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転生先は夜明け前 ―石器時代から文明を拓く―  作者: 夜摩 高嶺
第一部 結実の章

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第77話「これは——効く」

 朝の光が、平らな石の上の粘土板に当たっていた。

 ソウは作業場の脇に立っていた。粘土板の上には昨日の終わりに並べた形が、そのまま残っている。アズの線。短い線。ガンの線。長い線。右の端には貝殻。

 貝殻はガンの線の側にある。

 ソウは指の腹を貝殻の縁にそっと当てた。動かない。


 動かす番だった。

 貝殻をひと呼吸分の間そこに置いてから、ゆっくりとアズの線の側へ移した。今日の朝からは、半杯はガンの方。線の長さがそのまま昨日と入れ替わる形になる。

 ソウは貝殻の縁から指を離した。


 空き地の縁に、足音が一つ近づいた。

 顔を上げる前から、誰の足音かは分かっていた。


「来たぞ」


 ヒガの声だった。

 昨日の終わりの『おれも見ていいか』の続きだった。声に身構えはなかったが、いつもの軽口の語尾の崩しもなかった。ヒガはまっすぐに粘土板の前まで歩いてきて、ソウの斜め後ろで足を止めた。



「動いてる」


 ヒガが言った。

 目は貝殻の上にあった。昨日見た時、貝殻はガンの線の側にあった。今朝はアズの線の側にある。

 ヒガはしゃがみ込んだ。膝を粘土板の前で折って、上から下に目を流す。アズの線。短い線。ガンの線。長い線。それから貝殻。

 もう一度、目で順に押さえ直した。


「今日は半杯がガンの方か」


「そうだ」


「昨日はアズの方だった」


「昨日はアズの方だった」


 ソウは同じ言葉を返した。返したあとで、自分の言い方が確かめの形になっているのに気づいた。確かめは、今朝のこの場で必要だった。

 ヒガはしばらく貝殻の上に目を留めていた。それから自分の指の腹を、ガンの線の脇の長い線の上に一度だけ当てた。


「これ、ガンが一杯」


「そうだ」


「半杯と一杯。線の長さで分けたな」


「分けた」


 ヒガの指は線の上を離れなかった。

 離れないまま、別の線へ移っていった。アズの脇の短い線。長さは長い線の半分。指の腹で長さをなぞって、最後に短い線の終わりの所で止まった。


「半分の線は半分の長さ」


「半分の長さ」


「分かる」


 ヒガはそれだけ言って、立ち上がった。



 粥の鍋の前に、アズが立っていた。

 隣にガンがいた。昨日の朝と同じ位置だった。違っていたのは、二人の肩の張り方だった。昨日は今日の分の食い違いで硬かった肩が、今朝は揃って下りていた。話の腰を折られたまま、別の段の話を済ませて来た顔だった。

 カヤが粥の杓を握って、二人の前に立った。


 杓が動いた。

 ガンの皿に、半杯。アズの皿に、一杯。

 昨日と量が入れ替わっている。ガンは半杯を受け取ると、皿の縁を指で一度握り直してから胸の前に保った。アズは一杯を受け取って、湯気の方に一度顔を寄せた。

 二人とも、口は開かなかった。


 ヒガはその列の少し外に立って、配給の様子を見ていた。

 目は粥の鍋ではなく、空き地の脇の粘土板の方に流れていた。配給が線の通りに動いた。線が言ったことが、皿の上で量になった。ヒガの肩の上で、何かがもう一段位置を変えたのを、ソウは横から見ていた。



 昼の少し前、別の声が立った。

 道具小屋の前だった。ノタが鍬の柄に手を置いていた。隣にハクがいる。ハクの手の中には別の柄が一本あった。


「これ、おれのだ」


「いや、おれが昨日借りたやつだ」


「昨日のは別のだ」


「同じだ」


 声の高さは低かったが、二人とも譲らなかった。

 昨日の終わりにヒガが鍬を返して、ハクが受け取って壁際に立て掛けた。その後にノタも鍬を返した。返した順番は二本続きだったが、立て掛けた場所が壁際で重なっていた。手が伸びる方向で、どちらの柄かが入れ替わったのかもしれなかった。

 ソウは粘土板の方を見た。


 平らな石の上に、アズとガンの線がまだ残っている。

 その脇に、もう一枚分の空きがあった。

 ソウは作業場の方へ歩いた。テツが新しい粘土の塊を捏ねている。ソウが目で問うと、テツは塊から拳一つ分を切り取って差し出した。手のひらの上で薄く伸ばして、新しい板の形にする。


