第13話「畑を守る」
穂が、実を膨らませ始めた。
細かった穂の一粒一粒が、少しずつ太くなっていく。
薄緑だった色が、徐々に黄緑色を帯びてきた。
風が吹くと、穂の先がわずかに重そうに揺れた。
ソウは毎朝その揺れを見ていた。
そして、鳥が来るようになった。
*
最初は一羽の小鳥だった。
麻雀に似た、茶色い体の小さな鳥。
翌朝は三羽。
その翌朝は十羽ほど。
鳥は穂の先に止まり、嘴で器用に粒をつついた。
一羽あたりの被害は小さい。だが、十羽、二十羽と増えれば、畑全体で無視できない量の粒が失われる。
「……これは、まずいな」
ソウは葉の上に落ちた鳥の羽を見ながら、呟いた。
「どうするんだ」
テツが横で聞いた。
「人間の形をしたものを、畑に立てる」
「……人間?」
「人の形をしたものを見ると、鳥は少しの間、近づかない。人を恐れる習性があるからだ」
ソウは前世の「案山子」の記憶を頼りに、枯れ枝と古い獣皮で人の形をしたものを組み立てた。
テツがソウの指示に従って、骨組みを作った。
頭になる部分に、古い毛皮の切れ端を縛りつけた。
両腕を広げた形にして、畑の中央に立てた。
夕方、それが完成した。
遠くから見ると、黒い塊が畑の真ん中に立っているように見えた。
近くで見ると、明らかに「人ではない」もの。だが鳥の目なら、一瞬は騙せるかもしれない。
*
効果は二日あった。
二日目の夕方まで、鳥の被害は目に見えて減った。
ソウは成功を確信した。
だが、三日目の朝。
鳥は案山子のすぐ横で、平然と穂をつついていた。
一羽は案山子の頭の上にすら、止まっていた。
「……慣れるのが、早いな」
テツが唸った。
「人間じゃないって、見抜いたんだな」
「動かないから、すぐに慣れる」
ソウは頭を抱えた。
案山子は一時的な解決にすぎない。
前世の農業でも、案山子だけで鳥害を防ぐ方法は長続きしないと知られていた。次の手が要る。
「動いてるやつは、違うんじゃないか」
テツがぽつりと言った。
「動く……?」
「うん。たまに、狩りの途中で枝に獣皮が絡まってて、風でパタパタ動いているのを見ると、鳥は絶対に近寄らない。動くものは生き物に見える。生き物なら鳥は警戒する」
ソウはテツの言葉を、しばらく頭の中で転がした。
——動くもの。
——風で動く。
前世の記憶に、風車や吹き流しの原理があった。
この世界に、まだそういう発想はない。
だがテツが言っているのは、まさにそれだった。
「テツ、それだ」
「え?」
「風で動く仕掛けを作る。丸い棒を中心にして、薄い布を四方に張る。風が吹けば布が回る。回れば、鳥は『動くもの』を認識して近づかない」
テツは、ソウの言葉を聞きながら、すでに頭の中で仕掛けを組み立て始めていた。
石ではなく木の話になると、テツの理解の速さは常に恐ろしかった。
「……それ、面白いな」
テツはにっと笑った。
*
風で動く仕掛けは、一日で作り上げられた。
畑の四隅に、背の高い棒を立てた。
棒の先に、横棒を十字に固定した。
横棒の端に、獣皮の切れ端を短冊状に垂らした。
風が吹くと、短冊がバタバタと音を立てて揺れた。
強い風の時は、全体がぐるりと回った。
効果は劇的だった。
鳥はその日の夕方から、畑の近くには寄り付かなくなった。
時折、一羽か二羽が恐る恐る近づくことがあったが、風で短冊が激しく揺れると必ず飛び去った。
*
リアが昼過ぎに畑を通りがかった。
いつものように弓を肩にかけ、狩りの途中だった。
畑の四隅で獣皮の短冊がひらひらと揺れているのを見て、足を止めた。
「……何、これ」
リアの声には、かすかに笑いが混じっていた。
「鳥除けだ」
