表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
転生先は夜明け前 ―石器時代から文明を拓く―  作者: 夜摩 高嶺
第一部 結実の章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

74/98

第74話「言った、言わない」

 粘土板を作業場の脇に置いてから、三日が過ぎた。


 北縁の二列の畝にはまだ芽は出ていない。土の色は朝ごとに少しだけ濃くなった。畑の縁を回って、ソウは畝の一本ごとに目を落とした。芽の出る順番は頭の中に並んでいる。並んでいるが、地の上に形はまだ無い。

 帰り道、薬草畑の南端を通った。苦い葉の畝に最初の芽が二つ並び、丸い葉の畝にも先の細い緑が一つ立っていた。冬の間は土の下で待っていたものが、今朝の光の中で形を始めている。

 戻る途中、空き地の脇で声が交わっているのが耳に入った。


「明日使うって確かに言ったぞ」


 ヒガの声だった。低くはないが責める形にはなっていない。ただ確かめている。


「言ったか?」


 ハクが聞き返した。

 ハクの手には改良型の石鍬があった。柄の握りの所が、もう汗で色が変わっている。今日の朝に薬草畑の畝直しに使ってきたばかりらしかった。


「言った。昨日の夕方、焚き火の脇で」


「昨日の夕方はおれが水のかめの所にいた」


「そうじゃない。その前だ。焚き火の前で皿を片付けてた時に」


「皿を片付けてた時の話は、覚えがないな」


 ヒガが軽く首を振った。怒っているわけではない。むしろ自分が誰かに言い間違えたかどうかを頭の中で探し直している顔だった。

 空き地の中ほどにテツが居た。新しい矢じりの柄を一本固定し終えて、それを縁の石の上に置いた所だった。テツは目だけを動かして、二人を交互に見た。

 ハクの目が一瞬、テツの手元の方へ流れた。それからまた鍬の柄に戻った。



「ヒガはおれにも言ったぞ」


 別の声が脇から来た。タルだった。鍬の柄を一本、肩に担いでいる。


「いつだ」


「昨日の夕方じゃない。一昨日の夕方だ。畑から戻ってきた時に、明日借りるかもしれんと言った」


「一昨日?」


 ヒガが眉を寄せた。


「一昨日はおれは畑からまっすぐ戻ってない。途中で陶器のほうに寄ってる」


「寄った後だ」


「寄った後の話か」


 ヒガはそこで一度、口の中で言葉を転がした。

 タルの言うことが嘘ではないことは、ヒガにも分かっている。ヒガが分からないのは、自分がそれを「明日」と言ったか「明後日」と言ったかだった。明日と言ったなら、今日は二日目だ。明後日と言ったなら、今日が借りる日になる。


「今日借りるなら今日返しゃいい」


 ハクが口を出した。鍬の柄を握り直しながら言った。怒気はない。


「畝直しはもう一本で済む。半日で済む」


「半日って今からか」


「今からだ」


「日が傾く前に戻すなら、こっちはいいぞ」


 ヒガの肩がやや下がった。揉め事の形になる前に、現実の所で一段低くなった。

 だが、納まったわけではなかった。納まり方が「今日は借りる、半日で戻す」になっただけで、誰が何をいつ言ったのかは、誰の口の中でもまだ整理されていなかった。



 焚き火の脇に、バアの椀が置かれていた。

 秋からずっと、誰も触らずに同じ場所にある椀だった。縁の欠けが、朝の光の角度で短い影を作っている。火は朝の鍋を温め終えて、今は薪一本がゆっくり崩れていく所だった。

 その脇でカナが粥の鍋に薬草を二枚落とした。

 葉の縁にまだ朝露が少し残っていた。鍋の湯が薬草に触れて、青い香りが一拍だけ立った。カナは杓を握ったまま、鍋の表面を一度だけ撫でた。


「みんな、元気でいてね」


 声は小さかった。

 誰かに向けたのか、鍋に向けたのか、自分に向けたのか、分からない声だった。前は鍋を見ている時の口の動きだけだったものが、いつの間にか息に乗るようになっていた。カナ自身もそれに気づいているのかいないのか、杓を上げると、もう次の薬草を探していた。

 カナの隣にキイがいた。椀を二つ並べて、配給を待つ手が小さく揺れている。

 焚き火の脇の椀は、何も言わずにそこにあった。



 昼の少し前、空き地の縁にもう一つ声が立った。

 今度はアズだった。粥の入った皿を片手に、輪の外側でガンに何か言っている。


「昨日、うちの分は半杯にするって、自分で言っただろ」


「いや、半杯にするのは今日からって話だった」


「今日からじゃない。昨日からだ」


「昨日はおれは普通に一杯食ってる」


「だから、それで足が出てる」


 春は備蓄を消費する季節だった。

 冬の終わりに残った粒は、芽吹きまでの日数で割られている。割り方は朝のうちにガランが頭の中で決めるが、口頭で告げるだけだった。誰が何日から半分にして誰が満杯のままかは、覚えている者と覚えていない者で食い違う。


