第78話「春の朝の声」
夜明け前に、声が一つ立った。
高くはなかった。住居の革幕の内側でくぐもって、空き地の端まで届く頃にはほとんど風の音と区別がつかなくなる声だった。だがその声は続いた。一度切れて、もう一度。短く、また短く。
ソウは寝床の毛皮の縁で目を開けた。
咳の音とは喉の奥の形が違う。もっと細く、もっと低い。子の泣き始めの音だった。
起き上がる前に、空き地の方から軽い足音が走った。カナの足音だった。
*
外に出ると、空気はまだ青かった。
春の朝は冷えの底が抜けかけて、息はもう白くならない。焚き火の灰の上で熾が薄く赤く見える。その脇の同じ場所に、バアの椀があった。縁の欠けの影は、まだ暗くて見えない。
タルの住居の革幕の前にミラが立っていた。
昨夜のうちに呼ばれていたのだろう。腕の中には薬草の束が一つ、別の手にはカナが持って来たもう一束。二人の手の中の束の形が似ているようで違っていた。バアの頃のものとは葉の組み合わせが少しずれている。
ミラの目が一度、カナの指の動きに落ちた。葉の縁を爪の角でなぞる角度。一拍受け取ってから、ミラの視線は手元の束に戻った。カナの指の角度は間違いなくバアの角度だった。
ガランが焚き火の脇に立っていた。
ソウは少し離れた所に立った。
住居の中から、低く女の声が漏れた。
オンの声だった。痛みを噛んでいる。だが押し殺せている。続いてミラが何かを言う。低く、短く。痛みを通す声を、流れの方へ寄せる声だ。
ソウは耳の奥でそれを受け取って、目を空き地の縁の粘土板の方へ流した。
*
粘土板は二枚、平らな石の上に並んでいた。
配給の板と鍬の印の板。昨日の終わりに乾いた角度のまま、朝の青の中で横たわっている。貝殻はまだ昨日の位置で動いていなかった。
今朝、動かす番だった。だが手が動く前に、住居の方からまた声が立った。赤ん坊か、母か、まだ判別のつかない細さで、一度、二度、三度。
ヒガが自分の住居の革幕を押して出てきた。
寝起きの顔のまま、目だけがすぐに焦点を結んだ。ガランを見て、粘土板を見て、最後にタルの住居の前のミラとカナに目を留めた。
「生まれたのか」
「まだ、出てない」
ソウが低く返した。
ヒガはそれだけ聞いて薪の山の脇まで歩いた。灰の上に細い枝を二本足す間、口を開かなかった。
*
空が白んできた。
空き地の縁に族民が少しずつ集まり始めた。誰も住居の前まで押し寄せない。各々が自分の朝の仕事の場所の近くに立ち、その向きだけが住居の方を向いていた。
ベンが柵の脇に立っていた。カヤは薬草畑の南端で屈み込んだまま、芽の上に視線を落としている。ジンとガンが道具小屋の前で並んで、何を取るでもなく立っていた。ハクはその少し後ろで鍬の柄の頭のひびを指でなぞっていた。
コノとキイが住居の脇から顔を出していた。キイの目だけが住居の革幕の方を往復している。
タルが住居の入口の脇に立っていた。
両手は脇に下ろしたまま、視線は地面の少し先に固定されている。動かない肩の上で、首だけがほんの数度ずつ住居の方へ動いていた。
秋の終わりにアズの住居の前に立っていたノモの背中と今朝のタルの背中の角度がよく似ている。
*
夜明けが、丘の縁から上がってきた。
光が空き地の地面を横から斜めに撫でていった。バアの椀の縁の欠けの影が、地面の上で初めて見えた。短い影だった。
その時、住居の革幕の内側からもう一つ別の声が立った。
赤ん坊の声だった。
今度の声は先ほどまでの細さとは違っていた。空気を吸って吐くその繰り返しが声の形になっている声だった。生きた声だった。
タルの肩がわずかに下がった。
首の角度が、夜の間ずっと固まっていた角度から外れた。
ガランは何も言わずに火の上にもう一本の薪を足した。
革幕が内側から押された。
ミラが先に出てきた。両手で布の塊を抱えている。塊が、ミラの腕の中で小さく動く。続いてカナが出てきた。カナの目はタルの方を一度見て、それから族長の方へ移った。
「男の子だよ」
カナが言った。
春の朝の声にしては低く落ち着いた声だった。
*
タルはしばらく動かなかった。
一歩を出した後の二歩目に、少し間があった。間のあとで二歩目が出た。三歩目はもう続いて出た。
