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転生先は夜明け前 ―石器時代から文明を拓く―  作者: 夜摩 高嶺
第一部 結実の章

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第83話「煎じる手」

 朝の鍋の前にカナが一人で立っていた。


 空き地はまだ薄い青みを残していた。秋の入り口の朝で、土の表面が夜のうちにわずかに固まる季節になっていた。鍋の下の薪はもう三本、夜明け前にキイの手で並べてある。火はまだ起こされていない。


 カナは住居の北側の壁の方へ歩いた。

 歩幅はいつもと同じだった。北壁に吊るしてある三つの干し束のうち、苦い葉の束の前で足が止まる。指の腹で葉の縁を一枚分めくり、裏の色を確かめる。葉の裏の色を見るのはバアの頃からの順序だった。


 指の腹が、葉脈の真ん中を一度なぞった。


 なぞる角度は、カナがこの一年で何度も繰り返してきた角度だった。だが今朝のなぞり方には、自分の指でなぞっているという意識が薄かった。なぞるというより、葉脈の方が指の腹を呼んだ。指は呼ばれた線の上を半呼吸で滑った。

 カナは二枚を選び抜いた。



 ソウは作業場の脇から、カナの背中を見ていた。

 粘土板の三枚を平らな石の上に伏せたまま、手を伸ばさずにいた。配給板、鍬印板、白板。今朝のソウの目は板の方ではなく、カナの方に向いていた。


 カナが束から離れて、鍋の脇へ戻った。


 火打ち石を取る手は、いつもの手だった。乾いた藁の縁を指の腹で四回押して、平らに整える。整え方の四回も、バアの動きと同じ回数だった。

 火が立った。


 薪の中ほどへ炎が移った瞬間に、カナは鍋を石の上に据えた。鍋の右手の半歩先、革袋の口を内側に向ける。バアは焚き火の脇ではいつも革袋の口を内側に向けていた。理由は誰にも答えなかった。

 革袋から水が鍋に注がれた。


 注ぎ口の角度と注ぐ速さと途中の間が、一つの動きの中で同時に出ていた。

 水位がカナの掌の幅の半分まで来た時、革袋が止まった。



 カナは指先を、鍋の縁の脇でわずかに開いて閉じた。

 冷たい、と思った気配はカナの表情には出ていない。出ていなかったが、指の腹が一度だけ、鍋の縁の薪の熱の方へ向けられた。秋の入り口の朝の冷たさよりもう一段だけ深い冷たさが、指の先に残っていた。残っていただけだった。


 カナはその指で、もう一度葉を持ち上げた。

 二枚を石の上に並べ、指の腹で葉脈の上を軽く揉む。揉む強さは葉を裂かない強さで、葉の縁の青さがわずかに浮き上がる。揉み終わったら鍋の縁の方へ運ぶ。運び方は、葉の重さを掌に乗せるのではなく、指の腹に貼りつけるようにして運ぶ動きだった。


 湯が立った。


 湯の表面に細かい泡が並ぶ瞬間ではなく、その半拍だけ前。鍋の縁の内側に、湯気の白さが薄く立ち上がる瞬間。カナは葉を落とした。落とした位置は鍋の中央ではなく、湯気の薄い縁の方だった。

 葉の縁から、青い香りが立った。


 ソウは作業場の脇で、知らずに息を一つ止めていた。


 半拍だった。湯が立つ瞬間ではなく、半拍待つ。バアは、そう待った。理由は誰も知らない。だが今朝のカナの指は半拍待った。



 脇に立っていた人影に、ソウは半呼吸遅れて気づいた。

 カヤだった。住居の革幕の方からいつ来たのか、足音は立てなかった。両手を腹の前で軽く組み、鍋の脇の半歩離れた場所に立っている。聞く姿勢ではなく、見る姿勢だった。目はカナの指の方に落ちている。


