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転生先は夜明け前 ―石器時代から文明を拓く―  作者: 夜摩 高嶺
第一部 結実の章

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第86話「熱、下がらない」

「トゥ、熱い」


 ホシの声が、ハマ一家の住居の革幕の隙間から、空き地の方へ薄く漏れてきた。

 秋の入り口の朝で、まだ薪の煙が立つ前の時刻だった。鍋の脇に立っていたカナの背中が、その声に半呼吸遅れて向きを変える。


 カナは住居の北側の壁へ先に歩いた。

 苦い葉、丸い葉、傷の根。三つの干し束のうち、苦い葉の前で足が止まる。指の腹で葉の縁をめくり、裏の色を確かめる。順序はバアの頃のままだった。

 二枚を選んで、足を戻す。向かう先は鍋の縁ではなく、ハマ一家の住居の方だった。



 革幕の内側で、メイがトゥを膝の上に抱えていた。

 トゥの額に当てたメイの掌が、置かれてからしばらく動かない。掌の下のトゥの頬は、夜のうちに紅潮が薄く広がっていた。汗の粒はまだ出ていない。出ない方の熱だった。

 ホシは父の脇に立って、弟の顔を見ている。八歳の足は、地面の上で一歩も動かなかった。


「いつから」


 カナは入り口の革幕の縁を片手で押さえたまま、声を低くした。中の三人の動きを乱さない高さの声だった。


「夜中だ」


 ハマが答えた。


「真夜中だと思う。ホシが先に気づいた」


 ホシは父の言葉に頷かなかった。代わりに、寝床の縁にもう一度目を落とした。真夜中に弟の体が熱かったのは、自分の腕の下だった。腕の下で弟の呼吸の音が一度だけ変わった。その音を、寝床の縁で覚えていた。ホシはまだ言葉にしていない。


