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転生先は夜明け前 ―石器時代から文明を拓く―  作者: 夜摩 高嶺
第一部 結実の章

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第75話「次の、次」

「南の斜面に一人」


 見張り台のリアの声が降りてきた。低くはない。だが、急いでもいない声だった。

 ソウは作業場の脇で粘土板の縁に置いた指をそのままにした。指の腹に粉が薄く付いた。

 もう一段、声が降りてきた。


「背に袋」


「一人か」


「一人だ。歩き方に迷いがない」


 ソウは指を粘土板から離し、立ち上がった。

 粘土板は三日前に置いた角度のままだった。穂の絵。縮めた線。数の線。三つが乾いた表面の上に並んだまま、ソウが指を上げてもそこに残っていた。



 梯子を登る前に、テツが横に並んだ。

 テツは手の中の木の柄を一本、空き地の縁の石の上に置いて来た所だった。柄の先にはまだ何も嵌まっていない。秋に十二片もらった黒曜石は、テツの手の中で、もう九片が形になっていた。残り三片は、道具小屋の壁際の革袋の中にある。


「南西の方角」


 テツが小さく言った。


「同じ方角から来た」


「同じ男ならいいが」


 ソウは答えた。

 答えながら、頭の中で秋の終わりの斜面を思い出していた。背の袋。首の貝殻。歩き慣れた歩き方。続けて来ると言って去った男の背中が、林の縁で南西へ角度を変えたあの日。


 梯子を登り切ると、リアが柵の隙間から南の斜面を指差した。

 斜面の中ほどを、男が一人登ってきている。

 背に大きな革袋。両肩に紐。歩みに迷いがない。袋の重さで肩は下がっているが、首は前に落ちていない。


「同じ顔だ」


 テツが、ソウより先に言った。



 ガランは空き地の中央で立ち上がった。

 立ち上がる動きは、秋より一段だけ慎重だった。膝に手は当てなかった。当てる代わりに、もう一度息を吸ってから立った。


「お前が話せ」


 ガランは短く言った。声には新しい色はなかった。


 ソウは柵の南の側に立った。秋と同じ場所だった。丸太の上に両手を置く。位置も、同じだった。

 ハミは斜面の三分の二まで来て、足を止めた。袋を地面に下ろし、ゆっくりと顔を上げた。陽に焼けた頬の線が、春の光の下でも深かった。首には、秋と同じ貝殻の首飾り。


「ハミだ」


 男はそれだけ言った。


「覚えている」


 ソウは答えた。


「ガラの丘、と覚えてきた」


 ハミは口の中で一度、丘の名前を転がしてから言った。覚えた言葉を、確かめに来た者の声だった。



 柵の門が開かれ、ハミが袋を担いだまま中に入った。

 袋の口の紐がほどかれ、半分だけ開かれた。秋と同じ手順だった。袋の口を半分しか見せないのも、同じだった。


「春が来て、また形が増えたな」


 ハミの目が空き地の縁を一度なめた。

 住居の屋根の藁の編み目。陶器大壺三つ。窯の覆い。薪小屋の積み方。畑の方角の畝。そして作業場の脇の平らな石の上の粘土板の三つの形。

 ハミの目はそれを、秋と同じ順番で、一つずつ留めた。

 粘土板の上で目がわずかに止まった。止まったが、口は開かなかった。観察者の目だった。問うことを今ここで選ばない目だった。


 ソウはハミの目の動きを横から見ていた。

 ハミから見ると、ガラの丘は秋からこの春の間に何枚かの「形」を足していた。窯の脇の覆いは秋にはなかった。陶器の皿と椀は秋には数が少なかった。粘土板の三つの形は、秋には地の上にも板の上にもなかった。ハミの目はそれを、声にせずに数えていた。


