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転生先は夜明け前 ―石器時代から文明を拓く―  作者: 夜摩 高嶺
第一部 結実の章

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第73話「絵と、線と」

 播種が終わって、三日が過ぎた。


 北縁の二列に蒔いた粒は、まだ土の中だった。芽の出る順番はソウの頭の中に並んでいたが、芽そのものは出ていなかった。畑の縁を歩く者の足音は減り、空き地の方の作業の音がまた増えていた。テツの作業場の脇では、新しい粘土が捏ねられている音が、朝から続いていた。


 ソウは住居の奥から粘土板を持ち出した。

 春の最初の朝に外へ運び出したまま、作業場の脇の隅に置いてあった板だった。七本の線と短い一本は、変わらずそこに並んでいた。日と夜の繰り返しの中で表面はさらに乾いて、線の縁が指の腹で触ると少し粉を返した。だが、線そのものは消えていなかった。


 ソウはその板をテツの作業場の脇の平らな石の上に置いた。

 粘土の塊がもう一つ、その隣に並べてあった。今朝テツが分けてくれた塊だった。手で板の形に伸ばせば、もう一枚書ける板になる大きさだった。


 ソウは塊を伸ばし始めた。



「何を足すんだ」


 テツが手元の作業から目を上げずに言った。

 黒曜石の小片を木の柄に固定する作業の途中だった。指の動きは止めず、声だけが脇に流れてきた。


「絵を置いてみる」


 ソウが答えた。


「絵」


 テツの声が半秒だけ遅れた。


「ものの形だ。穂の形」


 ソウは伸ばし終えた板の表面に矢じり試作の木片の先で線を引いた。

 縦の細い一本。茎だった。茎の上に、左右に短く跳ね上がる線を上から下に向かって順に重ねていく。穂の粒の並びだった。最後に茎の根元に、土の縁を示す横の短い一本を引いた。

 線は不器用だった。だが、それは確かに穂に見えた。

 テツの目が一度だけ手元から離れて、絵の方に動いた。


「……穂だな」


 テツが言った。

 声は短かった。だが、声の中に確かめの色があった。


「分かるか」


「分かる」


 テツは答えてから、もう一度手元の作業に目を戻した。手の動きは戻っていたが、口の中でもう一度「穂」と呟いていた。



 ソウは絵の脇に、もう一つ、別の絵を試した。

 今度は椀の形だった。横に長い半円を引き、その上に開いた口の縁を二本の短い線で示した。線の数は少ないが、それは椀に見えた。

 テツはちらりと目を上げて、また手元に戻った。穂と椀の二つが板の上に並んだ。物の形を線で写す試みは、二つとも誰にも問わなくても伝わった。


 ソウは次に、椀の絵の隣に、もう一本、線を引いた。

 今度は穂の絵ではなかった。短い縦の線が一本だけだった。線の上に、小さな点を一つ置いた。

 点と線の組み合わせだった。


「これも、穂か」


 テツが聞いた。


「同じものの、もう一つの形だ」


 ソウは答えた。


「線一本で、穂を意味する形。点が穂の粒で縦の線が茎」


「縮めたのか」


「縮めた」


 テツは少し考えた顔をした。手元の黒曜石の角度を変えてから口を開いた。


「絵の方は、見れば穂だ。縮めたものはお前に聞かないと分からん」


 ソウは頷いた。

 その通りだった。

 絵の方は、穂を知っている者なら誰でも穂と読めた。縮めた方は穂と縮めた線が結びつくと、ソウが先に決めなければ読めなかった。ソウだけが意味を知っている形だった。

 ソウは縮めた線の隣にもう一段、線を引いた。

 今度は、住居の奥で初めて引いた七本の線の続きだった。一本、二本、三本——七本。それから少し離して、もう一本短い線。粒の備蓄と、薬草の束を意味する線だった。

 絵の穂、縮めた穂、数の線。三つが一枚の板の上に並んだ。



 ソウは三つを並べて見た。


 絵だけでは、穂が何本かは分からない。

 縮めた線だけでは、ソウ以外には何のことか分からない。

 数の線だけでは、何の数か分からない。


 三つを並べると、初めて「穂の備蓄が、いくつ」が伝わる形になる。

 絵が、何の話かを示す。数の線が、いくつかを示す。縮めた線は、絵の代わりに置けるが、ソウが先に決めなければ読めない。

 だが、絵を一つひとつ描くのは時間がかかる。縮めた線は他者に伝わらない。数の線は数えるだけだ。

 一枚の板に、絵と、縮めた線と、数の線が並んだ。並んだだけだった。並ぶことが「文字」になるためには、もう一段、何かが要る。

 その何かは、何度頭の中で並べ直しても、すぐには出てこなかった。


 ソウは木片を一度板の縁に置いた。

 まだ、足りない。

 その言葉が頭の中で立った。冬の入り口に皿が並んだ夕方、テツの声が同じ場所から出ていた。「これでも、まだ——/足りない/もっと別の何かがいる」。あの時テツが窯の覆いの向こうに見ようとしていた温度を、今ソウは粘土板の上に見ようとしていた。



