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転生先は夜明け前 ―石器時代から文明を拓く―  作者: 夜摩 高嶺
第一部 結実の章

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第87話「四人、五人」

「キイが、熱い」


 オンの声が朝の空き地に低く落ちた。

 三日目の朝だった。まだ薪の煙が立ち上がる前の時刻で、丘の縁の風はもう、秋の本体の方へ角度を変えていた。トゥの熱は二日経っても下がらない。下がらないまま、三日目の朝が始まろうとしていた。


 オンはタル一家の住居の革幕の外に出てきて、そこに立ったまま動かなかった。

 両手は空に組まれている。組まれているが、組み方が固かった。八歳の額に当てた掌の感触を、まだ指の腹が覚えている顔だった。


「いつから」


 カナが鍋の脇からそれだけ聞いた。

 声の高さはトゥの時と同じだった。同じ高さで聞けることが、今朝のカナの掌の上の唯一の続きだった。


「昨日の夕。夜の間に上がった」

「咳は」

「ない。熱だけだ」


 カナは葉を二枚、自分の掌に並べ直した。

 二日前にトゥの方へ運んだ時と同じ角度。同じ順序。だが、葉の枚数を選ぶ指の動きが、今朝はわずかに長かった。長くしたのではない。長くなった。



 昼前にもう一人、出た。

 ホシだった。


 メイの胸の中でトゥの揺らされる脇に、ホシが膝を抱えて座り込んだまま、額に汗が出ない種類の熱を上げていた。気づいたのは弟の枕元から離れない兄をメイがふいに見たからだった。メイの掌がホシの額に伸びて、伸びた手のまま止まった。

 「お前まで」とメイは言いかけて、言わずに飲み込んだ。声を出せば崩れる種類の場所にもう来ていた。


 空き地の中央で、ガランは焚き火の脇に膝を落とした。

 膝を落として、しばらくそのまま動かなかった。喉の奥の鈍い音は、今朝はまだ一度も鳴っていない。鳴らさないように飲み込んでいるのかもしれなかった。

「埃だ」とは、今朝まだ一度も言っていなかった。


 夕方までにさらに二人、出た。

 ハマ一家のメイ自身が、夕の鍋の脇でしゃがみ込みかけたところを、ハマの肩が支えた。額の熱は子供たちと同じ種類の熱だった。汗は出ていない。

 もう一人は既存族民のムロだった。陶器大壺の脇で粒を量っている途中で手が震え、量り直そうとした掌が壺の縁の上で止まり、止まったまま動かなくなった。サガが脇から椀を受け取ってムロを座らせた。ムロは座らされてからもう一度立とうとして、また座った。


