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転生先は夜明け前 ―石器時代から文明を拓く―  作者: 夜摩 高嶺
第一部 結実の章

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第88話「みんな……」

「トゥ、起きない」


 ホシの声が、夜明け前の住居の中で低く落ちた。

 震えてはいなかった。震えるための息が、八歳の喉にまだ整っていなかった。革幕の隙間から差し込む薄い光が、寝床の縁の毛皮を白く撫でていた。

 メイは、すぐには動かなかった。


 動かない一拍があって、それからメイの手がトゥの胸の方へ伸びた。

 指の腹が、毛皮の上から胸の高さを一度押した。押した指の下で、胸は上下しなかった。指は離れず、もう一度押した。三度目に、指は離れてメイの掌の上に乗った。空中に止まった。

 ハマが寝床の脇に膝を落とした。


「メイ」


 ハマの声は低かった。

 メイは答えなかった。答えるための声が、まだ喉の奥で形になっていなかった。掌の上の指が、ゆっくりトゥの額の方へ運ばれていく。額に触れた掌は離れなかった。離す動きが思い出されなかった。

 カナは寝床の足元側にいた。


 前夜から、その位置を動いていなかった。

 膝の上で組んだ両手の中に、半分湿った薬草の葉が一枚だけ握られていた。煎じる前のまま握り潰されかけて、青い汁が指の腹を薄く染めていた。

 メイの動きを、カナの目は追っていた。


 追っていた目が、トゥの口元の高さで止まった。

 カナの口は薄く開いて、また閉じた。飲み込んだ何かは声にはならなかった。

 メイの喉の奥で、低い音が上がってきた。


 音は声にならなかった。

 喉の途中で引っかかって止まった。止まった音の代わりに、メイの肩が一度大きく揺れた。

 ハマはメイの背に手を回した。


 回した腕は力を込めなかった。

 背中に触れた掌だけが、メイの揺れる肩に合わせて上下した。

 ホシは寝床の脇で膝を抱えた。


 抱えた膝の上で、ホシの額が自分の腕の中に落ちた。

 肩の縁で、小さく息が漏れた。漏れた息は泣き声にはならなかった。八歳の喉は、泣くための形を、今朝はまだ見つけられなかった。

 カナは、握っていた葉をゆっくりと持ち替えた。


 持ち替えた葉を、トゥの顔の脇に運んだ。

 葉は、頬の脇に青い面を上にしてそっと置かれた。指は、葉の縁を一度だけ撫でて離れた。

 バアの時に置いた手と、同じ置き方だった。



 革幕の外で、足音が止まった。

 ガランだった。入り口の革幕には触れず、外側に立ったまま、隙間から一度だけ中を見た。見て、目を閉じた。

 ソウとテツとリアが、ガランの脇に集まった。


 ソウは革幕の前で足を止めた。

 ガランは振り返らなかった。ソウは革幕を、自分の手で半分めくった。

 めくった隙間から、カナの背中が薄い光の中に見えた。


 カナはソウの方を振り返らなかった。

 膝の上の手が、もう一度トゥの頬の脇の葉に触れて離れた。離れた手は自分の口元に運ばれて止まった。止まった指の隙間から、低い音が一度だけ上がってきた。咳だった。

 ソウの肩が、革幕の縁で半呼吸だけ止まった。


 リアはソウの後ろから中を一度見た。

 見て、すぐに目を逸らした。逸らした先で、自分の弓の弦に指を触れた。触れたまま、しばらく動かさなかった。

 テツは何も言わなかった。


 言わないまま、テツの目は、トゥの顔ではなくカナの背中に止まっていた。

 テツの目の中で、何かが一度深く沈んだ。沈んだ何かが、二度目に上がってこなかった。閉じた唇の縁がわずかに震えた。

 ソウは革幕を元の角度に戻した。



 昼。

 空き地の中央で、粥の鍋が薄く湯気を立てていた。

 葬列の支度はまだ始まっていない。トゥの体はハマ家の住居の中央に寝かせ直された。メイとハマがその脇から離れず、ホシが入り口の脇で、また膝を抱えていた。

 誰も話さなかった。


 カナは鍋の脇にいた。

 膝を鍋の縁に落とした形で、座り込んでいた。両手は薬草の束を、平らな石の上にもう一度並べ直していた。並べる指の動きは、いつもの順序だった。

 順序は守られていたが、指の角度がいつもより低かった。


 テツは鍋の脇に膝をついていた。

 カナの手元から目を離さなかった。離さなかった目の奥で、二日前に革幕の脇から見た「埃」と、夕に革幕の隙間から見たカナの肩の揺れと、今朝の革幕の縁の動きが、一本の線の上に並べ直されていた。

