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転生先は夜明け前 ―石器時代から文明を拓く―  作者: 夜摩 高嶺
第一部 結実の章

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第71話「土が緩む」

 春が、来た。


 夜明け前に北の風が落ち、入れ替わりに南の風が丘の縁を渡ってきた。風は冷たさを残したまま、その下に土の匂いをひそませていた。雪はもう、丘の上のどこにも残っていない。地面の凹みに薄く溜まっていた最後の白も、昨日の昼過ぎに水に変わって土の中へ消えた。


 ソウは住居の革幕を開けて外に出た。

 息を吐いた。吐いた息はまだ白かった。だが、白さは丘の縁の手前で薄れて、空の青さに溶けていった。冬の朝の白さとは溶け方が違った。


 ソウは丘の北の縁に向かった。

 バアの薬草畑がある場所だった。


 三列の畝の南端、苦い葉の畝の縁に、緑の粒が一つ、土を割って出ていた。芽だ。葉の形にはまだなっていない。土を押し上げた茎の先に、小さな緑がかすかに膨らんでいるだけだった。だが、それは確かに土の上に出ていた。


 ソウは膝を折って、芽の真上にしゃがんだ。

 朝の斜めの光が、芽の輪郭を一筋なぞる。芽の根元の土は、もう冬の土の色ではなかった。茶色の中に、わずかに黒みが戻っていた。指の腹で土の表面に触れた。土は冷たかったが、夜の冷たさではなかった。指が押した分だけ土が沈み、指を離すと、沈んだぶんがゆっくり戻った。

 土が、緩んでいた。


 ソウは立ち上がった。

 立ち上がる前に、芽の隣の畝の縁にも目を移した。丸い葉の畝はまだ何も出ていない。傷の根の畝も同じだった。出るのは、苦い葉から。それはバアが去年の春にも、その前の春にも言っていた順番だった。

 ソウはその順番を頭の中で並べた。

 順番を覚えているのは、もう自分だけではない。



 空き地に降りると、焚き火脇でカナが鍋を覗いていた。

 粥の鍋は煮立ち始めたところだった。湯気が立ち、その湯気の縁にカナの横顔があった。鍋の縁の脇に、バアの椀が置かれている。冬の間と同じ場所だった。誰も動かさず、誰も使わなかった椀の縁に、今朝も光が当たっていた。

 カナは鍋から目を上げた。


「芽、出てた?」


「苦い葉が一つ」


 ソウが答えると、カナはわずかに口の端を上げた。


「一番に出るって、バアが言ってた」


「うん」


 カナはそれだけ言って、鍋の縁の薬草の束に手を伸ばした。冬の間に干していた最後の束だった。葉はもう乾ききって、指で触れると砕けそうな硬さになっていた。カナは束の中から二枚を選び、指の腹で軽く揉んでから鍋の中に入れた。

 葉が湯気の中で開く音がした。

 春の最初の朝も、カナは粥に薬草を二枚入れた。冬の間と同じ数だった。


 カナの後ろからキイが走ってきた。タルとオンの娘で、八歳になる女の子だった。冬の間も焚き火の脇でよく見かけたが、春の朝の足の運びは少し違った。住居の革幕から鍋の脇までを一直線に走り、カナの隣でぴたりと止まる。膝を抱えて鍋を覗き込む顔が、湯気の縁で明るくなった。


「今日もお手伝いする」


 キイが言った。


「うん。じゃあ、椀を並べてくれる」


 カナはそう言って、住居の脇に積まれた椀の山の方を指した。キイは頷いて、走っていく。

 カナはその背中を見送りながら、もう一度鍋の中に目を戻した。鍋の縁の脇のバアの椀には触れなかった。



 ソウは焚き火の脇を離れて、住居の方へ歩いた。

 住居の奥に、粘土板があった。冬の終わりの間、ずっと壁際の同じ場所に置かれていた板だった。生粘土のまま、七本の線と短い一本が並んでいる。冬の乾燥した空気の中で表面はわずかに固くなっていたが、まだ焼かれてはいなかった。


 ソウは板を両手で持ち上げた。

 持ち上げると、板の縁が指の腹に冷たかった。冬の乾きを吸い込んだ粘土の冷たさだった。線の上を指でなぞる。一本目から七本目まで、線は冬の間ずっと、変わらずそこに並んでいた。

