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転生先は夜明け前 ―石器時代から文明を拓く―  作者: 夜摩 高嶺
第一部 結実の章

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第82話「南で、熱が」

「南の斜面に一人」


 見張り台のリアの声が、午後の空き地へ降りてきた。

 夏の終わりの日差しがまだ柵の影の縁を白く焼いている時刻だった。ソウは作業場の脇で、粘土板の三枚を平らな石の上に並べ替えていた。配給板、鍬印板、白板。白板の上には、夏の入り口の朝に引いた短い線が一本だけ残っている。


「背に袋」


 リアが続けた。声に張りはない。だが、緩みもない。


「歩き方に迷いがない」

「南西からか」

「南西だ」


 テツが手の中の木の柄を石の上に置いた。柄の先には、まだ何も嵌まっていない。



 ソウは梯子の方へ歩きながら、この春の終わりの男の背中を思い出した。

 大きな革袋。両肩の紐。歩幅に迷いがなく、首が前に落ちない歩き方。林の縁で南西へ角度を変えた背中。あの男は夏の終わりに話を持ってくると言って去った。

 夏は、ちょうど終わりに差しかかっている。


「同じ男か」


 ガランが空き地の中央から、低く聞いた。

 立ち上がる時に、ガランの右手が一度膝の上に置かれた。置いて、そのまま体を起こした。半秒。誰の目にも止まらない動きだったが、ソウの目には止まった。

 ガランは「お前が話せ」とだけ言った。


 梯子を登り切ると、リアが柵の隙間から南の斜面を指で示した。

 斜面の中ほどを、男が一人登ってくる。背に革袋。首に革紐の貝殻の首飾り。


「ハミだ」


 テツがソウの脇でそれだけ言った。ソウより先に言ったのは、テツの方だった。



 柵の門が開かれ、ハミが袋を担いだまま中に入った。

 春の時より、ハミの足の運びは少し疲れて見えた。袋の重さは春と同じくらいだったが、肩の下がり方がわずかに深い。陽に焼けた頬の線は、夏の光の下でさらに深く彫り込まれていた。

 ハミは袋を地面に下ろし、ゆっくりと顔を上げた。


「夏の終わりに来た」


 ハミは言った。


「覚えていた」


 ソウは答えた。


「次から数える」


 ハミは口の端でわずかに笑った気配を見せた。春の去り際の「次から、数えよう」を、ハミの方でも口の中に残していた者の笑いだった。



 袋の口の紐がほどかれた。半分だけ。いつもの手順だった。


 黒曜石の片は十五枚。春の二十枚より少ない。だが縁の割れ方は前のどれよりも整って、片面の縞模様は七片に伸びていた。質の上で春を上回っていることが、テツの目の動きで分かった。テツは数を口にせず、掌を革袋に伸ばす一歩手前で止めてソウの方を一度見た。

 貝殻の束は春より小さい。だが束の脇にもう一枚、別の貝が置かれた。春に置いていった一枚と形が呼応する貝で、一枚目より小ぶりで巻きの角度が反対の方向に曲がっていた。

 赤い色の塊。春と同じ大きさ。

 塩。春より、半分ほどの袋。

 干した実の包み。春の二倍はあった。


「実は今年は多く採れた」


 ハミは静かに言った。


「南の海岸の手前の谷で。雨が夏の入りに少なかった」



 ガランは塩の小さな袋に目を留めた。

 春の塩は夏の汗の季節を越えるあたりで底をついていた。半分の袋が次の冬まで届くかどうかは、ガランの頭の中で計算する量だった。

 だがガランはすぐには口を開かず、ハミの脇に置かれた二枚目の貝殻を視線の中で短く拾った。


 ソウは二枚目の貝殻に親指の腹で触れた。

 春に置かれた一枚は、もう作業場の脇の平らな石の上へ移されている。粘土板の三枚と並べて、貝殻の影が一つ。そこに今、もう一枚を並べることになる。一枚目だけでは「特別」だが、二枚目が加わると「組」になる。


「二枚目だな」


 ソウは言った。


「春の話の続きだ」


 ハミが頷いた。頷きの動きは、ハミとしては大きい部類だった。



 ハミは袋の縁にしゃがんだ姿勢のまま、空き地の方を一度なめた。

 住居の屋根の藁の編み目。窯の覆い。畑の方角の青い茎の並び。陶器大壺三つ。粥の皿と焼き肉の皿の重ね方。粘土板の方は今日は作業場の脇に伏せて置いてあった。ハミの目はそれを伏せたまま留めた。

 留めて、それから別の話を口にした。


「南で、熱が広がっている」


 ハミの声は淡々としていた。


「秋の入りに、いくつかの集落で人が倒れた」


 ハミの目は地面の方に落ちていた。売り込みの声でも脅す声でもない。袋の紐をほどく時と同じ温度の声で、ただ情報を置く、という置き方だった。


「子と年寄りから、先にやられる」

「治る者と治らない者の違いは」

「まだ誰にも分からん」


 ハミは三つを、別々の間で置いた。間の取り方は、ハミ自身がその情報の重さを測りながら言葉を選んでいる種類の間だった。

 空き地の中央で、ガランが膝の上の手をわずかに組み直した。



 その瞬間だった。

 ガランの喉の奥で、低い音が一度だけ鳴った。

 夏の入り口の朝と同じ、半秒も続かない鈍い音。胸の方からではなく、喉のくぼみのあたりが一度震えた音。


 ハミの顔がガランの方へ動いた。動いたが、口を開く前にガランが先に口を開いた。


「埃だ」


 ガランは夏の入り口の朝と同じ声で言った。誰にともない声の高さだった。

 ハミはガランの口の動きを半呼吸ほど見ていた。それから地面の方に視線を戻した。聞かなかったが、聞かなかったというのは、聞いたのと同じ重さだった。


 ソウは自分の頭の中で何かが重ねられた音を聞いた気がした。



 脇で薬草を干す紐の方から、カナの手の動きが一拍だけ遅れた。

 束を選び直していた指が葉の縁を一枚分めくりかけて、めくり終わる前に止まった。止まって、それから、めくり終えた。半瞬。カナ自身がその遅れに気づいた顔ではない。指の腹の方が先に外の話を耳の隅で受け取って、手の動きを半瞬ずらしただけだった。