 アズの声は鋭くはない。ただ、間違っていないと信じている声だった。ガンも同じ顔をしている。両者とも嘘をついていない。両者とも、自分の覚えが正しいと思っている。

 ガランは少し離れた所で、肩を上げて、また下げた。間に入る形ではなかった。間に入ったところで、どちらの覚えが正しいかを確かめる方法が今この場には無かった。

 ガランの少し後ろで、カヤが何も言わずに杓を握ったまま立っていた。視線は粥の鍋でも二人でもなく、中ほどの空気にだけ向けられている。


 ソウは空き地の縁の杭に背を預けて、その様子を見ていた。

 焚き火の方からカナの呟きの残りが、まだ風に流れて来ている気がした。粥の鍋。薬草二枚。椀。

 頭の中で別の場所の絵が立った。

 作業場の脇の平らな石の上の粘土板。穂の絵と、縮めた線と、数の線。三つが並んだまま、夜を二度越えた板。

 絵の穂と、縮めた線と、数の線。


「言った、言わない」


 ソウは口の中で言った。



 午後、ヒガが鍬を返しに来た。

 約束の通り日が傾く前だった。柄の握り口は朝より色が濃くなっていた。

 ハクは無言で受け取り、道具小屋の壁際に立て掛けた。立て掛ける位置はいつも借り手が決まっている所だった。ヒガはそれを見届けてから、肩の力を抜いた。


「明日の朝、もう一回使うか」


 ハクが聞いた。


「使う」


「分かった」


「今、言ったぞ」


「聞いた」


 二人の間に短い間があった。

 その間の中にもう一つの声が乗った。冗談ではない、確かめの声だった。


「明日の朝、と」


 タルが脇から、確かめるように繰り返した。三人で同じ言葉を、同じ場所で、同じ時に聞いた。それが今日の所での精一杯の収まり方だった。

 ヒガがそれに気づいて、わずかに笑った。


「明日の朝。三人で聞いた」


「聞いた」


 三人とも同じ言葉を頭に入れて、それぞれの仕事に戻った。

 ソウは少し離れた所で、その光景を見ていた。

 三人で聞けば今日の所は揉めない。だが、三人がいなかった所での約束は、今日もアズとガンの間で食い違っていた。三人を呼ぶことができなかった約束は誰の頭の中にも残らない。残らないものを、どうやって残すか。



 ソウは作業場の脇に戻った。

 粘土板は置いた時の角度で平らな石の上にあった。三日前に並べた三つの形が、変わらずそこに乗っている。穂の絵。縮めた線。数の線。


 ソウは粘土板の前に座った。

 絵は何の話かを示す。数の線はいくつかを示す。だが、誰が、誰に、いつ、何を言ったか。それはまだ板の上に無い。

 無いが、置ける形はある気がした。

 穂の絵を誰かの代わりに置く。鍬の絵を何の代わりに置く。数の線をいくつの代わりに置く。三つを横に並べる。誰が、何を、いくつ。並べる順を決めれば、並びの中に意味が入る。

 ソウは木片を取らなかった。まだ引かなかった。

 頭の中で、ヒガとハクとタルの三人の顔が浮かんでいた。三人で聞いた。だから明日の朝は揉めない。

 三人の代わりに、板が「聞く」ことが出来るか。

 板は二度目の朝も覚えている。三日前の線が今日も同じ場所にある。板は忘れない。

 三人を呼ぶ代わりに、板に置く。

 板に置けば明日の朝にも明後日の昼にも、同じ並びが同じ場所にある。


 ソウは粘土板の縁に指を置いた。乾いた表面から薄く粉が立った。

 まだ、引かない。

 明日からどう置くかを、頭の中で並べ直さなければならなかった。

 絵の穂と、縮めた線と、数の線。並べる順序がもう一段要る。



 日が傾き始めた。

 空き地の方から夕の鍋を温める薪の弾ける音が立った。焚き火の脇のバアの椀は夕の光の中で縁の影をまた少し伸ばしていた。カナが粥の鍋に薬草をもう二枚落とす音が、薄く届いた。


「みんな、元気でいてね」


 もう一度、同じ声が薄く立った。

 今朝より少し低い声だった。


 ソウは粘土板から目を上げた。

 空き地の縁ではアズとガンが横に並んで、湯気の立つ皿を分けていた。揉めていた声はもう聞こえなかった。だが、二人とも、明日からの分け方を、まだ口の中で確かめ直しているはずだった。

 ソウは粘土板の上の三つの形をもう一度、上から下に目で追った。

 絵の穂。縮めた線。数の線。

 その横の何もない平らな所に、ソウは指を伸ばした。木片は取らなかった。指の腹で、空中に短く一本の線を引いた。乾いた粘土には触れず、線は地の上に残らない。

 だが、引く場所はそこにあった。

 ソウは指を下ろし、もう一度三つの形を見た。

 まだ、引かない。

 明日からの並べ方を頭の中でもう一度組み直してから、木片を取ることになる。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