 カナは杓を取った。柄の中ほどではなく、柄頭から指三本下の位置を握る。鍋の表面を杓で一度だけ撫でる。撫でる方向は時計の進む向きではなく、その逆の向きだった。

 一周して、杓を鍋の縁の脇に立て掛ける。


 立て掛ける角度は斜めだった。垂直に立て掛けると湯気の通りが変わる、とバアは一度だけ言ったことがある。カナがその一度を聞いていたかどうかは、もう確かめようがない。


 カヤの口が薄く開いた。


「東の谷でも」


 カヤの声は低く、輪の中の誰にも届かない大きさだった。鍋の脇のカナとソウの間にだけ届く距離。


「似た葉を、使った」


 カナの杓を立てる手が、ほんの一瞬だけ止まった。

 止まったが、振り向かなかった。聞いていたが、振り向く形ではない。カナはそのまま杓を鍋の縁に置き、両手を腹の前に下ろした。


「苦い葉に、似た葉と」


 カヤは続けた。


「丸い葉に、似た葉。傷の根に似た根は、東の谷では細かった。ここの方が、太い」


 教える形でも、自分の知識を見せる形でもなかった。情報を置く、という置き方だった。

 カナは杓に置いた手を、もう一度ゆっくり鍋の縁に近づけた。



 ソウの目に、二つの手元が並んだ。

 葉が湯の中で広がり始めた瞬間に、カヤの目とカナの指が同じ角度で動いた。角度は誰の指示でもなかった。二人とも、葉の縁の浮き上がり方を見ていた。


 ソウの頭の中で、何かが薄く重ねられた音がした。

 バアの指が動いた角度を、カナの指が一年かけて自分のものにしてきた。その角度の上にカヤの目がもう一つの角度を重ねた。同じではない。だがずれてもいない。



 焚き火の脇の方で、ガランが膝を落とした。


 いつもの位置だった。両手は焚き火に向けない。膝の上で組んだまま、薪の崩れる小さな音だけを聞いている顔だった。座る動きが、冬の入り口の頃よりほんの少し遅い。ソウはその遅さを頭の中の白板の上にもう何度も乗せていた。

