第77話「これは——効く」
朝の光が、平らな石の上の粘土板に当たっていた。
ソウは作業場の脇に立っていた。粘土板の上には昨日の終わりに並べた形が、そのまま残っている。アズの線。短い線。ガンの線。長い線。右の端には貝殻。
貝殻はガンの線の側にある。
ソウは指の腹を貝殻の縁にそっと当てた。動かない。
動かす番だった。
貝殻をひと呼吸分の間そこに置いてから、ゆっくりとアズの線の側へ移した。今日の朝からは、半杯はガンの方。線の長さがそのまま昨日と入れ替わる形になる。
ソウは貝殻の縁から指を離した。
空き地の縁に、足音が一つ近づいた。
顔を上げる前から、誰の足音かは分かっていた。
「来たぞ」
ヒガの声だった。
昨日の終わりの『おれも見ていいか』の続きだった。声に身構えはなかったが、いつもの軽口の語尾の崩しもなかった。ヒガはまっすぐに粘土板の前まで歩いてきて、ソウの斜め後ろで足を止めた。
*
「動いてる」
ヒガが言った。
目は貝殻の上にあった。昨日見た時、貝殻はガンの線の側にあった。今朝はアズの線の側にある。
ヒガはしゃがみ込んだ。膝を粘土板の前で折って、上から下に目を流す。アズの線。短い線。ガンの線。長い線。それから貝殻。
もう一度、目で順に押さえ直した。
「今日は半杯がガンの方か」
「そうだ」
「昨日はアズの方だった」
「昨日はアズの方だった」
ソウは同じ言葉を返した。返したあとで、自分の言い方が確かめの形になっているのに気づいた。確かめは、今朝のこの場で必要だった。
ヒガはしばらく貝殻の上に目を留めていた。それから自分の指の腹を、ガンの線の脇の長い線の上に一度だけ当てた。
「これ、ガンが一杯」
「そうだ」
「半杯と一杯。線の長さで分けたな」
「分けた」
ヒガの指は線の上を離れなかった。
離れないまま、別の線へ移っていった。アズの脇の短い線。長さは長い線の半分。指の腹で長さをなぞって、最後に短い線の終わりの所で止まった。
「半分の線は半分の長さ」
「半分の長さ」
「分かる」
ヒガはそれだけ言って、立ち上がった。
*
粥の鍋の前に、アズが立っていた。
隣にガンがいた。昨日の朝と同じ位置だった。違っていたのは、二人の肩の張り方だった。昨日は今日の分の食い違いで硬かった肩が、今朝は揃って下りていた。話の腰を折られたまま、別の段の話を済ませて来た顔だった。
カヤが粥の杓を握って、二人の前に立った。
杓が動いた。
ガンの皿に、半杯。アズの皿に、一杯。
昨日と量が入れ替わっている。ガンは半杯を受け取ると、皿の縁を指で一度握り直してから胸の前に保った。アズは一杯を受け取って、湯気の方に一度顔を寄せた。
二人とも、口は開かなかった。
ヒガはその列の少し外に立って、配給の様子を見ていた。
目は粥の鍋ではなく、空き地の脇の粘土板の方に流れていた。配給が線の通りに動いた。線が言ったことが、皿の上で量になった。ヒガの肩の上で、何かがもう一段位置を変えたのを、ソウは横から見ていた。
*
昼の少し前、別の声が立った。
道具小屋の前だった。ノタが鍬の柄に手を置いていた。隣にハクがいる。ハクの手の中には別の柄が一本あった。
「これ、おれのだ」
「いや、おれが昨日借りたやつだ」
「昨日のは別のだ」
「同じだ」
声の高さは低かったが、二人とも譲らなかった。
昨日の終わりにヒガが鍬を返して、ハクが受け取って壁際に立て掛けた。その後にノタも鍬を返した。返した順番は二本続きだったが、立て掛けた場所が壁際で重なっていた。手が伸びる方向で、どちらの柄かが入れ替わったのかもしれなかった。
ソウは粘土板の方を見た。
平らな石の上に、アズとガンの線がまだ残っている。
その脇に、もう一枚分の空きがあった。
ソウは作業場の方へ歩いた。テツが新しい粘土の塊を捏ねている。ソウが目で問うと、テツは塊から拳一つ分を切り取って差し出した。手のひらの上で薄く伸ばして、新しい板の形にする。
ノタとハクは粘土板の脇まで連れて来られた。
二人とも、線の話は知っている。アズとガンの皿の出し方が線で決まったことは、もう輪の中の話になっていた。
ソウは木片の先で、新しい板の上に短い線を一本引いた。
「ノタ」
線の脇に小さな丸を一つ打った。ノタの鍬の刃の付け根の節の形だった。前にノタの鍬を担いだ時に、節が変な形をしているのを覚えていた。
もう一本、短い線を引いた。
「ハク」
線の脇には別の印を打った。ハクの鍬は柄の頭にひびが一本入っている。そのひびを、線の脇に短い縦の傷で表した。
「ノタの柄は節がある方」
「ハクの柄は頭にひびがある方」
ソウは指でそれぞれの印を順に押さえた。
ノタは粘土板の上の節の丸を見て、それから自分の手の中の柄に目を落とした。柄の刃の付け根に、確かに節があった。
ハクは自分の手の中の柄の頭を見た。ひびがあった。
「……これは、おれのだ」
