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転生先は夜明け前 ―石器時代から文明を拓く―  作者: 夜摩 高嶺
第一部 結実の章

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第81話「夏の入り口」

 朝の焚き火の脇で、ガランが粥を一口啜った。

 啜り終わって椀を膝に下ろした時、ガランの喉の奥で短い音が一度だけ鳴った。

 咳だった。


 大きな咳ではなかった。

 半秒も続かない、喉の奥の鈍い音。胸の方からではなく、喉のくぼみのあたりだけが一度だけ震えた音だった。ガランは椀を膝に置いたまま、体を反らせもしなかった。

 ただ短く、一度。


 ソウは作業場の脇から、その音を聞いた。

 粘土板の前にしゃがんでいて、朝のうちに二枚の板を並べているところだった。配給板と鍬印板。一枚目には粥の鍋の脇に揃えた椀の数、二枚目には今朝の畑に出た者の印。三枚目の白板はまだ手前に伏せてある。

 手の中の木片が、線を引く途中で止まった。


 ガランは椀をもう一度持ち上げ、二口目を啜った。

 咳の前と後で、口の動きの早さも椀の傾けかたも変わらなかった。本人が小さなことだと思っている顔だった。ガランは粥を飲み下してから、低く言った。


「埃だ」


 誰にともない声だった。

 焚き火の方を見たままの口の動きだった。脇に座っているサガが「ああ」と短く頷き、それで話は終わった。サガは自分の椀の縁を指でなぞって、また粥を啜り始めた。

 ガランも続けて何も言わなかった。


 ソウは木片の先を、板から離した。

 咳は本当に埃を払う音にも聞こえた。春の終わりの朝、畑の土の表面が午後の日でうっすら白くなる季節に入ったばかりだった。

 だが、ソウの耳に残ったのは、咳の前後でガランが体の動きを一切変えなかったことだった。



 日が高くなってから、ガランは見回りに出た。

 いつもの順路だった。住居の北側を回り、薬草畑の縁を西へ抜けて、第三畑の縁を南に下りる。

 ソウは作業場の脇からその背中の動きを見ていた。


 歩幅が、冬の入り口の夜より、わずかにさらに短い。

 あの夜、ガランが焚き火の脇から住居の方へ歩いていった時の歩幅を、ソウは目の中にまだ残していた。今朝の歩幅と並べて、半足分だけ縮んでいた。


 第三畑の南の縁で、ガランが一度立ち止まった。

 立ち止まり方は深くなかった。畝の方を見て、目を上から下に動かして、また歩き出した。ただそれだけだったが、立ち止まる回数が見回りの順路の中で一度増えていた。

 昨日まではこの場所では止まらなかった。


 ソウは木片の先で、白板の表面に短い線を一本だけ引いた。

 線は何の意味も持たない線だった。配給板でも鍬印板でもない、ただの一本。引いた瞬間に、自分が何のためにそれを引いたのか、ソウ自身も言葉にできなかった。

 だが、引く場所はそこにあった。



 昼を過ぎてから、薬草畑の方でカナがしゃがんでいた。

 春の終わりの畝に、苦い葉の芽が手のひらの半分ほどに伸びている。丸い葉の方も小さな緑が三つ並び、傷の根の方にも先の細い葉が一枚顔を出していた。冬の干し束の残りは、もう昨日で使い切っていた。


 キイがカナの隣で、葉の根元の土を指の腹で軽く撫でている。

 爪を立てず、指の腹だけで土を寄せる動きは、カナの動きを縮めた形だった。カナは横目で見て、何も言わなかった。


 カナは芽を採らずに立ち上がった。

 畑の若い葉はもう一日二日待った方がいい、という顔だった。今夕の粥は、住居の北壁に吊るしてある去年の苦い葉の最後の二枚で済ます段取りだろう。カナはキイの手を引いて、住居の方へ戻っていった。



 夕の鍋が薪の上で温まり始めた頃、ガランがまた焚き火の脇のいつもの位置に膝を落とした。

 膝を落とすまでの動きの中に、わずかな間があった。落とす速さが冬の入り口の頃よりほんの少し遅い。両手は焚き火に向けない。膝の上で組んだまま、薪の崩れる小さな音だけを聞いている顔だった。

 ソウは作業場の脇から、その姿を一度だけ目で確かめてから、また粘土板の方に視線を戻した。


 カナが鍋の脇に来て、北壁から下げてきた苦い葉の二枚を平らな石の上に並べた。

 並べる動きはいつもの動きだった。指の腹で葉の縁を一枚分めくり、裏の色を確かめる。葉の裏の色を見るのはバアの頃からの順序だった。カナの指は二枚を選び抜いて、鍋の上で軽く揉み始めた。

