第76話「四つの形」
「決めるか」
ソウは作業場の脇に向かう途中で、空き地の縁の杭の下に屈んだ。
小石の上の大きな貝殻は、昨日置いた角度のままそこにあった。表面の巻きが朝の光に薄く照り返している。一夜の露を吸って、縁の白がわずかに濃く見えた。
指の腹で軽く一度押した。動かない。
ソウは貝殻を掬い上げ、両手で挟むように持って立ち上がった。
歩く道筋に、テツが手の中の木の柄を一本固定する音が立っていた。新しい矢じり台の組み直しだった。テツは目を上げず、ソウの手の中の貝殻に視線だけを送った。
ソウは作業場の脇の平らな石の前で膝を折った。
粘土板はそこにある。穂の絵。縮めた線。数の線。三つの形が乾いた表面の上に並んだまま、四日目の朝の光を浴びている。
ソウは粘土板の右の端の何もない場所に、貝殻をそっと置いた。
四つになった。
*
穂の絵。
縮めた線。
数の線。
その横に、貝殻が一枚。
ソウは指先で四つの間隔を少し詰めた。並びは横一列。左から右に目を流せば、順番が頭に入る。
誰が、何を、いくつ、何枚分。
穂の絵は「何を」の場所。縮めた線は「誰が」の場所に回す。数の線は「いくつ」の場所。貝殻は「何枚分」の場所。
頭の中で順序を二度なぞった。一度目はぎこちなく、二度目は通った。
粉の付いた指を腿で軽く拭った。
まだ引かない。今日の朝の所では、まだ並べただけだった。
脇でテツが木の柄を石の上に置いた音が立った。
テツはこちらを見て、それから粘土板の上の貝殻を見た。一度視線を粘土板に留めて、それから自分の手元に戻した。何も言わなかった。聞かないことも今日のところは正しかった。
*
昼の少し前、空き地の中ほどで声が立った。
粥の鍋の前だった。アズが皿を持って立っている。隣にガンがいる。二人の間に湯気が一筋立っていた。
「半杯だ、と言ったろ」
「半杯は今日からだ」
「昨日からだと言った」
「言ってない」
昨日の声と同じ形だった。
声の高さも同じ。ただ昨日より、両者の肩の張り方が少しだけ硬かった。一日続いた言い分の食い違いは、今日の一杯で形を持ってしまう。
ガランは少し離れた焚き火の脇から、二人の方へ顔だけを向けた。間に入る形にはまだなっていない。
ソウは作業場の脇から立ち上がった。
手の中に粘土板を持っていた。両手で支える形で、ゆっくりと運んだ。木片を一本、空いた手の指の間に挟んでいる。
「これをここに置く」
ソウは焚き火の脇の平らな石の上に、粘土板を下ろした。
アズもガンも一度黙った。話の腰を折られた顔ではなかった。誰かが何かを始めようとしている、と気づいた顔だった。
ソウは粘土板の右端に貝殻を置いた。
それから木片の先で、左の方の平らな所に短い線を引いた。
縮めた線。それからもう一本。
二本が並んだ。
「アズとガン」
ソウは指でそれぞれの線を順に押さえた。
「アズはここ。ガンはこっち」
二人とも黙っていた。
*
「今日からアズが半杯、ガンが一杯」
ソウは木片の先で、アズの線の隣に短い線を一本引いた。半分だけの長さの線だった。
ガンの線の隣には、長い線を一本引いた。線の長さで「半」と「一」を表した。
最後に、貝殻の上に指を置いた。
「明日からはガンが半杯」
ソウは貝殻を一度持ち上げ、ガンの線の側にずらした。
二人は粘土板の上の四つの形を見下ろしている。
アズの喉が一度動いた。ガンは右の手の指を、皿の縁を握り直すような形で開いては閉じた。
「明日の朝、また皆でこの板を見る。線が動いていなければ今日決めた通りだ」
ソウの声は高くはなかった。
アズが先に口を開いた。
「決めるのか」
「決める」
「今ここで」
「今ここで。線で残す」
ガンの目が線の長さの差をなぞった。それから貝殻の位置に目を移した。アズの線のすぐ脇の短い線、ガンの線の脇の長い線、そして貝殻はガンの側。
ガンの肩がわずかに下がった。
頷きはしなかった。だが、否定もしなかった。
ガランが焚き火の脇から立ち上がった。
二人の方へ歩いてきて、粘土板の前で足を止めた。少しの間、上から下に目を流した。
ガランは木片を取らなかった。代わりに自分の指の腹を、アズの線の上に一度だけ当てた。
