かに信じるしかなかった。


 ソウは目を閉じた。

 頭上の獣皮の向こうで、星の光が揺れているような気がした。

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