表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
転生先は夜明け前 ―石器時代から文明を拓く―  作者: 夜摩 高嶺
第一部 結実の章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

80/94

第80話「いつもより一枚」

 夕の鍋が薪の上で温まり始めた頃、カナは薬草の干し束の方へ歩いた。

 歩幅はいつもと同じだった。住居の北側の壁に吊るしてある三つの束のうち、苦い葉の束の前で足が止まる。指の腹で葉の縁を一枚分めくり、裏の色を確かめる。葉の裏の色を見るのはバアの頃からの順序だった。

 カナの指は二枚を選び抜いた。


 束から離れた指が、もう一度束の方へ戻った。

 戻る動きに、カナ自身は気づかなかったかもしれない。二枚を選んだ後の手はいつもなら鍋の脇に戻る手だった。だが今日の手は、もう一度束の縁に触れた。

 三枚目を一枚だけ抜いた。


 抜いた三枚を、カナは鍋の脇まで運んだ。

 運びながら、自分の手の中の枚数を数え直す顔ではなかった。鍋の縁の脇に膝を落とし、三枚の葉を平らな石の上に並べる。並べてから、初めて自分の手元の枚数に目が留まったようだった。

 三枚あった。


 カナの口は薄く開いた。

 開いただけだった。何かを言いかけて、また閉じた。閉じた口の中で、葉の枚数を頭の中で数え直したのかもしれない。だが手は止まらず、三枚を順に指の腹で揉み始めた。

 葉の縁から、青い香りが立った。



 ソウは作業場の脇からその一連を見ていた。

 粘土板の前にしゃがんでいて、午前に手前に置いたままの三枚目の板を、今朝の段階のまま手前に並べていた。線はまだ引いていない。木片の先だけが指の中で立っている。

 その視線の先で、カナの指がいつもより一枚多くを揉んでいた。


 毎朝二枚と、毎夕二枚。

 それがバアの椀の脇でカナが繰り返してきた数だった。冬の終わりに干し束を組み直してから、束の取り方は一度も変わっていない。指の角度も葉を選ぶ順序も揉む強さも、ソウは脇から何度も見てきた数だった。

 今日の夕、その数が一枚だけずれた。


 ソウは木片の先を、粘土板の上から離した。

 離した指を膝の上に置く。カナの手元から目を逸らさなかった。だが声をかけにはいかなかった。

 声をかける場面ではないと、頭のどこかが判じていた。



 空き地の中央では、族民が夕の鍋の周りに集まり始めていた。

 ガランが焚き火の脇のいつもの位置に膝を落としていた。両手は焚き火に向けない。膝の上で組んだまま、薪の崩れる小さな音だけを聞いている顔だった。

 ガランの右手の指が、膝の上で一度だけ軽く押された。


 押した動きは小さかった。

 膝の皿の上を、指の腹で押し下げたとも言えない深さの圧だった。半秒もかからない。続けて二度目はなかった。

 ソウの目の端に、その一動作だけが残った。


 残ったが、留めなかった。

 今日の夕の留めるべき場所はそこではないと、ソウの目はもう一度カナの手元の方に戻っていた。三枚目の葉が、ちょうど指の腹で揉まれ終わるところだった。

 カナがその三枚を、鍋の上に落とした。



 葉が湯に触れて、青い香りが立った。

 いつもより少しだけ濃い香りだった。鍋の縁の脇で、キイが椀を二つ並べる手を止めた。鼻先に届いた香りの強さに、八歳の目が一度だけ鍋の方へ流れた。

 キイは何も言わなかった。ただ椀を並べる手を、また動かし始めた。


 カナは杓を握って、鍋の表面を一度だけ撫でた。

 撫でた後の杓の角度は、いつもの角度だった。鍋の縁を一周してから、配給の最初の椀を取った。族民が一人ずつ椀を両手で受け取る位置に並んでいる。

 配給の動きはいつも通り進んだ。


 ノタが受け取った。

 アズが子の分と自分の分を二つ受け取った。ヨルとイサ、ハルとトトが順に受け取った。ベン一家四人が並んで受け取った。タルが受け取り、オンが住居の革幕の内側へ運ぶ分の椀をもう一つ受け取った。

 椀を受け取る手の動きの数だけ、薬草の香りが配給の輪を一度ずつ通っていった。


 最後に、ガランが受け取った。

 受け取る時、ガランの椀を持つ手が膝の上でわずかに支えられた。膝の皿の上に椀の底が一度だけ触れた。すぐに離れた。ガランは目を上げず、椀を口の高さまで運んだ。

 ソウの目の端に、その動きももう一つ残った。



 配給が終わると、カナは鍋の脇に立ったままだった。

 杓を鍋の縁に立て掛ける形で置いた。立て掛ける角度はいつもの角度だった。それから両手を腹の前で軽く組んだ。組んだ手の中で、指がほんの少しだけ互いの皮膚を撫でた。

 カナの口が、もう一度薄く開いた。


 開いた口から、声が出た。

 声は小さかった。鍋の脇の薪の弾ける小さな音と同じくらいの大きさだった。だが今日のその声には、いつもの息の流れと違う形があった。

 言葉と言葉の間に、間があった。


「みんな、元気で、いてね」


 息は、三つに分かれていた。

 みんな、で一度。元気で、でもう一度。いてね、で三度目。三つの息の間にそれぞれ小さな間があり、その間が、声の一拍の長さよりも少しだけ長かった。

 ソウは粘土板の前で、頭を上げた。


 前は、息に乗るようになっていた声だった。

 その前は口の動きだけの声だった。さらに前はバアがまだ生きていた頃に、もっと長い形をしていた声だった。みんなが、元気でいてほしいな。願いの形をしていた声だった。

 今日の声はもう、願いの形でも呼びかけの形でもなかった。



 三つの息の間が、声の意味をずらしていた。

 みんな、と切った時の間に、カナ自身もまだ気づいていない何かが置かれた。元気で、と切った時の間でその何かがもう一度繰り返された。いてね、と最後を結んだ時に、その何かが声の外側へ薄く広がった。