 ガランの喉の奥で、低い音が一度だけ鳴った。


 半秒も続かない、鈍い音。胸の方からではなく、喉のくぼみのあたりが一度だけ震えた音だった。ガランは膝の上の手を動かさなかった。

「埃だ」とは、もう今朝は言わなかった。


 カヤの目が焚き火の方へ流れた。


 流れて、すぐに鍋の縁の葉の方へ戻った。戻る速さの中に何かを判じている人間の間があった。カヤは両手の組みをわずかに直し、低い声で言った。


「あれは——埃の咳だ」


 声はカナの方に向けて落とされた。

 カナは振り向かなかった。だが鍋の縁の指の動きが半拍だけ間を空けた。聞いたという形の間だった。

 カヤは続けた。


「南で、もう一つ別の咳が広がっている、と聞いた。埃の咳と、別の咳。葉の使い方も、違う」


 カヤの言葉の中の「別の咳」は、はっきりとは指していなかった。

 指してはいなかったが、二つの咳を分ける目を持っているということは、はっきりとそこにあった。


 ソウの目の端にそれが留まった。

 留めたが、その先の問いはまだ口にしなかった。今朝の鍋の脇で置く問いではなかった。



 カナは葉の浮き上がりを見届けて、両手を腹の前で組み直した。

 組み直した手の中で、指がほんの少しだけ互いの皮膚を撫でた。先ほどの冷たさが、まだ指の先の方に薄く残っていた。残っていたが、カナはそれを判じる顔ではなかった。


 組んだ両手の前で、カナの口が薄く開いた。

 開いただけだった。声は出なかった。「みんな、元気で」も「いてね」も、出てこなかった。


 代わりに、カナは鍋の縁の方へ薄く頭を寄せて、軽く一度だけ頷いた。

 頷いた相手は鍋なのか、湯気なのか、葉なのか、それともこの場所のどこか別の場所にいる誰かなのか。カナ自身が言えない頷きだった。

 頷きが終わると、カナは杓をもう一度握って、鍋の表面を一度撫でた。


 ソウは作業場の脇で、頭の中で短く言葉を置いた。

 声に出さなかった。出す場面ではなかった。


 ——バアが、そこにいる気がした。


 いる、と思ったのはカナの背中の中だった。

 指の角度、葉の選び方、杓の握り方、半拍の間。一つひとつをカナが意識して再現しているのではない。意識の外側で、すでにカナの体の方がバアの動きを覚えていた。

 覚えた動きが今朝の鍋の縁で、自然に外側へ出ていた。



 配給の輪はいつも通り進んだ。

 カナが配給の最初の椀を取り、族民が一人ずつ椀を両手で受け取った。香りは昨日と同じ濃さだった。葉の枚数は二枚に戻っていた。三枚ではない。


 最後にガランが受け取った。

 ガランの椀を持つ手は、膝の上で一度だけ支えられた。膝の皿の上に椀の底が一度触れ、すぐに離れた。


 カヤは自分の椀を受け取って住居の革幕の方へ戻っていった。

 戻る背中の途中で一度だけソウの方に振り向き、わずかに頷いた。ソウもわずかに頷きを返した。



 配給が終わって族民が散ったあと、カナは鍋の脇に立ったままだった。


 杓を鍋の縁に立て掛ける。立て掛ける角度は斜めのままだった。両手を腹の前で軽く組み、組んだ手の中で指がもう一度だけ撫でた。撫でた指の先の冷たさは、もう薄れていた。

 カナの口はもう開かなかった。


 カナは鍋の縁を一度なめるように見て、それからゆっくりと立ち上がった。

 立ち上がる時、膝の片方がわずかに重かった。重かったが、カナの顔にはそれが出なかった。秋の入り口の朝の地面の冷たさが、膝の裏まで上がってくる季節になっただけだ、という顔だった。


 ソウは作業場の脇からその後ろ姿を見送った。

 粘土板の三枚はまだ伏せたままだった。白板の上に線を一本足すべきかどうか、ソウはまだ判じられなかった。足さなかった。



 夕の風が丘の縁から薄く上がってきていた。

 秋の入り口の風で、土の匂いの中に乾いた気配が薄く混じり始めていた。焚き火の脇でバアの椀の縁の欠けが夕の光の中で短い影を地面に落としていた。


 粥の鍋がもう一度、薪の上で温まり始めた。

 カナが鍋の脇に来て、北壁から下げてきた苦い葉の二枚を平らな石の上に並べた。指の腹で葉脈をなぞる角度も揉む強さも運ぶ手のかたちも、すべて朝と同じだった。


 ソウは作業場の脇から見ていた。

 朝、カヤが「東の谷でも、似た葉を使った」と言った時のカナの杓の動きは半拍だけ止まった。止まったが振り向かなかった。継承の話を、聞く形ではなく、置かれる形で受けた。



 夕の配給が終わってから、ソウは焚き火の輪の縁で足を止めた。

 カナが自分の椀を両手で包んで湯気の中に頬を寄せていた。湯気の縁で頬がわずかに赤く見えた。冷たさはもうカナの指の先には残っていなかった。

 残っていなかったが、ソウの頭の中の白板の上には、もう一本だけ薄く線が伸びかけていた。


 線は何の意味も持たない線だった。

 持たないが、引く場所はそこにあった。バアの動きがカナの背中の中に住みついた朝のことを、頭の中のどこかに置いておく場所が今夕のソウには必要だった。

 理由を、ソウはまだ言葉にできなかった。


 風がもう一度、空き地の脇を抜けた。

 焚き火の脇でバアの椀の縁の欠けの影がほんの少しだけ動いた。

 秋の入り口の夜が、丘の縁からゆっくりと上がってきていた。

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