「咳は」


「ない」


 メイが代わりに答えた。掌は額の上のままだ。


「咳はない。熱だけだ」


 カナは小さく頷いた。

 頷いて、葉を二枚、自分の掌の中に並べ直す。並べ直す動きは、鍋の縁で湯気を待つ時の動きと同じ角度だった。



 空き地の中央に戻ったカナの背中を、ソウは作業場の脇から見ていた。

 粘土板の三枚は今朝も平らな石の上に伏せたまま、白板にだけ二本の線が残っている。ソウの手は板に伸びていない。目はカナの肩の動きの方を追っていた。


 火打ち石の手は、いつもの手だった。乾いた藁の縁を指の腹で四回押して、平らに整える。火が薪に移る。

 革袋から水が鍋に注がれた。注ぎ口の角度と注ぐ速さと、途中の半呼吸の間。バアの動きが、今朝も鍋の縁で外側へ出ていた。

 ただ一つ違うのは、水の量がいつもより浅いことだ。子供一人分の薬湯、と量で告げている浅さだった。


 湯気が立ち上がる半拍だけ前に、カナは葉を落とした。

 葉の縁から、青い香りが鍋の縁の上に伸びる。

 ソウは知らずに息を止めていた。半拍。バアもそう待った。理由は誰も知らない。



 カナが薬湯の椀を両手で運んだ。

 椀の縁を腹の前で抱える形で、ハマ一家の住居の革幕の方へ歩く。歩幅は朝の鍋の脇に立つ時と同じだった。

 革幕の脇でカヤがいつの間にか立っていた。両手を腹の前で軽く組み、足音は立てなかった。


 カヤは、カナの後ろから半歩遅れてついていく。

 聞く姿勢ではない。見る姿勢だった。

 ソウの目は二人の背中を一度だけ追って、それから粘土板の方に戻った。戻したが、戻したのは目だけで、頭の方はまだ二人の背中の方に残っていた。



 住居の中で、カナはトゥの脇に膝をついた。

 メイの腕の中のトゥは、目を半分だけ開いている。瞼の下の目は焦点を結んでいなかった。

 カナは椀を自分の膝の上に一度置き、指の腹で椀の縁の熱を測った。それから両手で椀を持ち直し、メイの方を見上げた。


「飲ませる」


 メイが頷いた。

 カナは椀の縁をトゥの口の方へゆっくりと運ぶ。葉を湯気の薄い縁の方へ落とす時と同じ角度だった。

 トゥの唇がかすかに動いて、薬湯の縁を一度なめた。苦い、と顔に出る前に、もう一度なめた。三口目で目が薄く閉じる。

 カナは椀をメイの膝の脇に下ろした。


「もう少し、後で」


 カナはメイの方に言った。声は低い。


「半時の後にもう一度」


「分かった」


 メイが答えた。声はやはり乾いている。


 カヤは革幕の脇に立ったまま、カナの指の動きを目でなぞっていた。

 なぞるだけで、口は開かない。



 昼の前に、ガランが空き地の中央で薪を組み直していた。

 組み直す手の途中で、ガランの喉の奥で低い音が一度鳴った。半秒で止まる。胸からではなく、喉のくぼみの方が震えた音だった。

「埃だ」

 ガランは誰の方も見ずに言った。

 誰も問い返さない。ハマもベンもダイも、ガランの咳の方をもう問わない種類の朝になっていた。


 ソウは作業場の脇からガランの背中を一度見た。

 それから、ハマ一家の革幕の方へ視線を戻す。隙間からメイの掌の角度が薄く見えた。

 ガランの咳とトゥの熱は、ソウの頭の中の白板の上では別の線の上に並んでいた。並んだままで、繋げない。今朝はまだ繋げる時ではなかった。



 昼の薬湯を、カナはもう一度煎じた。

 葉の枚数も水の量も順序も同じだった。

 だが昼の鍋の縁で、カナの口がほんの一瞬だけ閉じた。閉じて、すぐに開き直す。喉の奥で何かが上がってきかけて、口を結んで押し戻したような閉じ方だった。

 ソウだけが見ていた。カナ自身がそれに気づいた顔ではなかった。


 二杯目を運ぶカナの背中を、ホシが革幕の脇で待っていた。

 ホシは椀を受け取って、自分の手で弟の口へ運ぶ。八歳の手が、朝にカナがやっていた角度をすでに半分なぞっていた。

 カヤはその脇に立ったまま、また何も言わない。

 カナはトゥの足元に掌を置いた。掌の下の熱は、朝より下がっていなかった。



 夕の風が丘の縁から薄く上がってきた頃、ガランは焚き火の脇で膝を落とした。

 組んだ手の脇に、バアの椀の縁の欠けが夕の光の中で短い影を地面に落としている。

 カナが鍋の縁で杓を握り直した。

 握る位置は柄頭から指三本下のまま、鍋の表面を時計の進む向きの逆になぞる。なぞる手の途中で、もう一度カナの口が閉じた。すぐに開く。今度はソウだけでなく、カヤの目も捉えていた。