 テツの口の中で、一度、何かが言葉になりかけて飲み込まれた。


 飲み込まれた後で、もう一度上がってきた。

 今度は口の外に出た。


「カナ」


 テツの声は低かった。

 いつもの軽さは、無かった。脱線も、無かった。


「お前——」


 テツの声は続かなかった。

 続かない代わりに、テツの掌が自分の膝の上で一度握り直された。握り直した拳の上に、もう一方の掌が乗った。

 カナは振り向かなかった。


「埃」


 カナは低く言った。

 声の縁が震えていた。押し戻そうとして、押し戻し切れなかった。指の腹で葉を押さえる動きが、半呼吸止まった。止まった指の縁で、もう一度咳が上がってきた。

 肩が揺れた。


 テツの目の中で、何かが崩れた。

 バアの時に「嘘だろ」と言った口の崩れ方とは、種類が違った。あの時は声が出た。今は声が出てこなかった。出てこない場所から、テツの目の縁が薄く赤くなった。

 テツは立ち上がった。


「ソウ」


 声は低かった。作業場の白板の前まで、ちょうど届く高さだった。

 ソウは白板の前から顔を上げた。上げた顔の中で、ソウの目は既にテツの目と同じものを見ていた。


 白板の前から鍋の脇まで、十歩。

 十歩の間に、ソウの目は、カナの肩の高さと、葉の上の指の角度と、口元から漏れた咳の音を一つずつ拾った。三つは頭の中で一本の線の上に並んだ。

 ソウは鍋の脇に膝を落とした。


 膝を落として、カナの背中に声を当てなかった。

 代わりに、テツの方を一度見た。テツは何も言わずに、自分の掌の上の拳をソウに見せた。見せたのではない。下ろせなかった。

 ソウは低く息を吸った。


「カナ。鍋の脇は、もういい」


 カナは振り向かなかった。

 葉の縁から指を離した。離した指は、膝の上にゆっくり下ろされた。


「俺は——」


 言いかけて、止まった。

 ソウの掌が膝の上で一度握られた。握った拳の中に、トゥの頬の脇の葉の青い面と、今朝の革幕の隙間から見えたカナの背中と、二日前の白板の上の四つの点が、同時に収まった。

 ソウの口の中で、もう一度声が形になった。


「——間に合わなかった」


 声は誰にも向けていなかった。

 向ける相手の場所を、ソウは今、自分の中に持っていなかった。テツはその声を聞いて、頷かなかった。頷く代わりに、もう一度自分の拳を握り直した。握り直した拳の縁が白くなった。