 四人、五人。

 ソウは作業場の脇の白板の前にしゃがみ、指の腹で板の縁を一度なぞった。

 二本の線の脇に、今夕、印を四つ重ねた。並べた印は線にならず、点のままだった。点のまま並べておきたかった。線にすると、認めることになる種類の並びだった。



「離す」


 ガランが夕の輪が組まれる前に、低く言った。

 誰にともない声の高さではない。集落の全員に届く高さで、だが声を張りはしなかった。


「熱の出ている者を、一つの場所に」


 ガランは続けた。

 言ってから、空き地の縁の方を顎で示した。柵の北の縁の脇、五棟の住居の一番外側に立つ住居だった。冬には風除けのために誰も住まない、空のままの一棟。


「ハマ一家は、あそこへ移す。トゥとホシとメイ。ハマもだ」

「ムロは」


 ベンが聞いた。声は低い。


「ムロもだ。キイもだ」


 ガランは答えた。

 タルが革幕の脇から一歩出てきて、口を開きかけ、開かずに止まった。八歳の娘を一棟の外側の住居へ運ぶことを口で確かめるには、まだ言葉の準備が出来ていない顔だった。


「同じ場所に集める方が、薬湯を運びやすい」


 ソウが続けて言った。声はガランの脇に置く形だった。


「カナの手も一つの場所で済む。看る者も決めやすい」


 誰も反対しなかった。

 反対しないのは賛成だからではない。反対する位置を誰も持っていないからだった。隔てるという形が、丘の上で初めて口に出された形だった。



「私はここにいる」


 カナが鍋の脇から言った。

 空き地の中央で。声は低い。だが迷いはなかった。


「薬草の鍋は、ここで煎じる。運ぶのは誰か」


「俺が運ぶ」


 ソウが答えた。


「ベンと二人で」


 ベンが頷いた。北の谷の小集落崩壊で末子を失った男の頷きは深かった。

 カヤが半歩前に出てカナの肩の脇に立った。

「私も運ぶ。薬湯の方は私の手も使える」

 カヤはそれだけ言った。聞く姿勢ではなく、見る姿勢の続きで言った。


 ガランはカヤの方を一度見て、頷いた。

 頷いてから、自分の喉の奥で何かが上がってきかけたのを、ぐっと飲み込んだ。飲み込み切れずに、低い音が一度だけ鳴った。半秒。

「埃だ」

 ガランは今夕も言った。

 誰も問い返さなかった。問い返さない朝から夕まで、これで三日目に入る。



 日が落ちてから、移動が始まった。

 ホシは自分の足で歩けた。トゥはメイが胸に抱えて運んだ。ハマがその脇に革袋と三人分の寝床用の毛皮を担いで歩いた。

 ムロはサガの肩に半分体を預けるようにして空き地の縁の住居へ向かった。途中で一度足が止まり、サガの腕が下から支え直された。

 キイはタルが背に負ぶった。八歳の体は背中の上で熱に半分溶けたように動かなかった。オンがその脇を、片手をキイの背中に当てたまま歩いた。


 五棟のうちの一番外側の住居に五人が入った。

 革幕の縁をベンが内側から張り直した。風の抜け方をわずかに調整した結果、革幕の隙間は他の住居より少しだけ狭くなった。中の空気が外へ流れる角度をベンの手が変えた。

 ソウは外側に立って、革幕の角度を一度だけ目で確かめた。


 ガランは住居の脇まではついて行かなかった。

 ついて行かないことが、ガランの咳をその住居の中へ持ち込まないためのガランなりの距離の置き方だった。族長として全体を見渡す位置に、今夜は立ち続けた。



 夜の遅い時刻、カナは薬草を煎じていた。

 鍋の脇に膝をついて、苦い葉と丸い葉と傷の根を、平らな石の上に三つ並べる。並べてから、葉の縁を指の腹で一枚ずつめくる。順序はバアの頃からの順序だった。順序の中で、指の動きはいつもと同じ角度で進んでいた。