ソウは真面目に答えた。
「……ふうん」
リアは棒の一つを見上げた。
短冊が風に合わせて、くるくると回っていた。
「……変なもの、考えるね」
「効果があれば、なんでもいい」
「効いてるの?」
「昨日から、鳥は寄ってこなくなった」
「……本当?」
「本当だ」
リアはしばらく、短冊の動きを見ていた。
それから、少しだけ笑った。
小さな笑いだった。
鼻で笑ったのではない。呆れて笑ったのでもない。
何か、微妙な——面白がっているような笑い。
「お前、本当に、変な奴ね」
リアはそう言って、歩き去った。
だが今日の「変な奴」という言葉は、昔と明らかに違った。
昔は侮蔑の重みがあった。
今は好奇心の重みがあった。
*
穂は、さらに実を膨らませていった。
緑から黄緑、そして淡い金色へ。
粒の中身が硬くなり始めていた。
指で潰そうとしても、最初の頃のような、ふにゃりとした感触は消えていた。
ソウは毎朝、三つの判断基準を確認した。
穂の色。粒の硬さ。穂の垂れ具合。
前世の知識では、麦の収穫判断は「穂が黄金色、粒が爪で割れる硬さ、穂が頭を垂れる」だった。
この世界のアムも、原理は同じはずだった。
だが、色の変化の速度や粒の硬さの基準は、前世の麦とは違っていた。
*
夕方、バアの小屋に寄った。
「バア、ちょっと相談です」
「なんじゃね」
「収穫の時期をいつにすべきか、判断がつきません」
バアは薬草を束ねていた手を止めた。
ゆっくり立ち上がり、ソウと一緒に畑まで歩いた。
バアは畑の中央まで入り、一本の穂を指で摘まんだ。
爪で、粒の一つを割った。
中の白い部分を、指で確かめた。
「まだ、柔らかいな」
「……もう少し、待ちますか」
「実りは、焦ってはいかん」
バアは穂を元の茎に戻した。
「早すぎれば、青い。青いまま刈ると、粉にしても粘らん。水を含み過ぎで腐りやすい。遅すぎれば、今度は穂から粒が落ちる。鳥に食われる。風で落ちる。地面に落ちれば、二度と拾えん」
「……どこが、一番良いのですか」
「ちょうど良い、というのは毎年違うんじゃ。空の色と、風の乾き具合と、穂の重み、全部で決まる。わしが薬草を採る時も、同じじゃよ」
バアはソウを見た。
「お前が毎朝、穂を見とるじゃろう。その観察を、もう数日続けなさい。自分の目で、『今日だ』と思う日が来る。その日が、収穫の日じゃ」
「……はい」
ソウは頷いた。
前世の教科書は、「粒の水分量が何パーセントで」という具体的な数値を示してきた。
だがバアの答えは、「お前の目が、決める」というものだった。
それは非科学的な助言ではなかった。
むしろ、長年の観察が体に染みついた人だけが持てる、本物の答えだった。
*
三日後の朝。
ソウはいつものように畑に立った。
穂の先を、指で撫でた。
色は黄金色。
粒は爪で潰すと、硬い音を立てて割れた。
穂は頭を、重そうにわずかに垂らしていた。
——今日だ。
ソウは自分の中で、何かが決まる音を聞いた。
理屈ではない。
毎朝、一ヶ月以上穂を見続けてきたソウの中で、「今日だ」という確信がただ、立ち上がった。
「テツ」
ソウは、畑の端で石を削っていたテツを呼んだ。
「明日、刈る」
「——明日?」
「穂は今日の夕方まで、一日かけて乾く。夜は露が降りる。朝、露が乾いたら、刈り始める」
テツは立ち上がった。
石の欠片をぽいと放り投げた。
「石の鎌、ちゃんと研いでおく」
その目は朝より、一段明るかった。
ソウは空を見上げた。
今日は雲一つなかった。
風は穏やかだった。
ちょうど良い、乾いた秋の風。
——明日が、最初の刈り入れだ。
その事実を、ソウは何度も心の中で反芻した。