 ハミは袋から中身を一つずつ取り出した。


 黒曜石の片。今回は二十枚あった。秋の十二より多い。縁の割れ方は秋と同じく鋭かったが、その中の三片は片面が薄い縞模様になっていた。秋の片には無かった種類だった。

 貝殻の束。秋より厚い束だった。ハミは束の中から一枚だけを抜いて、別に脇に置いた。その一枚は他より少し大きく、表面の巻きが他のどれとも違う角度で曲がっていた。

 赤い色の塊。秋と同じ大きさで、同じ赤さ。

 塩は、秋より小さな袋だった。

 最後にハミは袋の底から、革紐で結ばれた小さな包みを取り出した。包みを開くと、中から薄く茶色く皺の寄った干した実が二十ほどこぼれた。


「南の海岸の手前の谷で採れる」


 ハミは静かに言った。


「煮ると、甘い。粒の粥に入れると、子が喜ぶ」



 ガランは塩の袋に目を留めた。

 秋に手に入れた塩は冬の終わりまでにほぼ使い切られていた。塩の袋がもう一つあるかどうかは、春の備蓄の話と夏に出る汗の話の両方に関わっていた。


「塩は、いくらだ」


 ガランが先に聞いた。

 ガランの声には駆け引きの色はなかった。確かめる声だった。


「秋と同じだ」


 ハミは答えた。


「同じというのは」


 ソウが脇から聞いた。


「秋と同じ重さの粒で、同じ重さの塩」


 ハミの言葉は短かった。


 ソウはガランの方を一度見た。ガランの肩が、わずかに動いた。納まりはした。だが、ソウの頭の中では、別の問いが立っていた。

 秋の重さは、ソウの頭の中でも、ハミの頭の中でも、確かめる方法が無かった。秋にこちらが渡した粒の半袋がどのくらいだったか、覚えているのはハミの手の感覚と、こちらの大壺の縁の減り方だけだった。次に同じ量を出そうとしても、同じになる保証は、誰の手にも無い。

 ソウは口の中で一度、言葉を回した。


「数える形がいる」


 ソウは小さく言った。


 ハミが顔を上げた。

 ハミの目に初めて、観察者の以外の色が差した。



「数える形」


 ハミは繰り返した。


「秋にお前が言った」


 ハミの声には、笑いの気配があった。秋に去り際の「次から、数えよう」を、ハミも口の中で一度転がしていたらしかった。


「次が今だ」


 ソウは答えた。


 ハミはしばらく動かなかった。動かないまま、別に置いた一枚の大きな貝殻を、指で軽く突いた。

 突いて、それから、束の方の貝殻を一枚抜いた。今度は束の中の、ごく普通の一枚だった。

 ハミはその一枚を、ソウの方へ差し出した。


「南の海岸沿いでは」


 ハミは言葉を切った。切ってから、続けた。


「これを、一つ。粒を一握り。これを、二つ。薬草の束を一つ」


 ハミの声は淡々としていた。


「数える時はこれで数える」


 ソウは差し出された貝殻を受け取った。手の中で軽い。重さは粒一握りとは似ても似つかなかった。だが、軽いから良い、と頭の中で何かが動いた。重い物は数える時に重さで揉める。軽い物は数える時に枚数で揉めない。

 ソウは貝殻の上に親指の腹を当てた。


「東の谷でも聞いた」


 ソウは言った。


 ハミの目が、わずかに動いた。


「東の谷の者がここに」


「四人いる」


「ふん」


 ハミはそれだけ言った。それから、視線を空き地の中ほどに流した。

 空き地の縁では、トトが粒運びの手を一度止めて、こちらを見ていた。トトの目には、表情が乗っていなかった。だが、ハミの言葉の中の「南の海岸沿い」と、自分の口から出た秋の「東の谷」が、同じ形で並んだことを、トトは聞き取った顔だった。



 ハミは別に置いた大きな貝殻を指で押し戻した。

 戻した先は、こちらの柵の内側の地面だった。


「これは置いていく」


 ハミは言った。


「使い方はお前たちで決めろ。次に来た時に数え方が決まっていれば、こちらも合わせる」


 ハミの声は、売り込みの声ではなかった。試して見ろ、と言う声だった。


 ソウは大きな貝殻を拾い上げた。

 束の中の他の貝殻より一回り大きい。表面の巻きが違う。手の中で、これは「特別な一枚」になるなとソウは思った。同じものが束の中に無いから、これだけが「別の枚数」を意味することが出来る。