ノタが言った。手の中の柄に節があった。粘土板の上の節の印は、ノタの線の側にあった。
ハクは自分の柄の頭のひびを指でなぞった。それから粘土板のひびの印を一度見た。
「……うん」
ハクは柄を自分の側に引き寄せた。
二人とも、声は揃って低かった。揉めごとは粘土板の脇で形を変えた。手の中で取り合うものでなくなり、印の脇に置かれるものになった。
*
ヒガは少し離れて見ていた。
昼の前から動いていなかった。鍬の話の間も、口は開かなかった。
ソウが立ち上がろうとした時、ヒガが粘土板の前まで歩いてきた。木片を取らなかった。代わりに自分の指の腹を、ノタの線の脇の節の印の上に一度だけ当てた。それからハクの線の脇のひびの印の上にも当てた。
二つの印は、別の形をしていた。
二つの線は、長さは同じだった。
線が二つあっても、脇の印が違えば別のものを指せる。
ヒガの指がもう一度、節の印の上に戻った。
ヒガはそこで一度、息を止めた。
「これは——」
ヒガの声が出かかって、止まった。
いつものヒガなら、語尾を崩して笑いの方へ流す。今朝はそうしなかった。声は止まったまま、口元だけが動いた。何かを言う形を、口の内側で一度なぞった。
それから、ヒガの口が開いた。
「これは——効く」
低い声だった。
昨日の『マジか』とは違っていた。確かめの声でもなかった。確かめの先で、もう動かしようがないと分かった時の声だった。
ヒガは指を印の上から離した。離した手を、膝の上で一度握って、また開いた。
*
空き地の脇で、ゴウザが薪を運ぶ手を止めていた。
顔は粘土板の方を向いていない。手の中の薪の束に視線が落ちている。ただ薪を運ぶ足の運びが、ヒガの『効く』の声が出た所で一度遅くなっていた。
ゴウザは何も言わずに、薪を焚き火の脇に下ろした。下ろした音はいつもより小さかった。
サガが空き地の端で柵の杭を確かめていた。
杭から手を離して、粘土板の方へ顔を一度向けた。長くは向けなかった。すぐにまた杭に手を戻した。だが向けた時の目は、粘土板の上の線と印の並びの全体を、上から下に一度なぞっていた。
焚き火の脇から、ガランが見ていた。
ガランは何も言わなかった。立ち上がりもしなかった。ただ口元の力が、わずかにほどけていた。
ヒガの『効く』の声を、ガランは確かに受け取った。受け取ったまま、何も足さなかった。足さないことが、今朝のここでは答えだった。
*
昼を過ぎて、粘土板は二枚になった。
配給の板と、鍬の板。
平らな石の上に二枚並んで、午後の光の中で同じ角度に乾いていた。アズとガンの線。ノタとハクの線。それぞれの脇には、印と長さの違いがある。
ミラが作業場の脇を一度通った。粘土板の上を、縦に目で追い、横に目で追った。指の動きは今朝はしなかった。ただ目だけがそこにあって、それから住居の方へ戻っていった。
ハクは道具小屋の壁際で、自分の柄の頭のひびを指でなぞっていた。今朝の印と同じ場所だった。
焚き火の脇では、カナが鍋に薬草を二枚落としていた。
葉の縁から青い香りが一拍立った。
カナの口が、薄く動いた気がした。声は風の中に紛れたが、口の動きの形は今朝と同じだった。元気で、いてね。誰に向かって言っているのかは、本人にもまだ分からない口の動きだった。
バアの椀は、焚き火の脇の同じ位置にあった。
縁の欠けの影が昼の光で短かった。
*
日が傾き始めた頃、ヒガが粘土板の前にもう一度立っていた。
午後の作業が一段落した刻だった。手には何も持っていない。ただ二枚の板を、立ったまま見下ろしていた。
ソウはその脇に立った。
「明日は」
ヒガが言った。
「明日は何の話を置くんだ」
「揉めたら、置く」
「揉めなかったら」
「揉めなかった話も置けるかもしれん」
ヒガは少しの間、考える顔をした。
それから粘土板の上の貝殻の方に目を流した。貝殻は今朝アズの線の側に移してから、まだ動いていない。明日の朝、また動かす番が来る。
「お前——」
ヒガはそこで止めた。
止めたまま、ソウの顔を一度横から見て、また粘土板に目を戻した。
「いや、いい」
言わなかった言葉が何だったかは、ソウには分からなかった。
ヒガはもう一度、二枚の板の上を指の腹で空中になぞった。指は板には触れなかった。なぞる動きだけが、今朝の自分の動きを確かめるようにそこにあった。
ヒガは立ち上がって、道具小屋の方へ戻っていった。
ソウは粘土板の前にしゃがんだまま、二枚の板を見ていた。
線が動いた。印が並んだ。声が、低くなった。
今朝はそれだけのことだった。だがそれだけのことが、皿の量に届き、柄の取り合いに届き、ヒガの口元に届いた。
ハクが道具小屋の方からこちらに目を向けていた。柄のひびを指でなぞる動きを、まだ止めていない。
明日の朝、貝殻はまた動かす番だった。
動かす手は、まだソウだけが知っていた。
だが板の前に立つ顔は、今朝で一つ増えていた。