 足音が作業場の脇に近づいてきた。

 ミラだった。

 腕に編みかけの籠を下げていた。籠の縁には細く裂いた草の繊維が何本か巻きついている。住居の前で休んでいた手仕事をここまで運んできたところらしかった。

 ミラはテツに小さく頷いてから、ソウの背中の脇に立った。ソウは振り返らずに、もう一本だけ線を引き直した。穂の絵の隣の縮めた線の方だった。

 ミラの足が一度だけ止まった。

 しばらく、ミラは何も言わなかった。粘土板の上の線を、上から下へ左から右へとゆっくり目で追っていた。籠を下げた腕の角度がわずかに変わった。


「これは——」


 ミラが言った。

 声の途中で、わずかに切れた。


「編み目に似ているねえ」


 ソウは振り返った。

 ミラの目は粘土板の上にあった。指は籠の縁を一度なぞった。


「縦と、横。重なりかたが似ているよ。籠を編む時はね、縦の糸の上を、横の糸が行ったり来たりするからね。あんたの線も、縦と横で形が違うものを並べてる」


 ミラはそれ以上は言わなかった。

 籠を下げた腕を一度組み直してから、テツの方に向き直って、また小さく頷いた。それから、住居の方へ戻っていった。


 ソウは粘土板を見た。

 絵の穂は縦に伸びていた。縮めた線は短く縦だった。数の線は横に並んでいた。

 縦と横。

 ミラの目がそれを最初に見つけた。



 しばらくして、ハクが作業場の脇に立っていた。

 いつものように、テツの手元を見ていた。だが、今日は途中で目が動いて、ソウの粘土板の方に流れた。穂の絵で目が止まり、椀の絵で止まり、縮めた線で止まり、数の線で止まった。ハクは何も言わなかった。テツの黒曜石の作業に目を戻し、また粘土板に目を戻し、もう一度黒曜石に戻した。

 二つの間を行ったり来たりする目だった。

 ハクが一度だけ、自分の指で空中に短い線を引いた。粘土板の上の縮めた線の形を指でなぞる動きだった。指は板に触れなかった。ハクは指をすぐに下ろし、テツの手元に目を戻した。

 ハクの目の中で、二つは別々の物に見えているのか、同じ物に見えているのか。ソウには分からなかった。



 日が傾き始めた頃、ソウは粘土板を持ち上げた。


「焼くか」


 テツが聞いた。

 手元の作業が一段落していた。木の柄に固定された矢じりが作業台の縁に三本並んでいた。


「いや」


 ソウは答えた。


「まだ、足りない」


 テツは頷いた。

 今日も同じ答えだった。だが、テツの頷きの中に責めの色も急ぎの色もなかった。「もっと別の何かがいる」と冬の入り口に自分が言った言葉と、ソウの「まだ足りない」が同じ場所から出た声だと、テツの肩の動きが受け取っていた。


 ソウは粘土板を作業場の脇の平らな石の上に戻した。

 絵と、縮めた線と、数の線。三つが板の上に並んだまま、夜を迎えることになる。

 ミラの「縦と横」がソウの頭の片隅に残っていた。

 縦に並べる物と、横に並べる物。縦の列と横の列で意味が変わる並べ方。籠の縦糸の上を横糸が行ったり来たりするように、縦の意味と横の意味が交わる場所がもしかしたら、線の上にも作れる。

 だが、その「もしかしたら」は、まだソウの頭の中でも形を持っていなかった。


 春の風が作業場の脇を一度抜けた。

 粘土板の上の線の縁から、薄く粉が舞った。粉はすぐに地面に落ちた。

 ミラの背中はもう住居の革幕の向こうに消えていた。ハクはテツの手元に目を戻していた。テツは新しい矢じりの木の柄をもう一本、固定し始めていた。

 ソウだけが、板の上の三つの形をもう一度、上から下に目で追っていた。

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