 その時だった。

 カナの喉の奥で、乾いた音が一度上がってきた。

 止めようとした。指の腹で葉を押さえる動きが、半呼吸だけ止まった。止めたが、止め切れなかった。一度。それから二度。三度目に、咳が肩の奥から上がってきた。

 肩が一度大きく揺れた。


 ソウは見ていた。

 作業場の脇から、白板の前から、見ていた。


「埃」


 カナは低く言った。

 葉の縁から指を離さず、振り返らないまま、低く言った。


「鍋の脇は、薪の粉が立つから」


 声は乾いていた。

 乾いていたが、二日前にカヤがカナの肩の脇に置いた「秋の入り口の風邪では、ないような気がする」の中の温度と、同じ場所から出ていた。


 カヤが薬草を運ぶ袋を腹の前に抱えたまま、半歩、鍋の縁の方へ近づいた。

「カナ」

 カヤは低く言った。


「座って」

「いい」

「私が代わる」


 カヤは続けた。


「お前は私の手の動きを、もう知っている。私もお前の手の動きを見ていた。代われる」


 カナは振り向かなかった。

 振り向かないまま、自分の喉の奥でもう一度上がってきた咳を、奥歯の方で半分押し戻した。半分は外に出た。

 葉の縁から離した指で、口元を一度押さえる。押さえた指は、離した時に、外の光に晒さない角度で胸の前に下ろされた。

 ソウだけが、その角度を見ていた。


「明日の朝、私が代わる」


 カナは答えた。

 代わる、と言ったのは、座る、への返事ではなかった。今夜は煎じ切る、という形の返事だった。

 カヤは半歩離れたが、薬草の袋を腹から下ろさなかった。下ろさずに、カナの肩の脇に立ったままでいた。



 ソウは作業場の脇に戻った。

 粘土板の白板の前に膝を落とし、上から下へ目を流した。

 二本の線。点が四つ。点はまだ線ではない。線にしないために、ソウは指を板の方へは伸ばさなかった。


 頭の中で、別のものが並んでいた。

 苦い葉と丸い葉と傷の根の組み合わせ。葉の枚数。煎じる時間。三度の薬湯の間隔。バアから教わったものと、自分が口の中で組み立て直したものを、一つずつ頭の中で並べ直す。

 並べ直して、もう一度組み合わせを変える。変えてみても、答えは出てこなかった。


 ソウは知らずに、自分の指で空中に短い線を一本引いた。

 乾いた粘土には触れない。残らない。

 残らない線の上に置こうとしたのは、結論ではない。「下がる熱」と「下がらない熱」の違いだった。違いを示す線の引き方が、ソウの頭の中には無かった。

 組み合わせを尽くしても薬草の種類を増やしても煎じる順序を変えても、トゥの額の汗は出てこなかった。キイの額にも、まだ汗は出ない。


 俺の知識でも、分からない。

 口には出さなかった。

 ソウは指の腹で空中に引いた線をもう一度同じ場所から引き直した。引き直しても線は残らない。


「待つしかないのか」


 テツが作業場の脇の影から、低く聞いた。

 いつから立っていたのか、ソウには分からなかった。


「下がる時もある。下がらない時もある」


 ソウは答えた。声は乾いていた。


「どちらがどちらに転ぶのかは——分からない」


 テツは頷かなかった。頷かないが、否定もしなかった。

 黒曜石の小片を持つ手をテツは作業場の石の上に下ろしたままだった。今夜は新しい矢じりの木の柄を一本も固定していなかった。



 空き地の縁の住居の革幕の隙間から、薄い焚き火の光が漏れていた。

 その光の中で、五つの呼吸が一つの空気を分け合っている。トゥと、ホシと、メイと、ムロと、キイ。

 ハマは入り口の近くに座って革袋の口の紐をいじっていた。二日前と同じ動きだった。解く意思も結ぶ意思もない、指が動いているだけの動きだった。


 オンはキイの脇に座って、娘の額に置いた掌の角度を一度も変えなかった。

 タルは革幕の脇に立ったまま、外の方を見ていた。外を見ているのは内側を見ない時間を作るためだった。


 空き地の中央では、カナが鍋の縁の杓を握り直していた。

 握り直す動きの途中で、もう一度、肩が小さく揺れた。

 誰も口に出さなかった。

 カヤが半歩離れた場所から、カナの背中を見ていた。見ていることが今夜の輪の中で一つの隔ての形だった。



 ガランが焚き火の脇で薪を足した。

 足す手の途中で、喉の奥でまた低い音が鳴った。半秒。

「埃だ」

 ガランは今夜も言った。

 誰も問い返さない。


 ソウは白板の前で、点を一つ消そうと指を伸ばしかけて、止めた。

 点は消すものではなく、残すものだった。残しておかなければ、明日もう一つ点を重ねた時に、何本目になるのかが分からなくなる。

 頭の中で、ソウはもう一度数を数えた。

 四人。トゥ、キイ、ホシ、ムロ。それからメイで五人。

 ガランの咳は別の線の上に並んでいる。並んでいたが、今夜は別の線のままで置いておきたかった。


 風が空き地の縁から上がってきた。

 秋の風だった。乾いて、冷たく、軽かった。

 空き地の縁の住居の革幕の隙間から、トゥの小さな声は今夜も聞こえなかった。

 二日前は眠ったのか眠れないのかが分からなかった。今夜は聞こえないのが二人分なのか五人分なのか、革幕の外側のソウには分からなかった。


 明日の朝、カナが代わる、と言った。

 誰が代わるのかはまだ決まっていなかった。

 秋の三日目の夜が、丘の縁から音もなく上がってきていた。

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