第12話「育てる日々」
発芽から数日後。
芽は手のひらほどの長さに伸びていた。
細い葉が空に向かって開いている。前世の記憶にある麦の幼苗に、少し似ていた。
ソウは毎朝、畑に出た。
葉の色を見る。
土の湿り気を確かめる。
害虫の気配を探す。
作業というより、観察だった。
前世の論文で「観察こそが最初の農業技術」と書かれていた一節を、今、体で理解し始めていた。
*
問題は、十日ほどしてから現れた。
葉に小さな穴が開き始めたのだ。
よく見ると、葉の裏側に青緑色の細長い虫がついていた。
一匹、二匹、三匹。
手で取って潰すのは簡単だった。
だが、畑全体を歩いて虫を取り続けるのは、膨大な時間がかかった。
しかも、取っても、翌朝にはまた新しい虫がついている。
ソウは途方に暮れた。
「テツ、これは」
「……多いな」
テツが葉の裏を覗き込みながら、唸った。
「手で取るだけじゃ、追いつかないぞ」
「わかっている」
前世の知識で知っている対策は、いくつかある。
農薬。輪作。天敵の利用。虫除け植物の混植。
だがこの世界ですぐに使えそうなのは、「虫が嫌う匂いの植物を畑の周りに植える」——コンパニオンプランツの発想だった。
問題は、どの植物がこの世界の虫に効くのか、ソウには事前に知る術がなかった。
*
バアに相談した。
バアは、毎朝の薬草の仕分けをしながら、ソウの話を聞いていた。
「ふむ、青緑の細長い虫じゃな」
「はい」
「あれはな、匂いの強い草を嫌うんじゃよ」
バアは手に取った薬草を見せた。
細くて灰緑色の葉の植物だった。葉を指で潰すと、強い、鼻を刺すような匂いが立った。
前世の記憶で、何かのハーブに似ていた。名前は思い出せないが、薬草として使うなら防虫効果を持つ植物は少なくない。
「これが、虫を寄せ付けないのですか」
「わしが薬草を干しとると、この草だけは虫がつかん。……お前が集めておる穂の草にも、たぶん効くじゃろうよ」
「試してみます」
「もう一つ」
バアはもう一本、別の草を取り出した。
白い花が咲きそうな、背の低い植物。
「これも同じじゃ。葉を揉むと、きつい匂いがする」
「二種類、植えてみます」
「畑の周りに、ぐるりと植えるんじゃな。薬草畑を真似すればよい」
ソウはバアが昔から続けている、小さな薬草の群生地を思い出した。
バアは薬草を採るのではなく、一部を集落の近くに植えて育てていた。完全な栽培ではないが、半ば意図的な育成だった。
——バアは、ずっと前から、やっていた。
ソウはそれに、今、気づいた。
ガラの民には、農業がない、と思っていた。
だが実は、薬草の半栽培という形で、農業の萌芽はすでにあった。
ソウがやっているのはゼロから一を作ることではなく、バアの半栽培の技術を穀物に応用することだった。
その事実に気づいた時、ソウは少しだけ気が楽になった。
自分は一人で新しい何かを生み出しているのではない。
この民の知恵の延長線上に、立っている。
*
次の日から、ソウとテツはバアに教えられた二種類の草を集めに行った。
匂いの強い草を畑の周囲に、帯状に植えた。
根ごと掘って、移植する。完全な栽培ではないが、しばらくは匂いが畑の周りに漂うようになる。
効果は、三日ほどで現れた。
虫の数が目に見えて減った。
葉の裏に、青緑色の細長い虫はほとんどいなくなっていた。
テツが驚いた顔で言った。
「……本当に、減った」
「バアの知恵だ」
「お前の知識と、バアの知恵と、両方が要るんだな」
ソウは無言で頷いた。
*
一ヶ月が過ぎた。
畑の作物は、腰の高さまで伸びた。
細かった茎が太くなり、しっかり地面に立っていた。
葉も幅が広くなり、濃い緑色を帯びた。
そして——穂が、出始めた。
細くて、まだ青い穂が、茎の先にぽつぽつと顔を出した。
ソウはそれを見た時、胸の奥でまた何かが動いた。
種が芽になり、葉が茂り、そして今、穂が出た。