 捉えたが、カヤは口を開かない。


 夕の配給の輪が、ハマ一家の住居の脇にも椀を一つ届けた。

 トゥの分の薬湯は、メイが両手で受け取った。受け取った手が、ほんの少しだけ震えていた。震えを隠さなかった。隠す余裕が、メイの掌にはもう残っていなかった。



 翌日の朝も、トゥの額は熱かった。

 二日目の夕も、トゥの額は熱かった。

 いつもの熱なら、下がり始める時刻がもう過ぎている。秋の入り口の風邪なら、二日目の夕には汗が出始めるはずだった。トゥの額には、まだ汗の粒が出ていなかった。


 カナは葉の組み合わせを変えた。

 苦い葉に、丸い葉。丸い葉に、傷の根。傷の根に、もう一度苦い葉。三度の薬湯のたびに組み合わせを一段ずつずらしていく。

 ずらす指の動きに迷いはなかった。だが迷いのない動きの中に、答えを出すための動きと、答えを待つための動きがあった。今朝のカナの動きは、答えを待つ方だった。


 ソウは作業場の脇で、白板の上の二本の線を見た。

 線の片方の脇に、今日の印を重ねなかった。

 ハマ一家の革幕の方から、ホシの足音だけが今朝も時々空き地の方へ出てくる。出てきて、薪を一本拾い、すぐに戻る。八歳の足は弟の脇から長く離れなかった。



 二日目の夕、空き地の脇でカナが鍋の縁の杓を握り直した時、カヤがその後ろに立った。

 立って、半呼吸だけ動かなかった。それから低い声を、カナの肩の脇に置いた。


「秋の入り口の風邪では」


 カヤはそれだけ言った。


「ないような気がする」


 カナは振り向かなかった。

 杓を一度鍋の縁に立て掛けて、両手を腹の前で組み直す。組んだ指の中で、指がもう一度互いの皮膚を撫でた。

 撫でた指は冷たくなかった。冷たくはなかったが、喉の奥の方で何かが薄く重く感じられた。感じたのはカナだけだった。


「葉を、変える」


 カナは低く答えた。声は乾いている。


「明日の朝もう一度。別の組み合わせで」


 カヤが頷いた。頷いて、もう一度何か言いかけて、言わなかった。

 言わなかったことは、ソウの目の端にだけ留まった。



 夜のハマ一家の革幕の脇にソウは立った。

 メイがトゥを胸の前に抱えて、小さく揺らしている。歩き疲れた幼児を眠らせる揺らし方ではない。熱の中で眠れない子供を、母の掌の温度で塗り直そうとしている揺らし方だった。

 ハマは脇に座って、革袋の口の紐をいじっている。解く意思も結ぶ意思もない、指が動いているだけの動きだった。

 ホシは父と母の間に膝を抱えて座っていた。眠っていなかった。


「飲んだか」


 ソウは低く聞いた。


「飲んだ」


 ハマが答えた。


「だが、汗が出ない」


 メイが続けた。

 声は、二日前にハマ一家が斜面を登り終えた時の「四人で——来られた」と同じ乾き方だった。

 ソウは何も言えなかった。頭の中で言葉を組みかけて、組み終わる前に口の外へ出さなかった。「待つしかない」とも「下がる」とも「分からない」とも、言えなかった。

 ソウは革幕の脇に半呼吸だけ立ち、一度だけ深く頷いた。頷いて、空き地の方へ戻った。



 焚き火の脇でカナが自分の椀を両手で包んで湯気の中に頬を寄せていた。

 二日前と同じ姿勢だった。

 二日前と違うのは、湯気の縁の頬の赤みの中に、夕の光ではない別の赤みが薄く混じっていたことだった。

 ソウは焚き火の反対側からカナの顔を見た。見たが、頭の中の白板の方では、線をまだ重ねなかった。重ねれば認めることになる種類の線だった。今夕のソウには、認める準備が出来ていなかった。


 カヤがカナの肩の脇に椀を一つそっと置いた。

 昨夜と同じ位置に、同じ角度で置いた。カナが目を開けて椀の方を見、それからカヤの方を見上げる。カヤは何も言わない。ただカナの肩の方を一度だけ目で確かめ、それから自分の椀の方に戻っていく。

 カヤの目の中の確かめは、昨夜より少しだけ長かった。



 ガランが焚き火の脇で薪を足した。

 足す手の途中で、喉の奥でまた低い音が鳴った。半秒。

「埃だ」

 ガランは今夕も言った。

 誰も問い返さない。だがハマ一家の革幕の方からも、トゥの方からも、応える音は返ってこなかった。


 ソウは作業場の脇から白板の方を見た。

 二本の線の脇に、今日も印を重ねなかった。線は変わらずそこに残っている。

 二日経った。熱はまだ下がらない。

 頭の中で、ソウは三つを並べた。ガランの喉の鈍い音。トゥの額の熱。カナの口の半拍の閉じ方。並べたが、結論は出さなかった。結論を出すには、まだ早かった。


 風がもう一度空き地の脇を抜けた。

 ハマ一家の革幕の隙間から薄い焚き火の光が漏れる。漏れた光の中で、トゥの小さな声は今夜は聞こえなかった。

 眠ったのか、眠れないのか。革幕の外側のソウには分からなかった。

 秋の入り口の夜が、丘の縁からゆっくりと上がってきていた。

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