 ノタとハクは粘土板の脇まで連れて来られた。

 二人とも、線の話は知っている。アズとガンの皿の出し方が線で決まったことは、もう輪の中の話になっていた。

 ソウは木片の先で、新しい板の上に短い線を一本引いた。


「ノタ」


 線の脇に小さな丸を一つ打った。ノタの鍬の刃の付け根の節の形だった。前にノタの鍬を担いだ時に、節が変な形をしているのを覚えていた。

 もう一本、短い線を引いた。


「ハク」


 線の脇には別の印を打った。ハクの鍬は柄の頭にひびが一本入っている。そのひびを、線の脇に短い縦の傷で表した。


「ノタの柄は節がある方」


「ハクの柄は頭にひびがある方」


 ソウは指でそれぞれの印を順に押さえた。

 ノタは粘土板の上の節の丸を見て、それから自分の手の中の柄に目を落とした。柄の刃の付け根に、確かに節があった。

 ハクは自分の手の中の柄の頭を見た。ひびがあった。


「……これは、おれのだ」


 ノタが言った。手の中の柄に節があった。粘土板の上の節の印は、ノタの線の側にあった。

 ハクは自分の柄の頭のひびを指でなぞった。それから粘土板のひびの印を一度見た。


「……うん」


 ハクは柄を自分の側に引き寄せた。

 二人とも、声は揃って低かった。揉めごとは粘土板の脇で形を変えた。手の中で取り合うものでなくなり、印の脇に置かれるものになった。



 ヒガは少し離れて見ていた。

 昼の前から動いていなかった。鍬の話の間も、口は開かなかった。

 ソウが立ち上がろうとした時、ヒガが粘土板の前まで歩いてきた。木片を取らなかった。代わりに自分の指の腹を、ノタの線の脇の節の印の上に一度だけ当てた。それからハクの線の脇のひびの印の上にも当てた。


 二つの印は、別の形をしていた。

 二つの線は、長さは同じだった。

 線が二つあっても、脇の印が違えば別のものを指せる。


 ヒガの指がもう一度、節の印の上に戻った。

 ヒガはそこで一度、息を止めた。


「これは——」


 ヒガの声が出かかって、止まった。

 いつものヒガなら、語尾を崩して笑いの方へ流す。今朝はそうしなかった。声は止まったまま、口元だけが動いた。何かを言う形を、口の内側で一度なぞった。

 それから、ヒガの口が開いた。


「これは——効く」


 低い声だった。

 昨日の『マジか』とは違っていた。確かめの声でもなかった。確かめの先で、もう動かしようがないと分かった時の声だった。

 ヒガは指を印の上から離した。離した手を、膝の上で一度握って、また開いた。



 空き地の脇で、ゴウザが薪を運ぶ手を止めていた。

 顔は粘土板の方を向いていない。手の中の薪の束に視線が落ちている。ただ薪を運ぶ足の運びが、ヒガの『効く』の声が出た所で一度遅くなっていた。

 ゴウザは何も言わずに、薪を焚き火の脇に下ろした。下ろした音はいつもより小さかった。


 サガが空き地の端で柵の杭を確かめていた。

 杭から手を離して、粘土板の方へ顔を一度向けた。長くは向けなかった。すぐにまた杭に手を戻した。だが向けた時の目は、粘土板の上の線と印の並びの全体を、上から下に一度なぞっていた。


 焚き火の脇から、ガランが見ていた。

 ガランは何も言わなかった。立ち上がりもしなかった。ただ口元の力が、わずかにほどけていた。

 ヒガの『効く』の声を、ガランは確かに受け取った。受け取ったまま、何も足さなかった。足さないことが、今朝のここでは答えだった。



 昼を過ぎて、粘土板は二枚になった。

 配給の板と、鍬の板。

 平らな石の上に二枚並んで、午後の光の中で同じ角度に乾いていた。アズとガンの線。ノタとハクの線。それぞれの脇には、印と長さの違いがある。

 ミラが作業場の脇を一度通った。粘土板の上を、縦に目で追い、横に目で追った。指の動きは今朝はしなかった。ただ目だけがそこにあって、それから住居の方へ戻っていった。

 ハクは道具小屋の壁際で、自分の柄の頭のひびを指でなぞっていた。今朝の印と同じ場所だった。


 焚き火の脇では、カナが鍋に薬草を二枚落としていた。

 葉の縁から青い香りが一拍立った。

 カナの口が、薄く動いた気がした。声は風の中に紛れたが、口の動きの形は今朝と同じだった。元気で、いてね。誰に向かって言っているのかは、本人にもまだ分からない口の動きだった。


 バアの椀は、焚き火の脇の同じ位置にあった。

 縁の欠けの影が昼の光で短かった。



 日が傾き始めた頃、ヒガが粘土板の前にもう一度立っていた。

 午後の作業が一段落した刻だった。手には何も持っていない。ただ二枚の板を、立ったまま見下ろしていた。

 ソウはその脇に立った。


「明日は」


 ヒガが言った。


「明日は何の話を置くんだ」


「揉めたら、置く」


「揉めなかったら」


「揉めなかった話も置けるかもしれん」


 ヒガは少しの間、考える顔をした。

 それから粘土板の上の貝殻の方に目を流した。貝殻は今朝アズの線の側に移してから、まだ動いていない。明日の朝、また動かす番が来る。


「お前——」


 ヒガはそこで止めた。

 止めたまま、ソウの顔を一度横から見て、また粘土板に目を戻した。


「いや、いい」


 言わなかった言葉が何だったかは、ソウには分からなかった。

 ヒガはもう一度、二枚の板の上を指の腹で空中になぞった。指は板には触れなかった。なぞる動きだけが、今朝の自分の動きを確かめるようにそこにあった。

 ヒガは立ち上がって、道具小屋の方へ戻っていった。


 ソウは粘土板の前にしゃがんだまま、二枚の板を見ていた。

 線が動いた。印が並んだ。声が、低くなった。

 今朝はそれだけのことだった。だがそれだけのことが、皿の量に届き、柄の取り合いに届き、ヒガの口元に届いた。

 ハクが道具小屋の方からこちらに目を向けていた。柄のひびを指でなぞる動きを、まだ止めていない。


 明日の朝、貝殻はまた動かす番だった。

 動かす手は、まだソウだけが知っていた。

 だが板の前に立つ顔は、今朝で一つ増えていた。

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