前世の教科書で何度も読んだ「植物の成長のサイクル」が、目の前で時間をかけて、一つずつ起きていた。
学問としての知識が、現実の形を取り始めていた。
*
この頃から、族民の何人かが畑に興味を持ち始めた。
最初は子供たちだった。
穂の形が珍しかったらしく、畑の縁までやってきて、じっと見ていた。
「これ、食べられるの?」
五歳くらいの男の子が、ソウに聞いた。
「まだ食べられないよ。でも、夏の終わりには、食べられるようになる」
「いつ?」
「あと、二つ満月が過ぎたら」
子供は指を折って数え、少しがっかりしたような、それでも期待しているような顔をして、走って戻っていった。
次に来たのは、大人たちだった。
若い女たちが、数人で畑の縁に立っていた。
木の実や根菜を集める係の女たちだった。普段は族の食料確保の大部分を担っている。
「……これ、本当に食べられるようになるの?」
「穂が茶色くなって、粒が硬くなったら、食べられます」
「粉にするって、聞いたけど」
「はい。粒を石で潰して、水で練って、火で焼きます」
「それは、木の実の粉と同じ作り方ね」
彼女たちはお互い顔を見合わせた。
木の実を粉にして焼き餅にする技術は、この民にはすでにあった。だから、穀物の粉の活用はゼロから教える必要がなかった。
彼女たちは穂の形と粒の数を見て、「木の実よりもたくさん粉が取れるかもしれない」という計算を、自分たちで始めていた。
——これも、延長線だ。
ソウは小さく頷いた。
*
ゴウザは、畑の前を通った。
ソウは畑の縁で穂の観察をしていた。
ゴウザの足音に気づき、顔を上げた。
ゴウザはソウを見た。
次に、穂の伸びた畑を見た。
次に、畑を囲む匂い草の帯を見た。
そして——何も言わずに通り過ぎた。
ソウはゴウザの背中を見送った。
あれは嘲笑ではなかった。
黙認とも違った。
何かを——この男は胸の中で飲み込んだ。
それが何かを、ゴウザ自身もまだ整理していないだろう。
ソウはその「整理前の沈黙」を、遠くから静かに受け止めた。
*
夕方、畑の脇でリアに会った。
リアは狩りから戻ってきたばかりだった。
獲物は若い鹿だった。矢は一本。喉元に命中していた。
リアはソウを見つけると、足を止めた。
いつもなら、すれ違うだけのところだった。
今日は止まった。
「伸びたね」
「……ああ、伸びた」
リアは畑を見渡した。
「これ、全部食べ物になるの?」
「穂の先の粒が、食べ物になる」
「……一粒が、どれくらい増えるの?」
ソウは少し考えてから答えた。
「まだ、わからない。でも、たぶん、一粒から二十粒は取れる」
「二十」
リアは指を折って数えているようだった。
「一粒が、二十粒。——二十粒を蒔けば、四百粒」
「その通りだ」
「四百粒を蒔けば、八千粒」
「……そうなる」
リアはしばらく、畑を見つめていた。
「……すごい話ね」
リアはそう言って、獣の脚を担ぎ直した。
「じゃあ、狩りに時間がかからなくなるの?」
「いずれは、そうなる」
「……へえ」
リアはそれ以上何も言わず、また歩き出した。
だが、ソウは知っていた。
リアの頭の中で、今、何かが計算され始めていた。
狩りだけで生きてきた女の頭の中に、「狩りだけではない」という可能性が、一つだけ入った。
それは小さな、小さな変化だった。
だが、確かに始まりだった。
*
その夜、ソウは寝床で畑の成長予測を頭の中で立てていた。
あと二ヶ月で、収穫。
粒の数は畑の大きさから逆算すると、大人三人が十日食べられるくらい。
少ないが、「できた」という事実の大きさは、量では測れない。
次は、保存だ。
そして、播種を拡大すること。
二年目、三年目と繰り返せば、族の食料事情は根本的に変わる。
——順調だ。
だが、順調な時こそ警戒しなければならない。
前世の論文に、何度も書かれていた言葉。
今は、静かに信じるしかなかった。
ソウは目を閉じた。
頭上の獣皮の向こうで、星の光が揺れているような気がした。




