第75話「次の、次」
「南の斜面に一人」
見張り台のリアの声が降りてきた。低くはない。だが、急いでもいない声だった。
ソウは作業場の脇で粘土板の縁に置いた指をそのままにした。指の腹に粉が薄く付いた。
もう一段、声が降りてきた。
「背に袋」
「一人か」
「一人だ。歩き方に迷いがない」
ソウは指を粘土板から離し、立ち上がった。
粘土板は三日前に置いた角度のままだった。穂の絵。縮めた線。数の線。三つが乾いた表面の上に並んだまま、ソウが指を上げてもそこに残っていた。
*
梯子を登る前に、テツが横に並んだ。
テツは手の中の木の柄を一本、空き地の縁の石の上に置いて来た所だった。柄の先にはまだ何も嵌まっていない。秋に十二片もらった黒曜石は、テツの手の中で、もう九片が形になっていた。残り三片は、道具小屋の壁際の革袋の中にある。
「南西の方角」
テツが小さく言った。
「同じ方角から来た」
「同じ男ならいいが」
ソウは答えた。
答えながら、頭の中で秋の終わりの斜面を思い出していた。背の袋。首の貝殻。歩き慣れた歩き方。続けて来ると言って去った男の背中が、林の縁で南西へ角度を変えたあの日。
梯子を登り切ると、リアが柵の隙間から南の斜面を指差した。
斜面の中ほどを、男が一人登ってきている。
背に大きな革袋。両肩に紐。歩みに迷いがない。袋の重さで肩は下がっているが、首は前に落ちていない。
「同じ顔だ」
テツが、ソウより先に言った。
*
ガランは空き地の中央で立ち上がった。
立ち上がる動きは、秋より一段だけ慎重だった。膝に手は当てなかった。当てる代わりに、もう一度息を吸ってから立った。
「お前が話せ」
ガランは短く言った。声には新しい色はなかった。
ソウは柵の南の側に立った。秋と同じ場所だった。丸太の上に両手を置く。位置も、同じだった。
ハミは斜面の三分の二まで来て、足を止めた。袋を地面に下ろし、ゆっくりと顔を上げた。陽に焼けた頬の線が、春の光の下でも深かった。首には、秋と同じ貝殻の首飾り。
「ハミだ」
男はそれだけ言った。
「覚えている」
ソウは答えた。
「ガラの丘、と覚えてきた」
ハミは口の中で一度、丘の名前を転がしてから言った。覚えた言葉を、確かめに来た者の声だった。
*
柵の門が開かれ、ハミが袋を担いだまま中に入った。
袋の口の紐がほどかれ、半分だけ開かれた。秋と同じ手順だった。袋の口を半分しか見せないのも、同じだった。
「春が来て、また形が増えたな」
ハミの目が空き地の縁を一度なめた。
住居の屋根の藁の編み目。陶器大壺三つ。窯の覆い。薪小屋の積み方。畑の方角の畝。そして作業場の脇の平らな石の上の粘土板の三つの形。
ハミの目はそれを、秋と同じ順番で、一つずつ留めた。
粘土板の上で目がわずかに止まった。止まったが、口は開かなかった。観察者の目だった。問うことを今ここで選ばない目だった。
ソウはハミの目の動きを横から見ていた。
ハミから見ると、ガラの丘は秋からこの春の間に何枚かの「形」を足していた。窯の脇の覆いは秋にはなかった。陶器の皿と椀は秋には数が少なかった。粘土板の三つの形は、秋には地の上にも板の上にもなかった。ハミの目はそれを、声にせずに数えていた。
ハミは袋から中身を一つずつ取り出した。
黒曜石の片。今回は二十枚あった。秋の十二より多い。縁の割れ方は秋と同じく鋭かったが、その中の三片は片面が薄い縞模様になっていた。秋の片には無かった種類だった。
貝殻の束。秋より厚い束だった。ハミは束の中から一枚だけを抜いて、別に脇に置いた。その一枚は他より少し大きく、表面の巻きが他のどれとも違う角度で曲がっていた。