 リアは見張り台の柵の上で、両手の指を丸太の上に並べたまま動かさなかった。リアの目はハミの口の方ではなく、ハミの目の方を見ていた。情報の出どころを測る目だった。



「いくつだ」


 ガランが低く聞いた。咳の余韻はもう、体のどこにも残っていなかった。


「東の海岸沿いで十数人。南の谷の二つでもう少し。北の方は聞かない」


「ここまで来るか」


 ガランが続けて聞いた。


 ハミは即答しなかった。すぐに答えない種類の問いだと、分かっている者の間の取り方だった。


「分からん」


 ハミは答えた。


「来る時もあるし来ない時もある。風に乗るかどうかは誰にも分からん」


 ガランは頷いた。警戒の指示も柵の閉めの指示も出さなかった。脅威として柵の内側に持ち込むには、南は遠かった。情報として頭の中の棚にひとまず置く——そういう置き方だった。



 交換は柵の門の前で行われた。

 黒曜石十五枚、貝殻の束、二枚目の特別な一枚、赤い塊、塩の半袋、干した実の二倍の包み。代価は、粒の半袋と薬草の束三つと陶器の小皿一枚。春と同じ並びだった。

 ノタが粒を量って小袋に詰め、アズが薬草の束を干し紐から外して結び直し、ベンが小皿を運んできてハミの脇に置いた。


「次はいつだ」


 ガランが最後に聞いた。


「冬の入り口にまた」


 ハミは答えた。


「来られるなら来る。雪が早ければ春の入り口だ」


 ハミは袋を肩に背負った。袋の中で、何かが鈍くぶつかる音がした。ハミの首は、春と同じく前に落ちなかった。



「もう一つ聞く」


 ソウはハミの背中に声を当てた。


「南の谷の名前は」


 ハミは振り返らなかった。振り返らないまま、しばらく考えてから答えた。


「名前はいくつもある。倒れたのはその中の二つだ」


 ハミはそれだけ言った。ソウは追って聞かなかった。追って聞けば、ハミの口は閉じる種類の口だった。


 ハミは丘の南の斜面を降りていった。歩幅は春と同じだった。袋の中の音の混ざり方が、春より少しだけ深く響いた。ハミの背中は林の縁で角度を変えた。南西の方角だった。



 ハミの背中が見えなくなってから、ソウは作業場の脇の平らな石の前にしゃがんだ。

 粘土板の三枚の隣に、貝殻の影が二つになった。一枚目の隣に、二枚目を並べる。並べただけで、頭の中の数え方の形が一段増えた。

 だが、ソウの頭の中の白板の方では、別のものが並んでいた。


 夏の入り口の朝の、ガランの喉の鈍い音。

 夏の入り口の夕の、もう一度の鈍い音。

 その後でガランの咳が二日に一度、三日に一度の間で続いていたこと。

 ハミの口から置かれた「南で、熱が広がっている」「子と、年寄りから、先にやられる」。


 別々の場所で、別々の時刻に、別々の人の口と手から出ていた。

 ソウはそれを頭の中で並べた。並べたが、結論は出さなかった。


 線はまだ繋がらない。ガランは「埃だ」と言った。ハミは咳と南の熱を結びつけていない。カナは自分の手の遅れに気づいていない。リアの目は外の出どころを測っていたが、まだ内側の咳の方には向いていなかった。

 三つを一つの線の上に置けるのは、今日のところソウの頭の中だけだった。



 夕の風が、丘の南の縁から上がってきていた。

 夏の終わりの風で、土の匂いの中にもう秋の入りの乾いた気配が薄く混じり始めていた。

 焚き火の脇で、バアの椀の縁の欠けが夕の光の中で短い影を地面に落としていた。


 ガランは焚き火の脇のいつもの位置に膝を落とした。

 今日の咳の話は輪の中では誰の口にも上らなかった。ハミの話の方も、誰の口にも上らなかった。

 粥の鍋が温まり、カナが薬草を二枚、平らな石の上に並べた。指の腹で葉の縁を一枚分めくり、裏の色を確かめる。バアの頃からの順序だった。


 ソウは空き地の縁の杭の下に視線を落とした。

 杭の下に、今日の二枚目の貝殻が、夕の光を受けて静かに置かれていた。

 明日の朝、その貝殻を作業場の脇の平らな石の上へ運ぶ。粘土板の隣の、一枚目の貝殻の横に並べる。組として並ぶ形が数え方の話だけで終わるのか、それとも別の話の隣にも立つことになるのかは、ソウ自身、まだ知らなかった。


 風がもう一度、空き地の脇を抜けた。

 夏の終わりの夜が、丘の縁からゆっくりと上がってきていた。

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