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転生先は夜明け前 ―石器時代から文明を拓く―  作者: 夜摩 高嶺
第一部 結実の章

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第79話「お前、なんで」

 朝の早い時刻、ソウは粘土板の脇で別の粘土板の角度を直していた。

 二枚の板はまだ昨日と同じ位置に並んでいる。配給の板と鍬の板。乾いて固まった面の縁に、夜の間に置いた朝露の細い跡が筋になっていた。その跡を指の腹で一度撫でて、ソウは新しい木片を取り上げた。


 木片の先で、二枚の板の手前の空きの上に、別の塊を一つ置いた。

 テツが昨日の終わりに切り分けてくれた拳一つ分の粘土だった。手のひらで薄く伸ばして、平らな三枚目の形に整える。乾く前の柔らかい時にだけ、線が引ける。


 線は、まだ引いていない。

 何を置くかを決めてから引きたかった。だが手は先に動いていた。木片の先を粘土の表に軽く滑らせて、ほとんど凹まない深さで形だけを試す。


 短い線。それから、短い線の脇に、丸を一つ。

 丸は配給の板の貝殻の形に似ていた。だが今朝引いたのは貝殻ではない。明日の朝のための、別のものを置く場所の形だった。



 空き地の縁では、春の芽吹きが昨日より一拍だけ進んでいた。

 カヤが薬草畑の南端に屈み込んでいる。指の先で芽の高さを測る角度は、いつもと同じ角度だった。畑の縁に屈むカヤの背中の脇を、カナが薬草の束を二枚抱えて通った。

 カナの口は今朝もまだ動いていなかった。


 焚き火の脇には、バアの椀がいつもの位置にあった。

 縁の欠けの影が朝の光の中で短く伸びている。火の脇の灰の上では、ガランが膝を寄せて座っていた。両手は焚き火に向けない。膝の上で組んだまま、空き地の中央の方を見ていた。


