第80話「いつもより一枚」
夕の鍋が薪の上で温まり始めた頃、カナは薬草の干し束の方へ歩いた。
歩幅はいつもと同じだった。住居の北側の壁に吊るしてある三つの束のうち、苦い葉の束の前で足が止まる。指の腹で葉の縁を一枚分めくり、裏の色を確かめる。葉の裏の色を見るのはバアの頃からの順序だった。
カナの指は二枚を選び抜いた。
束から離れた指が、もう一度束の方へ戻った。
戻る動きに、カナ自身は気づかなかったかもしれない。二枚を選んだ後の手はいつもなら鍋の脇に戻る手だった。だが今日の手は、もう一度束の縁に触れた。
三枚目を一枚だけ抜いた。
抜いた三枚を、カナは鍋の脇まで運んだ。
運びながら、自分の手の中の枚数を数え直す顔ではなかった。鍋の縁の脇に膝を落とし、三枚の葉を平らな石の上に並べる。並べてから、初めて自分の手元の枚数に目が留まったようだった。
三枚あった。
カナの口は薄く開いた。
開いただけだった。何かを言いかけて、また閉じた。閉じた口の中で、葉の枚数を頭の中で数え直したのかもしれない。だが手は止まらず、三枚を順に指の腹で揉み始めた。
葉の縁から、青い香りが立った。
*
ソウは作業場の脇からその一連を見ていた。
粘土板の前にしゃがんでいて、午前に手前に置いたままの三枚目の板を、今朝の段階のまま手前に並べていた。線はまだ引いていない。木片の先だけが指の中で立っている。
その視線の先で、カナの指がいつもより一枚多くを揉んでいた。
毎朝二枚と、毎夕二枚。
それがバアの椀の脇でカナが繰り返してきた数だった。冬の終わりに干し束を組み直してから、束の取り方は一度も変わっていない。指の角度も葉を選ぶ順序も揉む強さも、ソウは脇から何度も見てきた数だった。
今日の夕、その数が一枚だけずれた。
ソウは木片の先を、粘土板の上から離した。
離した指を膝の上に置く。カナの手元から目を逸らさなかった。だが声をかけにはいかなかった。
声をかける場面ではないと、頭のどこかが判じていた。
*
空き地の中央では、族民が夕の鍋の周りに集まり始めていた。
ガランが焚き火の脇のいつもの位置に膝を落としていた。両手は焚き火に向けない。膝の上で組んだまま、薪の崩れる小さな音だけを聞いている顔だった。
ガランの右手の指が、膝の上で一度だけ軽く押された。
押した動きは小さかった。
膝の皿の上を、指の腹で押し下げたとも言えない深さの圧だった。半秒もかからない。続けて二度目はなかった。
ソウの目の端に、その一動作だけが残った。
残ったが、留めなかった。
今日の夕の留めるべき場所はそこではないと、ソウの目はもう一度カナの手元の方に戻っていた。三枚目の葉が、ちょうど指の腹で揉まれ終わるところだった。
カナがその三枚を、鍋の上に落とした。
*
葉が湯に触れて、青い香りが立った。
いつもより少しだけ濃い香りだった。鍋の縁の脇で、キイが椀を二つ並べる手を止めた。鼻先に届いた香りの強さに、八歳の目が一度だけ鍋の方へ流れた。
キイは何も言わなかった。ただ椀を並べる手を、また動かし始めた。
カナは杓を握って、鍋の表面を一度だけ撫でた。
撫でた後の杓の角度は、いつもの角度だった。鍋の縁を一周してから、配給の最初の椀を取った。族民が一人ずつ椀を両手で受け取る位置に並んでいる。
配給の動きはいつも通り進んだ。
ノタが受け取った。
アズが子の分と自分の分を二つ受け取った。ヨルとイサ、ハルとトトが順に受け取った。ベン一家四人が並んで受け取った。タルが受け取り、オンが住居の革幕の内側へ運ぶ分の椀をもう一つ受け取った。
椀を受け取る手の動きの数だけ、薬草の香りが配給の輪を一度ずつ通っていった。
最後に、ガランが受け取った。
受け取る時、ガランの椀を持つ手が膝の上でわずかに支えられた。膝の皿の上に椀の底が一度だけ触れた。すぐに離れた。ガランは目を上げず、椀を口の高さまで運んだ。
ソウの目の端に、その動きももう一つ残った。
*
配給が終わると、カナは鍋の脇に立ったままだった。
杓を鍋の縁に立て掛ける形で置いた。立て掛ける角度はいつもの角度だった。それから両手を腹の前で軽く組んだ。組んだ手の中で、指がほんの少しだけ互いの皮膚を撫でた。
カナの口が、もう一度薄く開いた。
開いた口から、声が出た。
声は小さかった。鍋の脇の薪の弾ける小さな音と同じくらいの大きさだった。だが今日のその声には、いつもの息の流れと違う形があった。
言葉と言葉の間に、間があった。
「みんな、元気で、いてね」
息は、三つに分かれていた。
みんな、で一度。元気で、でもう一度。いてね、で三度目。三つの息の間にそれぞれ小さな間があり、その間が、声の一拍の長さよりも少しだけ長かった。