 カナは振り向かなかった。


 振り向かないまま、カナの背中がソウの方へわずかに動いた。

 息を吸う動作だった。息を吸って、カナは何かを言いかけて、また飲み込んだ。代わりに、もう一度咳が肩の奥から上がってきた。

 今度の咳は長かった。



 夕。

 カナの寝床は、バアが薬草畑のそばで使っていた住居の中に整えられた。

 毛皮を二重に重ねて、頭の側を薬草畑の方角に向ける形で置かれた。置いたのはリアとカヤだった。リアは毛皮の角度を直し、カヤはその脇で、薬草の束を新しく差し替えた。

 カナは寝床に横になった。


 横になった体は軽かった。

 三日の間で、半分抜けた。抜けた体の脇に、カヤが膝を落とした。ミラがその後ろから、白い面の粘土板を一枚運んできた。

 カヤは粘土板を、カナの寝床の脇に置いた。


「カナ。薬草の話を、もう一度聞かせて」


 カナは薄く目を開けた。

 視線はすぐにはカヤを捉えなかった。捉える前に、一度、住居の天井の方へ流れた。流れた目は、戻ってきて、カヤの顔の脇で止まった。

 カナの口が薄く開いた。


「苦い葉は——傷の根と一緒に煎じる時、湯を二度沸かす」


 声は低かった。

 いつもの半分の高さだった。半分の高さでも、言葉の縁ははっきりしていた。バアの五十年の順序を、カナはひとつずつ口から外に出していった。

 カヤの指が、粘土板の白い面の上で動いた。


 木片の先が、葉の形を一つ刻んだ。

 刻んだ脇に、もう一つ根の形を刻んだ。形と形の間に、短い線を一本引いた。ミラがその脇から、刻まれた線を見ていた。


「丸い葉は、火を弱くしてから入れる。強い火で入れると香りが抜ける」


 カヤの指が、もう一つ葉の形を刻んだ。

 刻んだ脇に、火の形を小さく。火の脇に下向きの矢印をひとつ。粘土の表面に、二つ目の文字の組み合わせが生まれていた。

 ソウは住居の入り口の脇から、粘土板の上の線を目で追っていた。


 線の数は、夕の間に七本になり、十二本になり、二十本を越えた。

 越えた数の脇で、カナの声はだんだん細くなった。細くなった声の合間に、咳が二度、三度と混じった。


「あとは——カヤ姉さんが知ってる方が多い」


 カナの口は薄く笑った。

 笑った形は一拍だけだった。一拍の後で笑いは消えて、目の縁が薄く湿った。湿った縁の下で、カナはカヤの方を一度だけ見た。

 カヤは頷かなかった。


 頷く代わりに、自分の掌をカナの掌の上に重ねた。

 重ねた掌の下で、カナの指は薄く動いた。動いた指は、自分の口元の方へ運ばれて止まった。


「私、寝ていい——?」


 カナの声は子供の声だった。

 十五歳の声では、無かった。バアに薬草の量を教わっていた頃の、もっと前の声。

 カヤは頷いた。


「うん」


 カヤの声は低かった。

 震えなかった。震える場所が、まだ今夜の中に置かれていない。カヤの掌は、カナの掌の上に重ねたまま動かなかった。

 カナの口が、もう一度薄く動いた。


「みんな、元気で——」


 声は最後の音まで続かなかった。

 続かない代わりに、咳が上がってきた。咳の後で、カナの口は閉じた。閉じたまま、しばらく開かなかった。



 夜。

 焚き火の脇に、立ち会いの輪が組まれた。

 ソウ、テツ、リア、カヤ、ミラ、ガラン。六人だった。輪はいつもの夕の輪より狭かった。中央の地面の上に、バアの椀がひとつ置かれていた。場所の継続のための椀だった。

 誰もそれに触れなかった。


 カナは住居の中の寝床に寝かされていた。

 寝床の脇に、リアが膝をついていた。弓は入り口の脇に立て掛けてあった。今夜は弓を膝の上に置かず、代わりに自分の両手を、カナの手の上に重ねていた。

 リアの手は震えなかった。


 カナの呼吸は浅かった。

 間隔が長くなった。合間に、咳が二度上がってきた。咳の後で、また浅い呼吸が続いた。リアの手の下で、カナの指は薄く二度動いた。動いた指は止まった。

 リアは低く言った。


「カナ。いい子だよ」


 言葉はリアの口から出た。

 リアが自分で組み立てた言葉ではなかった。あの夏の朝、丘の東側の盛り土の前で、リアの口を通って外に出た言葉の、最後の形だった。「あの子は不思議だけど、いい子だよ」と墓の前で言われた言葉が、今夜、「いい子だよ」だけの形でカナの手の上に置かれていた。

 カナの指が薄く、もう一度動いた。


 テツは寝床の足元側に立っていた。

 立ったまま、手を下ろしていた。下ろした両手は、握られていなかった。握る場所が、テツの手の中にもう無かった。

 テツの目の縁から、ゆっくりと水が落ちた。


 声は出なかった。

 出ない代わりに、テツの肩が一度深く下がった。下がった肩は上がってこなかった。バアの時の「嘘だろ」の崩れ方より深かった。深い場所まで、テツは今夜、一人で降りていた。

 ソウは寝床の脇で膝を落とした。


 膝を落として、リアの手の上に自分の掌をもう一つ重ねた。

 重ねた掌の下で、カナの指がもう一度薄く動いた。動いた指は、ソウの掌の縁を一度だけ撫でた。半拍の後で、指は止まった。

 ソウは何も言わなかった。


 ガランは住居の入り口の脇に立っていた。

 立ったまま、目を上げなかった。喉の奥で、低い音は今夜、一度も上がってこなかった。三日の間、夕に夜に「埃だ」と言い続けたガランの咳が、今夜出なかった。


 カナの口が薄く開いた。


「みんな……」


 声は低かった。


「元気で……」


 息は二つに分かれていた。

 みんな、で一度。元気で、で二度目。三度目の息が来なかった。あの夕の鍋の脇で三つに分けて出された息の形が、今夜、二つで止まった。

 「いてね」は来なかった。


 リアの掌の下で、カナの指は動かなかった。

 ソウの掌の縁の下でも、動かなかった。指の温度が、だんだん皮膚の同じ温度に近づいていった。

 誰も何も言わなかった。


 カヤは寝床の脇に膝を落とした。

 薬草の束から葉を一枚抜いて、自分の指の腹で一度撫でて、それから、カナの口元の脇に青い面を上にして置いた。

 バアの時にカナが置いた手と、同じ置き方だった。


 焚き火が爆ぜた。

 爆ぜた音が、革幕の隙間から薄く中に入ってきた。音の中に、夜の風が混じっていた。風はバアの薬草畑の方角から、薬草の匂いを運んでいた。

 ミラは入り口の脇に立っていた。


 立ったまま、リアとソウの背中を見ていた。

 ミラの目の縁から、声を出さない涙がゆっくり伝った。八歳の手は、何かに伸ばす場所をまだ持っていなかった。持たないまま、自分の腰の脇で片手がもう一方の手の指を握っていた。



 空き地の中央の焚き火の脇に、バアの椀が置かれていた。

 誰の手も触れなかった。椀の隣に、もう一つの場所が地面の上で薄く空いていた。空いた場所には、まだ何も置かれていなかった。

 輪郭だけが、夜の闇の中で見えていた。


 風がもう一度、空き地の脇を抜けた。

 風は薬草の匂いを運んで、革幕の隙間の方へ消えていった。

 夜が、丘の縁から深く上がってきていた。

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