赤い色の塊。秋と同じ大きさで、同じ赤さ。
塩は、秋より小さな袋だった。
最後にハミは袋の底から、革紐で結ばれた小さな包みを取り出した。包みを開くと、中から薄く茶色く皺の寄った干した実が二十ほどこぼれた。
「南の海岸の手前の谷で採れる」
ハミは静かに言った。
「煮ると、甘い。粒の粥に入れると、子が喜ぶ」
*
ガランは塩の袋に目を留めた。
秋に手に入れた塩は冬の終わりまでにほぼ使い切られていた。塩の袋がもう一つあるかどうかは、春の備蓄の話と夏に出る汗の話の両方に関わっていた。
「塩は、いくらだ」
ガランが先に聞いた。
ガランの声には駆け引きの色はなかった。確かめる声だった。
「秋と同じだ」
ハミは答えた。
「同じというのは」
ソウが脇から聞いた。
「秋と同じ重さの粒で、同じ重さの塩」
ハミの言葉は短かった。
ソウはガランの方を一度見た。ガランの肩が、わずかに動いた。納まりはした。だが、ソウの頭の中では、別の問いが立っていた。
秋の重さは、ソウの頭の中でも、ハミの頭の中でも、確かめる方法が無かった。秋にこちらが渡した粒の半袋がどのくらいだったか、覚えているのはハミの手の感覚と、こちらの大壺の縁の減り方だけだった。次に同じ量を出そうとしても、同じになる保証は、誰の手にも無い。
ソウは口の中で一度、言葉を回した。
「数える形がいる」
ソウは小さく言った。
ハミが顔を上げた。
ハミの目に初めて、観察者の以外の色が差した。
*
「数える形」
ハミは繰り返した。
「秋にお前が言った」
ハミの声には、笑いの気配があった。秋に去り際の「次から、数えよう」を、ハミも口の中で一度転がしていたらしかった。
「次が今だ」
ソウは答えた。
ハミはしばらく動かなかった。動かないまま、別に置いた一枚の大きな貝殻を、指で軽く突いた。
突いて、それから、束の方の貝殻を一枚抜いた。今度は束の中の、ごく普通の一枚だった。
ハミはその一枚を、ソウの方へ差し出した。
「南の海岸沿いでは」
ハミは言葉を切った。切ってから、続けた。
「これを、一つ。粒を一握り。これを、二つ。薬草の束を一つ」
ハミの声は淡々としていた。
「数える時はこれで数える」
ソウは差し出された貝殻を受け取った。手の中で軽い。重さは粒一握りとは似ても似つかなかった。だが、軽いから良い、と頭の中で何かが動いた。重い物は数える時に重さで揉める。軽い物は数える時に枚数で揉めない。
ソウは貝殻の上に親指の腹を当てた。
「東の谷でも聞いた」
ソウは言った。
ハミの目が、わずかに動いた。
「東の谷の者がここに」
「四人いる」
「ふん」
ハミはそれだけ言った。それから、視線を空き地の中ほどに流した。
空き地の縁では、トトが粒運びの手を一度止めて、こちらを見ていた。トトの目には、表情が乗っていなかった。だが、ハミの言葉の中の「南の海岸沿い」と、自分の口から出た秋の「東の谷」が、同じ形で並んだことを、トトは聞き取った顔だった。
*
ハミは別に置いた大きな貝殻を指で押し戻した。
戻した先は、こちらの柵の内側の地面だった。
「これは置いていく」
ハミは言った。
「使い方はお前たちで決めろ。次に来た時に数え方が決まっていれば、こちらも合わせる」
ハミの声は、売り込みの声ではなかった。試して見ろ、と言う声だった。
ソウは大きな貝殻を拾い上げた。
束の中の他の貝殻より一回り大きい。表面の巻きが違う。手の中で、これは「特別な一枚」になるなとソウは思った。同じものが束の中に無いから、これだけが「別の枚数」を意味することが出来る。
ソウは頭の中で粘土板の三つの形の脇に、貝殻の影を一つ置いてみた。穂の絵。縮めた線。数の線。そして、貝殻。誰が、何を、いくつ、何枚分。並びの数が一つ増えた。