ソウは粘土板の前で、頭を上げた。
前は、息に乗るようになっていた声だった。
その前は口の動きだけの声だった。さらに前はバアがまだ生きていた頃に、もっと長い形をしていた声だった。みんなが、元気でいてほしいな。願いの形をしていた声だった。
今日の声はもう、願いの形でも呼びかけの形でもなかった。
*
三つの息の間が、声の意味をずらしていた。
みんな、と切った時の間に、カナ自身もまだ気づいていない何かが置かれた。元気で、と切った時の間でその何かがもう一度繰り返された。いてね、と最後を結んだ時に、その何かが声の外側へ薄く広がった。
誰に向けたのか、何のために置いたのか、カナ自身が答えられない形の声だった。
カナはそれを言った後で、軽く頭を下げた。
頭を下げる動きはいつもの動きだった。鍋の縁に向かって、湯気の方へ薄く頭を寄せる動き。下げた頭を上げて、両手の組みを解いた。解いた手で自分の椀を取った。
いつもの動きの中に、いつもの声が乗っていない。
ソウは粘土板の前でしゃがんだままだった。
手の中の木片の先はまだ何も引かないままだった。三枚目の板の表面は柔らかいままだった。
今日の夕、引くべき線が一本もまだ頭の中になかった。
*
焚き火の脇で、ガランが粥を一口啜った。
啜る間隔がいつもより長かった。考えている時の飲み方だった。だが今日の考えている時の飲み方は、何かを判じている時の間ではなかった。
飲み込みの音が一拍遅れていた。
飲み込んでから、ガランは椀を膝の上に下ろした。
下ろす時、膝の皿の上に椀の底がもう一度触れた。今度はすぐに離れなかった。ほんの一拍だけ、膝の上に重さが預けられた。ガランは目を上げない。
二度目だった。
ソウの目の端に、その二度目が留まった。
留めたが、今夜の場所ではないと、もう一度目を逸らした。逸らした先で、カナが自分の椀を両手で包んでいた。湯気がカナの顔の前に立ち、頬の縁が薄く赤くなっていた。
カナの口は、もう動いていない。
*
夕の光が、丘の縁から薄く引いていった。
空き地の地面の上で、バアの椀の縁の欠けの影が夕の側へ短く伸びていた。焚き火の薪が一本崩れ、火の粉がその影の縁に重なって、すぐに消えた。
風が、空き地の脇を一度抜けた。
風はカナの薬草の香りを運んだ。
配給の輪の上を、いつもより一拍だけ長く香りが残った。理由は鍋の中の枚数だけだった。理由を、カナはまだ自分で言い当てていない。
ソウの頭の中にだけ、その一枚が形を持って残った。
カナは椀を口に運んで、一口啜った。
苦い葉の青さが、いつもより少し強く出ている粥だった。カナの眉は動かない。動かないまま、もう一口啜った。隣のキイが小さな鼻を一度すんと鳴らした。
「今日のは苦い」
キイが言った。
「うん」
カナが頷いた。
「いつもよりちょっとね」
その「ちょっと」の理由を、カナは口にしなかった。
言えなかったのか、言わなかったのか、ソウには分からなかった。だがカナの指が膝の上で一度だけ、互いの皮膚を撫でた。撫でた指の動きが、束の縁に三枚目を求めて戻った今日の手の動きと、同じ形をしていた。
形だけが、確かにそこにあった。
*
ソウは粘土板の前から立ち上がった。
手の中の木片を、二枚の板の脇に置いた。今日の夕、引かない線は引かないままにしておくことにした。引かなかった理由は、今夜の頭の中ではまだ言葉にならなかった。
立ち上がってから、焚き火の輪の方をしばらく見た。
カナが椀を両手で包んだまま、湯気の中に頬を埋めている。
ガランが膝の上で椀を支えたまま、薪の崩れの方に目を落としている。キイがカナの隣で自分の椀を両手で持ち上げ、苦さに眉を一瞬寄せてから飲み込んだ。タルの住居の革幕の方からアサの細い声が、間を置いて立ち、また止んだ。
春の風がもう一度、空き地の脇を抜けていった。
風はバアの椀の縁を撫でた。
縁の欠けの影が、地面の上でほんの少しだけ動いた。
ソウは作業場の脇から、夕の輪の方へ歩き出した。
歩きながら、頭の中で今日の三つを並べた。リアの「お前、なんで」と、カナの「みんな、元気で、いてね」と、ガランの膝の上の椀。三つは別々の場所で別々の時刻に置かれた。だが今日の頭の中では、一本の線の上に並んでいた。
その線の上に何が乗っているのかは、まだ形にならない。
今日の夕、引かなかった線が一本だけ頭の中で伸びていた。
伸びた先には何もない。何もないが、伸びる場所はそこにあった。
ソウは焚き火の輪の縁で足を止め、カナの横顔をもう一度だけ見た。
カナはいつもより一枚多い薬草の粥を一口、ゆっくりと啜っていた。
湯気の中で青さが薄く立つ。カナの口は、もう何も言わない。
春の夜が、丘の縁からゆっくりと上がってきていた。