 ソウは頭の中で粘土板の三つの形の脇に、貝殻の影を一つ置いてみた。穂の絵。縮めた線。数の線。そして、貝殻。誰が、何を、いくつ、何枚分。並びの数が一つ増えた。


 今日はまだ引かない。

 頭の中で一度並べてから、明日の朝、板の上に降ろす。


 ソウは大きな貝殻を、作業場の脇の平らな石の方へは持って行かなかった。

 代わりに、空き地の縁の杭の下の小石の上に置いた。誰の目にも見える場所だった。粘土板はまだ「数える形」を載せていない。だから貝殻もまだ作業場の脇には置かない。今日の所は丘の上の誰もが、その一枚の貝殻を見ることが出来る、それで足りた。



 交換は柵の門の前で行われた。

 黒曜石二十枚と、貝殻の束と、赤い塊と、塩の小袋と、干した実の包みが、こちらの内側に置かれた。

 代価は粒の半袋と、薬草の束三つと、陶器の小皿一枚だった。

 陶器の小皿はベンが脇から運んできた。ベンは何も言わずに皿を置き、ハミに一度頷いた。ハミも頷き返した。

 粒は陶器大壺の三つ目から、アズが量って小袋に詰めた。

 ノモは見張り台の上から、その様子を見ていた。


「次はいつだ」


 ガランが、最後に聞いた。


「夏の終わりか。秋の入りだ」


 ハミは答えた。


「夏の終わり、と」


「夏の終わりにまた話を持ってくる」


 ハミは袋の口を結び直した。結び直す途中で、一度、空き地の縁の杭の下の貝殻を見た。見ただけで、何も言わなかった。

 ハミは袋を肩に背負った。秋と同じ動きだった。袋は秋より少し重そうだったが、ハミの首は前に落ちなかった。


「もう一つ聞く」


 ソウは、ハミの背中に声を当てた。


「南の海岸沿いにガラの丘と似た所はあるか」


 ハミは振り返らなかった。

 振り返らないまま、しばらく考えてから答えた。


「似た所は、ない」


「無いか」


「だが、お前たちの名前を聞いたことがある者はいる」


 ハミは初めて半分だけ振り返った。


「秋におれが話した。話を聞いた者の中に、東の尾根の向こうの別の谷の者がいた。その者が北の谷の方の知り合いにまた話したかもしれん」


 ハミはそれだけ言った。

 名前は言わなかった。場所もはっきりとは言わなかった。だが、ハミの口の中で「次に来るかもしれない誰か」がもう一人、立っていた。

 ソウはそれを聞いた。聞いたが、追って聞かなかった。追って聞けば、ハミの口は閉じる種類の口だった。



 ハミは丘の南の斜面を降りていった。

 歩幅は、秋と同じだった。袋の中の音が、秋より少しだけ高く響いた。塩の袋が小さくなった分、貝殻の束が前より軽くなった分、音の混ざり方が変わっていた。

 ハミの背中は林の縁で角度を変えた。秋と同じ南西の方角だった。


 ソウは柵の上から、見えなくなるまで見ていた。

 見えなくなってから、空き地の縁の杭の下に目を落とした。

 大きな貝殻が一枚、小石の上で春の光を受けていた。表面の巻きが、他のどの貝殻とも違う角度で曲がっていた。

 ソウは、その隣にしゃがんだ。


 頭の中に、粘土板の三つの形が並んだ。穂の絵。縮めた線。数の線。

 その横に、貝殻を一枚置く。

 誰が、何を、いくつ、何枚分。

 四つを横に並べれば、明日の朝の借り物も、明後日の昼の分配も、夏の終わりにハミがまた持って来る重さの話も、同じ形で板の上に置ける気がした。

 気がしたが、まだ引かない。


 焚き火の脇で、カナが粥の鍋に薬草を二枚落とす音がした。

 葉の縁から、青い香りが一拍立った。


「みんな、元気でいてね」


 カナの声が、薄く立った。

 今朝より少しだけ、低かった。


 ソウは貝殻の上に指の腹を置いて、軽く一度押した。

 貝殻は動かなかった。動かないことが、今日のところで一番大事だった。


 明日の朝、貝殻を、作業場の脇の平らな石の上へ持っていく。

 粘土板の隣に置く。

 そこから、引く順番を決め直す。

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