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転生先は夜明け前 ―石器時代から文明を拓く―  作者: 夜摩 高嶺
第一部 結実の章

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第76話「四つの形」

「決めるか」


 ソウは作業場の脇に向かう途中で、空き地の縁の杭の下に屈んだ。

 小石の上の大きな貝殻は、昨日置いた角度のままそこにあった。表面の巻きが朝の光に薄く照り返している。一夜の露を吸って、縁の白がわずかに濃く見えた。

 指の腹で軽く一度押した。動かない。

 ソウは貝殻を掬い上げ、両手で挟むように持って立ち上がった。


 歩く道筋に、テツが手の中の木の柄を一本固定する音が立っていた。新しい矢じり台の組み直しだった。テツは目を上げず、ソウの手の中の貝殻に視線だけを送った。

 ソウは作業場の脇の平らな石の前で膝を折った。

 粘土板はそこにある。穂の絵。縮めた線。数の線。三つの形が乾いた表面の上に並んだまま、四日目の朝の光を浴びている。

 ソウは粘土板の右の端の何もない場所に、貝殻をそっと置いた。


 四つになった。



 穂の絵。

 縮めた線。

 数の線。

 その横に、貝殻が一枚。


 ソウは指先で四つの間隔を少し詰めた。並びは横一列。左から右に目を流せば、順番が頭に入る。

 誰が、何を、いくつ、何枚分。

 穂の絵は「何を」の場所。縮めた線は「誰が」の場所に回す。数の線は「いくつ」の場所。貝殻は「何枚分」の場所。

 頭の中で順序を二度なぞった。一度目はぎこちなく、二度目は通った。


 粉の付いた指を腿で軽く拭った。

 まだ引かない。今日の朝の所では、まだ並べただけだった。


 脇でテツが木の柄を石の上に置いた音が立った。

 テツはこちらを見て、それから粘土板の上の貝殻を見た。一度視線を粘土板に留めて、それから自分の手元に戻した。何も言わなかった。聞かないことも今日のところは正しかった。