今日はまだ引かない。
頭の中で一度並べてから、明日の朝、板の上に降ろす。
ソウは大きな貝殻を、作業場の脇の平らな石の方へは持って行かなかった。
代わりに、空き地の縁の杭の下の小石の上に置いた。誰の目にも見える場所だった。粘土板はまだ「数える形」を載せていない。だから貝殻もまだ作業場の脇には置かない。今日の所は丘の上の誰もが、その一枚の貝殻を見ることが出来る、それで足りた。
*
交換は柵の門の前で行われた。
黒曜石二十枚と、貝殻の束と、赤い塊と、塩の小袋と、干した実の包みが、こちらの内側に置かれた。
代価は粒の半袋と、薬草の束三つと、陶器の小皿一枚だった。
陶器の小皿はベンが脇から運んできた。ベンは何も言わずに皿を置き、ハミに一度頷いた。ハミも頷き返した。
粒は陶器大壺の三つ目から、アズが量って小袋に詰めた。
ノモは見張り台の上から、その様子を見ていた。
「次はいつだ」
ガランが、最後に聞いた。
「夏の終わりか。秋の入りだ」
ハミは答えた。
「夏の終わり、と」
「夏の終わりにまた話を持ってくる」
ハミは袋の口を結び直した。結び直す途中で、一度、空き地の縁の杭の下の貝殻を見た。見ただけで、何も言わなかった。
ハミは袋を肩に背負った。秋と同じ動きだった。袋は秋より少し重そうだったが、ハミの首は前に落ちなかった。
「もう一つ聞く」
ソウは、ハミの背中に声を当てた。
「南の海岸沿いにガラの丘と似た所はあるか」
ハミは振り返らなかった。
振り返らないまま、しばらく考えてから答えた。
「似た所は、ない」
「無いか」
「だが、お前たちの名前を聞いたことがある者はいる」
ハミは初めて半分だけ振り返った。
「秋におれが話した。話を聞いた者の中に、東の尾根の向こうの別の谷の者がいた。その者が北の谷の方の知り合いにまた話したかもしれん」
ハミはそれだけ言った。
名前は言わなかった。場所もはっきりとは言わなかった。だが、ハミの口の中で「次に来るかもしれない誰か」がもう一人、立っていた。
ソウはそれを聞いた。聞いたが、追って聞かなかった。追って聞けば、ハミの口は閉じる種類の口だった。
*
ハミは丘の南の斜面を降りていった。
歩幅は、秋と同じだった。袋の中の音が、秋より少しだけ高く響いた。塩の袋が小さくなった分、貝殻の束が前より軽くなった分、音の混ざり方が変わっていた。
ハミの背中は林の縁で角度を変えた。秋と同じ南西の方角だった。
ソウは柵の上から、見えなくなるまで見ていた。
見えなくなってから、空き地の縁の杭の下に目を落とした。
大きな貝殻が一枚、小石の上で春の光を受けていた。表面の巻きが、他のどの貝殻とも違う角度で曲がっていた。
ソウは、その隣にしゃがんだ。
頭の中に、粘土板の三つの形が並んだ。穂の絵。縮めた線。数の線。
その横に、貝殻を一枚置く。
誰が、何を、いくつ、何枚分。
四つを横に並べれば、明日の朝の借り物も、明後日の昼の分配も、夏の終わりにハミがまた持って来る重さの話も、同じ形で板の上に置ける気がした。
気がしたが、まだ引かない。
焚き火の脇で、カナが粥の鍋に薬草を二枚落とす音がした。
葉の縁から、青い香りが一拍立った。
「みんな、元気でいてね」
カナの声が、薄く立った。
今朝より少しだけ、低かった。
ソウは貝殻の上に指の腹を置いて、軽く一度押した。
貝殻は動かなかった。動かないことが、今日のところで一番大事だった。
明日の朝、貝殻を、作業場の脇の平らな石の上へ持っていく。
粘土板の隣に置く。
そこから、引く順番を決め直す。