 今日は二枚だった。


 昨日の夕は三枚だった。

 一昨日も三枚だった。その前の夕も三枚だった。冬の終わりに干し束を組み直してから、束の取り方は一度だけ変わった。二枚から三枚へ。それがしばらく続いていた。

 今日の夕、その数が一枚だけ戻っていた。


 ソウは木片の先を、もう一度白板の表面に当てた。

 当てたが、線は引かなかった。

 三枚から二枚に戻った理由は外側にあった。北壁の干し束が今夕の二枚で底をつき、明日からは畑の若い葉になる。それだけのことだった。

 だが、その一枚分のずれは、ソウの頭の中の別の場所に並んで残った。



 鍋の縁に薬草の二枚が落ちた、その瞬間だった。

 焚き火の脇で、ガランがまた咳をした。

 今朝と同じ、喉の奥の鈍い音。だが今度は二回続いた。


 一度目の後、半呼吸ほど置いて、二度目。

 ガランは膝の上で組んでいた手を解いて、右の手の甲を口の前に薄く当てた。あてただけで、強くは押さえなかった。二度目の咳が終わるとすぐに手を膝の上に戻した。咳の後でガランが息を整える間は半秒もなかった。

 咳が大きくなったわけではなかった。回数だけが、朝の一回から夕の二回になっていた。


 脇で椀を並べていたキイが、鍋の方から少しだけ顔を上げた。

 並べる手は止めずに、続けて椀を並べた。八歳の目には、咳の数の差はまだ意味として届いていない。

 カナは杓を握ったまま、ガランの方を一度見た。


 見ただけだった。

 薬草の束を一枚追加する手も、声をかける口も、カナの中ではまだ動かなかった。視線の動きの中で、何かが薄く立ち上がりかけて、立ち上がりきらずに沈んだ。カナは杓を鍋の縁に立て掛けて、配給の最初の椀を取った。


 ガランは「埃だ」とはもう言わなかった。

 言う必要を、本人もまだ感じていない顔だった。



 配給が終わって族民が自分の場所に戻った頃、ソウは粘土板の前から立ち上がった。

 手の中の木片を、二枚の板の脇に置いた。白板の上に引いた一本の線は、まだそのままそこに残っていた。


 ガランが膝の上で椀を支えたまま、薪の崩れの方に目を落としている。

 咳の余韻は、もう体のどこにも残っていない顔だった。脇でサガが粥を啜り、ムロが小さく息を吐く。ガランの座り方はいつもの座り方だった。

 カナが自分の椀を取って、いつもの場所に座った。


 カナは椀を口に運ぶ前に、もう一度ガランの方を見た。

 見て、口を薄く開きかけて、また閉じた。

 開きかけた口の中に「みんな、元気で——」の最初の音が来かけて、そのまま喉の手前で止まった。置くべき相手がもう目の前に一人いることに、カナの口の方が先に気づいたのかもしれなかった。

 カナは椀を口に運び、一口啜った。


 ソウは頭の中で、今日の三つを並べた。

 ガランの朝の一回と夕の二回の咳。カナの薬草が三枚から二枚へ戻ったこと。カナが「みんな、元気で——」を喉の手前で止めたこと。

 三つは別々の場所で別々の時刻に置かれていた。だが今日のソウの頭の中では、昨日の夕に頭の中に伸びた線の上に、続けて並んでいた。


 その線の上に何が乗っているのかは、まだ形にならない。

 形にならないが、線の長さだけは、昨日より少しだけ伸びていた。



 冬の入り口の夜、焚き火の脇でガランがソウに言った言葉が、ソウの頭の中で一度だけ浮かんだ。


『お前の役目も、もうじき、終わる』


 あの夜のガランの声は低かった。火を見たままの声で、説明の足し方を知らない声だった。族長としての役目の話か、ガラン自身の話か、ソウの先導役そのものの話か、どの解釈にも口を閉じたままの声だった。


 ソウは今夕、その言葉を口にしなかった。

 本人がまだ載せていない重さを、輪の真ん中に先に置くわけにはいかなかった。



 夜の風が、丘の縁から薄く上がってきていた。

 春の風の柔らかさからもう一段だけ抜けた風で、乾いた空気の中に土の匂いがわずかに混じる。夏の入り口の風だった。

 焚き火の脇で、バアの椀の縁の欠けが夕の薄い光の中で短い影を地面に落としていた。


 ソウは焚き火の輪の縁で足を止めて、ガランの背中をもう一度だけ見た。

 座っている姿勢も、椀を膝に置く手の置き方も、薪の音に耳を向ける顔の角度も、何一つ変わっていなかった。

 ただ、その背中の中で、咳が二回起きた。


 咳は埃のせいかもしれない。明日になれば一度も出ないかもしれない。

 だが、ソウの頭の中の線は、明日の朝までは消えない。


 風がもう一度、空き地の脇を抜けた。

 風はカナの椀の上に立つ湯気をわずかに揺らし、ガランの膝の上の椀の縁にも触れて、薪の縁の小さな灰を細く流した。

 夏の入り口の夜が、丘の縁からゆっくりと上がってきていた。

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