「これで、覚える」
ガランの声は低かった。
決とも言える声だった。
*
昼の配給は粘土板の通りに行われた。
アズの皿には半杯。ガンの皿には一杯。湯気の立ち方が二つで違った。
アズは皿を受け取って、しばらくの間、湯気の方ではなく粘土板の方を見ていた。それから皿を傾けて、口に運んだ。
ガンは一杯を受け取ると、すぐには口をつけなかった。皿の縁を指で一度回してから、ようやく口に運んだ。
二人とも今日のところで揉めなかった。納めたわけではないかもしれない。だが、納める場所が口の中ではなく粘土板の上に移ったことを、二人は気づいていた。
空き地の縁でカヤが杓を握ったまま、その様子を見ていた。
昨日と同じ位置だった。視線は今日も中ほどの空気に向けられている。だが、肩の力は昨日より一段だけ抜けていた。
焚き火の脇では、カナが鍋に薬草を二枚落とすところだった。
葉の縁から青い香りが一拍立った。今朝の配給はすでに済んでいたから、これは午後の分のための仕込みだった。
カナの口は動いた気がしたが、声は届かなかった。
*
粘土板の脇に、ミラが屈んでいた。
いつから来ていたのか、ソウも気づかなかった。ミラの目は線の上を縦に追い、それから横に追った。
縦の線と、横の線。
ミラは指の先で、籠を編む時の手の運びを一度だけ繰り返した。縦の糸を上から下へ、横の糸を左から右へ通す動きだった。動きは一度きりだった。ミラはそれから手を下ろし、何も言わずに住居の方へ戻っていった。
ソウはミラの背中を一瞬見送った。ミラの指の動きが、織り場の縁で見たことのある動きに似ている気がした。気がしたが、追わなかった。今朝のところは粘土板の上のことが先だった。
*
午後、ヒガが鍬を返しに来た。
昨日と同じ刻だった。ハクが受け取り、道具小屋の壁際に立て掛けた。立て掛ける位置は昨日と同じだった。
ヒガはそれを見届けてから、焚き火の脇の粘土板に目を留めた。
四つの形は午前の配給の通りに残っていた。アズの線。短い線。ガンの線。長い線。右端には貝殻。
ヒガは粘土板の前で一度足を止めた。
「これか」
ヒガは小さく言った。
「今朝の話の」
「今朝の話の線だ」
ソウは答えた。
ヒガは粘土板に屈み込み、線を一本ずつ目で追った。アズの線。ガンの線。短い線と長い線。最後に貝殻。
それから立ち上がった。
「マジか」
ヒガの口から、それだけ出た。
驚いたのか感心したのか、ヒガ自身もまだ整理できていない顔だった。だが、線を見ている間に、ヒガの肩の上で何かが一段位置を変えたのを、ソウは横から見た。
「明日もここに置くのか」
ヒガは聞いた。
「置く」
「明日の朝、おれも見ていいか」
ソウは頷いた。
ヒガはもう一度、粘土板の上の四つの形を見下ろしてから、道具小屋の方へ戻っていった。
*
日が傾き始めた。
粘土板は午後の光の中で、まだ平らな石の上にあった。アズの線、ガンの線、短い線、長い線、そして貝殻。五つの並びが乾いた表面の上に同じ角度で残っている。
空き地の縁でアズとガンが横に並んで、夕の鍋の脇に立っていた。今朝の話の続きはもう口の中に上っていなかった。代わりに、明日の分け方をどちらが先に皿を取るかという、別の段の話を二人でしていた。
ソウは粘土板の前にしゃがんだ。
指の腹を貝殻の上に当てて、ガンの線の側からアズの線の側へ、ゆっくりと戻した。
明日の朝、貝殻を動かす番だった。
動かす音は出ない。だが、動かしたことは線の脇に残る。
頭の中でその段取りをもう一度なぞった。
焚き火の脇のバアの椀は、今日も同じ位置にあった。
縁の欠けの影が夕の光の角度で短く伸びていた。
その脇で、カナが鍋を覗き込んでいた。声は出していなかった。鍋の縁の薬草の葉が、湯気の中で軽く揺れていた。
ソウは粘土板から目を上げた。
空き地の縁で、ヒガがもう一度こちらを見ていた。鍬の柄の話ではない。線の話の続きを、ヒガが頭の中で一人で転がし始めている目だった。
明日の朝、誰がこの板の前に立つかは、まだ分からなかった。
だが、立つ場所は、もうそこにあった。