 昼の少し前、空き地の中ほどで声が立った。

 粥の鍋の前だった。アズが皿を持って立っている。隣にガンがいる。二人の間に湯気が一筋立っていた。


「半杯だ、と言ったろ」


「半杯は今日からだ」


「昨日からだと言った」


「言ってない」


 昨日の声と同じ形だった。

 声の高さも同じ。ただ昨日より、両者の肩の張り方が少しだけ硬かった。一日続いた言い分の食い違いは、今日の一杯で形を持ってしまう。

 ガランは少し離れた焚き火の脇から、二人の方へ顔だけを向けた。間に入る形にはまだなっていない。


 ソウは作業場の脇から立ち上がった。

 手の中に粘土板を持っていた。両手で支える形で、ゆっくりと運んだ。木片を一本、空いた手の指の間に挟んでいる。


「これをここに置く」


 ソウは焚き火の脇の平らな石の上に、粘土板を下ろした。

 アズもガンも一度黙った。話の腰を折られた顔ではなかった。誰かが何かを始めようとしている、と気づいた顔だった。


 ソウは粘土板の右端に貝殻を置いた。

 それから木片の先で、左の方の平らな所に短い線を引いた。

 縮めた線。それからもう一本。

 二本が並んだ。


「アズとガン」


 ソウは指でそれぞれの線を順に押さえた。


「アズはここ。ガンはこっち」


 二人とも黙っていた。



「今日からアズが半杯、ガンが一杯」


 ソウは木片の先で、アズの線の隣に短い線を一本引いた。半分だけの長さの線だった。

 ガンの線の隣には、長い線を一本引いた。線の長さで「半」と「一」を表した。

 最後に、貝殻の上に指を置いた。


「明日からはガンが半杯」


 ソウは貝殻を一度持ち上げ、ガンの線の側にずらした。

 二人は粘土板の上の四つの形を見下ろしている。

 アズの喉が一度動いた。ガンは右の手の指を、皿の縁を握り直すような形で開いては閉じた。


「明日の朝、また皆でこの板を見る。線が動いていなければ今日決めた通りだ」


 ソウの声は高くはなかった。

 アズが先に口を開いた。


「決めるのか」


「決める」


「今ここで」


「今ここで。線で残す」


 ガンの目が線の長さの差をなぞった。それから貝殻の位置に目を移した。アズの線のすぐ脇の短い線、ガンの線の脇の長い線、そして貝殻はガンの側。

 ガンの肩がわずかに下がった。

 頷きはしなかった。だが、否定もしなかった。


 ガランが焚き火の脇から立ち上がった。

 二人の方へ歩いてきて、粘土板の前で足を止めた。少しの間、上から下に目を流した。

 ガランは木片を取らなかった。代わりに自分の指の腹を、アズの線の上に一度だけ当てた。


「これで、覚える」


 ガランの声は低かった。

 決とも言える声だった。



 昼の配給は粘土板の通りに行われた。

 アズの皿には半杯。ガンの皿には一杯。湯気の立ち方が二つで違った。

 アズは皿を受け取って、しばらくの間、湯気の方ではなく粘土板の方を見ていた。それから皿を傾けて、口に運んだ。

 ガンは一杯を受け取ると、すぐには口をつけなかった。皿の縁を指で一度回してから、ようやく口に運んだ。

 二人とも今日のところで揉めなかった。納めたわけではないかもしれない。だが、納める場所が口の中ではなく粘土板の上に移ったことを、二人は気づいていた。


 空き地の縁でカヤが杓を握ったまま、その様子を見ていた。

 昨日と同じ位置だった。視線は今日も中ほどの空気に向けられている。だが、肩の力は昨日より一段だけ抜けていた。


 焚き火の脇では、カナが鍋に薬草を二枚落とすところだった。

 葉の縁から青い香りが一拍立った。今朝の配給はすでに済んでいたから、これは午後の分のための仕込みだった。

 カナの口は動いた気がしたが、声は届かなかった。



 粘土板の脇に、ミラが屈んでいた。

 いつから来ていたのか、ソウも気づかなかった。ミラの目は線の上を縦に追い、それから横に追った。

 縦の線と、横の線。

 ミラは指の先で、籠を編む時の手の運びを一度だけ繰り返した。縦の糸を上から下へ、横の糸を左から右へ通す動きだった。動きは一度きりだった。ミラはそれから手を下ろし、何も言わずに住居の方へ戻っていった。

 ソウはミラの背中を一瞬見送った。ミラの指の動きが、織り場の縁で見たことのある動きに似ている気がした。気がしたが、追わなかった。今朝のところは粘土板の上のことが先だった。



 午後、ヒガが鍬を返しに来た。

 昨日と同じ刻だった。ハクが受け取り、道具小屋の壁際に立て掛けた。立て掛ける位置は昨日と同じだった。

 ヒガはそれを見届けてから、焚き火の脇の粘土板に目を留めた。

 四つの形は午前の配給の通りに残っていた。アズの線。短い線。ガンの線。長い線。右端には貝殻。

 ヒガは粘土板の前で一度足を止めた。


「これか」


 ヒガは小さく言った。


「今朝の話の」


「今朝の話の線だ」


 ソウは答えた。

 ヒガは粘土板に屈み込み、線を一本ずつ目で追った。アズの線。ガンの線。短い線と長い線。最後に貝殻。

 それから立ち上がった。


「マジか」


 ヒガの口から、それだけ出た。

 驚いたのか感心したのか、ヒガ自身もまだ整理できていない顔だった。だが、線を見ている間に、ヒガの肩の上で何かが一段位置を変えたのを、ソウは横から見た。


「明日もここに置くのか」


 ヒガは聞いた。


「置く」


「明日の朝、おれも見ていいか」


 ソウは頷いた。

 ヒガはもう一度、粘土板の上の四つの形を見下ろしてから、道具小屋の方へ戻っていった。



 日が傾き始めた。

 粘土板は午後の光の中で、まだ平らな石の上にあった。アズの線、ガンの線、短い線、長い線、そして貝殻。五つの並びが乾いた表面の上に同じ角度で残っている。

 空き地の縁でアズとガンが横に並んで、夕の鍋の脇に立っていた。今朝の話の続きはもう口の中に上っていなかった。代わりに、明日の分け方をどちらが先に皿を取るかという、別の段の話を二人でしていた。


 ソウは粘土板の前にしゃがんだ。

 指の腹を貝殻の上に当てて、ガンの線の側からアズの線の側へ、ゆっくりと戻した。

 明日の朝、貝殻を動かす番だった。

 動かす音は出ない。だが、動かしたことは線の脇に残る。

 頭の中でその段取りをもう一度なぞった。


 焚き火の脇のバアの椀は、今日も同じ位置にあった。

 縁の欠けの影が夕の光の角度で短く伸びていた。

 その脇で、カナが鍋を覗き込んでいた。声は出していなかった。鍋の縁の薬草の葉が、湯気の中で軽く揺れていた。


 ソウは粘土板から目を上げた。

 空き地の縁で、ヒガがもう一度こちらを見ていた。鍬の柄の話ではない。線の話の続きを、ヒガが頭の中で一人で転がし始めている目だった。


 明日の朝、誰がこの板の前に立つかは、まだ分からなかった。

 だが、立つ場所は、もうそこにあった。

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