ミラが布の塊をタルの方へ差し出した。タルは両手を出した。手は震えている。震えながら布を受け取った。受け取った布の重さが、タルの肩の角度をもう一段下げた。
タルは布の中を見て頷いた。
頷きは一度きりだった。だがその角度は、ノモの時とはまた違う角度をしていた。形は決まる。決まる形は人によって違うのだった。
ガランが焚き火の脇から歩いてきた。
布の塊の前で足を止め、しばらく赤ん坊を見ていた。光がガランの白い髪の縁を一度撫でた。
「アサ」
ガランの声は短かった。
春の夜明けに生まれた子の名前としては、季節と音が真っ直ぐに合っていた。タルがもう一度頷いた。今度は二度頷いた。
族民の何人かが、口の中で「アサ」と繰り返した。
オンの住居の方から、もう一度、低い赤ん坊の声が流れて出た。今度の声には、もう細さがなかった。
*
ソウは、頭の中で集落の人数を数えた。
名前が口の中で並ぶ。ガラン、ゴウザ、ムロ、サガ、リア、ヨル、イサ、ハル、トト、ナツ、トウカ、ノタ、アズ、ノモ、ハナ、ベン、カヤ、ジン、コノ、ダイ、ヒガ、ミラ、テツ、カナ、タル、オン、キイ、ガン、ハク。並んだ後ろに、まだ名前の置き場の決まっていない者たちが続く。畑の縁で芋を運ぶ女。柵の脇で薪を切る老人。子の手を引いて住居の前を歩いた者。声の数や顔は頭の中にあるが、口の中で並べる順番がまだ定まっていない。
指で順に数える。途中で一度数え直す。アサを最後に加えてもう一度。
——三十八人。
粥の鍋の脇で、カナが薬草の束を二枚、葉の縁を指の腹で揉んでから鍋に落とした。葉の縁から青い香りが一拍立つ。今朝も同じ二枚。だが今朝のカナの口は薄く動かない。動く代わりに目が住居の方へ流れている。元気で、いてね、と口の中で繰り返す代わりに、今朝のカナは新しい命の方を一度ちゃんと見ていた。
ソウはその横顔を見てそう受け取った。
バアの椀は焚き火の脇の同じ位置にあった。
縁の欠けの影が朝の光の中で短かった。
*
昼の少し前、ソウは粘土板の前にしゃがんだ。
貝殻を指の腹で持ち上げてガンの線の側へ移した。今日の朝からは半杯がガンの方になる。線の長さがそのまま昨日と入れ替わる形になった。
手の脇に、別の影が立った。
リアだった。柵から一度降りて、戻る前にここを通ったのだろう。ソウのしゃがんでいる脇で、目は赤ん坊の方ではなく、粘土板の上の二枚に注がれていた。
線の上を上から下へ、一度ゆっくりとなぞる目だった。
「動いたな」
リアが言った。
「貝殻が」
ソウは頷いた。
リアは貝殻から目を離した。離した目が粘土板そのものの上を撫でた。アズとガンの線。ノタとハクの線。それぞれの脇の印。長さの違い。リアの目がそれを順に押さえていく動きは、いつものリアの的を見る目とよく似ていた。
リアはしばらく何も言わなかった。
「お前——」
言いかけて、リアは止めた。
言葉を一度、口の内側で量り直した顔だった。それから、もう一度目を粘土板の上に戻した。
戻した目は、すぐには動かなかった。
「いや、いい」
リアはそれだけ言って、また柵の方へ歩き出した。
歩き出してから、もう一度だけ振り返る。粘土板の方を、長くは見ない。それでも、見たことは見た。ソウはその後ろ姿を、立ち上がらずに見送った。
言わなかった言葉が何だったかは、ソウにはまだ分からない。
*
昼の光が、空き地の中央まで来た。
タルの住居の革幕は閉じている。中からは赤ん坊の声が、間を置いて立っていた。立っては止み、また立つ。生きていることを、声の形でゆっくり確かめている赤子の声だった。
タルは住居の入口の脇に座って、自分の膝の間で両手を組んでいた。
空き地の縁では、ハクが鍬の柄を立て掛けたまま、自分の指で空中に短い線を一本引いていた。指は粘土板には触れない。だが引く形だけが、確かにそこにあった。
春の風が、空き地の脇を一度抜けた。
風はバアの椀の縁を撫でて、焚き火の煙を一度横にずらした。ずれた煙の向こうで、リアの黒い影が見張り台の梯子の下に立っていた。視線は南の斜面の方を向いている。だが影の角度が、今朝までよりほんの少しだけ、空き地の中央の方へ傾いていた。
ソウはその影を、しばらく見ていた。