 誰に向けたのか、何のために置いたのか、カナ自身が答えられない形の声だった。


 カナはそれを言った後で、軽く頭を下げた。

 頭を下げる動きはいつもの動きだった。鍋の縁に向かって、湯気の方へ薄く頭を寄せる動き。下げた頭を上げて、両手の組みを解いた。解いた手で自分の椀を取った。

 いつもの動きの中に、いつもの声が乗っていない。


 ソウは粘土板の前でしゃがんだままだった。

 手の中の木片の先はまだ何も引かないままだった。三枚目の板の表面は柔らかいままだった。

 今日の夕、引くべき線が一本もまだ頭の中になかった。



 焚き火の脇で、ガランが粥を一口啜った。

 啜る間隔がいつもより長かった。考えている時の飲み方だった。だが今日の考えている時の飲み方は、何かを判じている時の間ではなかった。

 飲み込みの音が一拍遅れていた。


 飲み込んでから、ガランは椀を膝の上に下ろした。

 下ろす時、膝の皿の上に椀の底がもう一度触れた。今度はすぐに離れなかった。ほんの一拍だけ、膝の上に重さが預けられた。ガランは目を上げない。

 二度目だった。


 ソウの目の端に、その二度目が留まった。

 留めたが、今夜の場所ではないと、もう一度目を逸らした。逸らした先で、カナが自分の椀を両手で包んでいた。湯気がカナの顔の前に立ち、頬の縁が薄く赤くなっていた。

 カナの口は、もう動いていない。



 夕の光が、丘の縁から薄く引いていった。

 空き地の地面の上で、バアの椀の縁の欠けの影が夕の側へ短く伸びていた。焚き火の薪が一本崩れ、火の粉がその影の縁に重なって、すぐに消えた。

 風が、空き地の脇を一度抜けた。


 風はカナの薬草の香りを運んだ。

 配給の輪の上を、いつもより一拍だけ長く香りが残った。理由は鍋の中の枚数だけだった。理由を、カナはまだ自分で言い当てていない。

 ソウの頭の中にだけ、その一枚が形を持って残った。


 カナは椀を口に運んで、一口啜った。

 苦い葉の青さが、いつもより少し強く出ている粥だった。カナの眉は動かない。動かないまま、もう一口啜った。隣のキイが小さな鼻を一度すんと鳴らした。

「今日のは苦い」

 キイが言った。

「うん」

 カナが頷いた。

「いつもよりちょっとね」


 その「ちょっと」の理由を、カナは口にしなかった。

 言えなかったのか、言わなかったのか、ソウには分からなかった。だがカナの指が膝の上で一度だけ、互いの皮膚を撫でた。撫でた指の動きが、束の縁に三枚目を求めて戻った今日の手の動きと、同じ形をしていた。

 形だけが、確かにそこにあった。



 ソウは粘土板の前から立ち上がった。

 手の中の木片を、二枚の板の脇に置いた。今日の夕、引かない線は引かないままにしておくことにした。引かなかった理由は、今夜の頭の中ではまだ言葉にならなかった。

 立ち上がってから、焚き火の輪の方をしばらく見た。


 カナが椀を両手で包んだまま、湯気の中に頬を埋めている。

 ガランが膝の上で椀を支えたまま、薪の崩れの方に目を落としている。キイがカナの隣で自分の椀を両手で持ち上げ、苦さに眉を一瞬寄せてから飲み込んだ。タルの住居の革幕の方からアサの細い声が、間を置いて立ち、また止んだ。

 春の風がもう一度、空き地の脇を抜けていった。


 風はバアの椀の縁を撫でた。

 縁の欠けの影が、地面の上でほんの少しだけ動いた。


 ソウは作業場の脇から、夕の輪の方へ歩き出した。

 歩きながら、頭の中で今日の三つを並べた。リアの「お前、なんで」と、カナの「みんな、元気で、いてね」と、ガランの膝の上の椀。三つは別々の場所で別々の時刻に置かれた。だが今日の頭の中では、一本の線の上に並んでいた。

 その線の上に何が乗っているのかは、まだ形にならない。


 今日の夕、引かなかった線が一本だけ頭の中で伸びていた。

 伸びた先には何もない。何もないが、伸びる場所はそこにあった。

 ソウは焚き火の輪の縁で足を止め、カナの横顔をもう一度だけ見た。


 カナはいつもより一枚多い薬草の粥を一口、ゆっくりと啜っていた。

 湯気の中で青さが薄く立つ。カナの口は、もう何も言わない。

 春の夜が、丘の縁からゆっくりと上がってきていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