 タルの住居の革幕は閉じている。

 中からアサの細い声が、間を置いて立っていた。立っては止み、また立つ。母の息と子の息が、まだ揃いきらない時刻の声だった。


 ソウは粘土板の手前で、木片の先を一度宙に浮かせた。

 短い線の脇の丸の隣に、もう一つ別の印を置こうとして、置く前に手を止めた。何を表す印かを、まだ自分の中で決めかねていた。



 足音が一つ、空き地の縁の方から近づいてきた。

 いつもの柵の見回りの足の運びだった。砂利を踏む間の置き方が、ほかの誰のものとも違う。柵の杭を一本ずつ目で押さえる人間の歩き方だった。


 リアだった。

 南の柵を一周してきた帰り道に、粘土板の脇を通る道筋になる。だが今朝のリアは通り過ぎなかった。ソウのしゃがんでいる斜め脇で足を止めた。


 止めただけだった。

 声はかけてこない。ソウは木片の先を粘土の上から離した。離した手を、膝の上に置いた。

 リアの目が、粘土板の上に注がれていた。


 二枚の板の上を、上から下へ、一度ゆっくりとなぞる目だった。

 アズの線。短い線。ガンの線。長い線。それぞれの脇の印。長さの違い。ノタの節の丸。ハクのひびの傷。それから貝殻。最後に、まだ何も引いていない手前の三枚目の表。

 リアの目は、三枚目の上で少し長く留まった。


 ソウは何も言わなかった。

 言うべきことを思いつかなかった。リアの方も、しばらくは何も言わなかった。風が空き地を一度抜けた。バアの椀の縁を撫でて、焚き火の煙が横に流れた。



 リアの息が、一度入った。

 息を吸って、口の中で一度形を作る間があった。その間は短くなかった。


「お前、なんで——」


 声は低かった。

 いつものリアの的を見る時の声でもなかった。柵の杭を確かめる時の声でもなかった。問いの形をした、ただの問いの声だった。

 ソウは目を粘土板の表に落とした。


「文字、なんてものを思いつく?」


 リアの声は途切れず続いた。

「誰もそんなこと考えたことない」


 最後の一句は、確かめの形ではなかった。

 事実を一つ、リアが自分の中で並べた音だった。誰も考えたことのないものが、今朝ここにある。その並びの中で、考えたのはソウだった。

 その事実だけが、リアの口から出た。


 ソウは答えるまでに、息を一つ置いた。

 粘土板の上の、引いたばかりの短い線の角度を見た。短い線は、誰のためのものでもまだなかった。だが線を引いた手は確かにソウの手だった。


「……必要だと、思ったから」


 声は、自分で思っていたよりも低く出た。

 言い切ってから、自分の言葉の頭に置いた間の長さに気づいた。間が長すぎたかもしれない。だがその間は、今朝のここでは縮められなかった。



 リアは何も返さなかった。

 受け取った言葉を、口の内側で一度量り直す顔だった。視線は粘土板の上を一度離れて、ソウの手元の木片の先に移った。それからソウの横顔の方へ動いた。

 ソウは目を粘土板の表から上げなかった。


 リアの目が、ソウの横顔の上にとどまった。

 長くも短くもない時間だった。だがその時間の間、リアの目はソウの目を探していた。ソウの方は目を逸らした形になっていない。ただ目を上げていないだけだった。

 リアはそれを、責めなかった。


「ふうん」


 リアの口から出たのは、それだけだった。

 短い単音だった。だが音の尾が、いつものリアの「ふうん」より三拍ほど長く引かれていた。否定でもない。納得でもない。受け取ったということだけを、音の長さで返した形だった。


 ソウは粘土板の表を見たままだった。

 短い線の脇に置いた丸の縁を、目だけで一度なぞった。引いた線の角度は、今朝のうちに引いてしまっていてよかったかもしれない。引かなかったら、リアの問いに置き場がなかった。



 リアの足が、一度動いた。

 動いてから、すぐには歩き出さなかった。砂利の上で重心を移しただけで、もう一度ソウの脇に立つ姿勢に戻った。

 しばらく、立っていた。


 粘土板の方を、もう一度だけ見た。

 今度の目は、線を順に押さえる目ではなかった。三枚目の、まだ何も引かれていない表の上に、視線が留まっていた。何も引かれていない表の上に何が置かれるのかを、量る目だった。

 その目のまま、リアは歩き出した。


 歩き出した背中は、いつもの柵の巡回の歩き方をしていた。

 だが今朝の背中は、一度も振り返らなかった。

 ソウは立ち上がらずに、その背中を見送った。



 リアの足音が、見張り台の方へ遠ざかっていった。

 空き地の脇では、ガランがまだ焚き火の脇にいた。火の上に薪を足す手は動かない。膝の上の両手も組んだままだった。

 ガランの目は粘土板の方には向いていない。だが顔の角度だけが、リアの足音の方へ少しだけ傾いていた。


 ソウは粘土板の前にしゃがんだままだった。

 手の中の木片の先を、もう一度三枚目の表の上に下ろした。下ろしたまま、線は引かなかった。

 リアの問いが、今朝のここに置かれたまま残っていた。


 お前、なんで——。

 リアの「なんで」は、文字を思いついた手についての問いだった。だが「なんで」の音は、別の所まで伸びていた。誰もそんなこと考えたことない、と続いた一句が、その伸び先を示していた。

 お前は、どこから来た。


 その問いを、リアは口にしなかった。

 口にしなかった問いの形が、今朝の粘土板の脇の空気の中に、確かに残っていた。



 春の風が、空き地の脇をもう一度抜けた。

 風はバアの椀の縁を撫でて、焚き火の煙を横にずらした。ずれた煙の向こうで、カナが鍋の脇にしゃがみ込んでいた。

 薬草の束を二枚、葉の縁を指の腹で揉んでから鍋に落とす。葉の縁から青い香りが一拍立った。今朝のカナの口は、まだ動かなかった。


 タルの住居の方から、アサの細い声がもう一度立った。

 立っては止み、また立つ。母と子の息が、昨日よりは少し揃ってきた時刻の声だった。

 ガランが焚き火の脇で、火の上に細い枝を一本足した。枝の先が爆ぜる小さな音が、空き地の中央まで届いた。


 ソウは粘土板の三枚目の表に、結局線を引かなかった。

 木片を、二枚の板の脇に置いた。粘土の表はまだ柔らかい。明日の朝なら、まだ間に合う。明日に何を置くかは、今日の午後の間に決まるかもしれなかった。

 立ち上がって、空き地の中央の方を見た。


 見張り台の梯子の下に、リアの黒い影が立っていた。

 視線は南の斜面の方を向いている。柵の杭の角度を、いつも通りに目で押さえているはずだった。

 だがリアは、振り返らなかった。


 ソウは粘土板の前から離れて、作業場の方へ歩き出した。

 歩きながら、自分の口の中で一度だけ、言わなかった答えの形をなぞった。

 必要だと、思ったから。

 その答えの先に置いた言葉はまだない。置く場所も、今朝はまだなかった。


 バアの椀の縁の欠けの影が、朝の光の中で、ほんの少しだけ動いていた。

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