 ソウは板を住居の外に運び出した。


 外の光の下で見ると、線は屋内で見たときよりも輪郭がはっきりしていた。

 ソウは板を抱えたまま、テツの作業場の方へ歩いた。

 テツは作業場の前にもう座っていた。冬の間に削り終えた木片の山を脇に置き、新しい粘土を捏ね直している。春の最初の朝の手の動きは、冬の終わりのそれと続いていた。テツはソウが近づくと顔を上げ、ソウの腕の中の粘土板に目を留めた。


「持ち出したか」


 テツが言った。


「焼くかと思って」


 ソウは答えた。

 テツは捏ねる手を止めて、粘土板を受け取った。両手で板の重みを確かめ、線の上を視線でなぞる。指は線に触れなかった。


「窯はもう開けた」


 テツが言った。

 作業場の奥の窯を、顎で指す。冬の間は覆いで塞いでいた窯の口が、今朝、片側だけ覆いが外されていた。覆いの下の灰がうっすら見える。春の最初の火を、もう入れる準備が始まっていた。


「今日焼くか」


 テツが続けた。

 ソウは少し考えた。


「いや、今日じゃない」


「うん?」


「焼くなら、もう少し線を増やしてからだ」


 ソウは粘土板をテツの手から受け取り直した。


「七本でも足りる。だが、足りるだけでは固定する意味が薄い」


 テツは頷いた。何か言いたいような顔だったが、口にはしなかった。代わりに、捏ねていた粘土の上に手を戻し、また指の腹で押し始めた。

 ソウは粘土板を抱えて作業場を離れた。

 春の最初の朝に、焼くと決めなかった。焼くと決めなかったが、運び出した。運び出したことが、冬の終わりとの違いだった。



 第三畑の縁にトウカがいた。

 膝の脇に小さな籠を置き、籠の中に去年の終わりに干した穂が入っている。穂の根元に細い皮ひもが結ばれているものが、いくつか混じっていた。前の秋に、ソウが太い穂を選んで結んだ印だった。トウカはその皮ひもの結ばれた穂だけを手で選り分けて、別の籠に移していた。


「数は」


 ソウが聞いた。


「四十二」


 トウカが答えた。


「去年より九多い」


 ソウは頷いた。

 九多いのは、去年印を増やしたからだった。去年の春は三十三本だった。その三十三本から穫れた穂のうち、特に大きい四十二本を選んで秋に印をつけた。その四十二本の種を、今年の畑に蒔く。

 トウカは選別を続けた。皮ひもの結ばれた穂を一本ずつ手に取り、根元の粒を指で外す。外した粒は別の小さな革袋に入れる。粒は他のものよりわずかに大きく、形が揃っていた。


「今年はこれを別の畝に蒔く」


 ソウが言った。


「今までと同じか」


「同じだ。だが、今年は畝の場所を決めておく」


 ソウは第三畑の北縁を指した。


「北縁の二列。去年とは違う場所にする。去年と同じ場所だと、土が痩せる」


 トウカは頷いた。

 頷いてから、革袋の口を一度結び直して、もう一度開けた。

 革袋の中の粒は、四十二本分。畑のどこに、どの粒を蒔いたか。それを覚えておくのは、今までトウカの頭の中だった。だが、四十二本になると、頭の中だけでは少し怪しい。

 トウカは何も言わずに革袋を膝の脇に置いた。


 ソウはそれを横目で見た。

 頭の中で、七本の線が動いた。



 空き地に戻ると、移住者たちが住居の前に出始めていた。

 ベンは住居の脇で柵縄の切れ端を結び直している。冬の間と同じ姿勢だった。だが、今朝は息の白さが少なく、結ぶ指の動きがいつもより速かった。タルがベンの隣で柵の丸太を一本、立てかけ直していた。冬の間に少し傾いた一本を、春の畑作業に入る前に直しておく。二人とも、何も言わなかった。


 住居の北側の革幕から、カヤが出てきた。

 カヤは空き地の中央には行かなかった。代わりに、ソウが朝に行ったのと同じ方角——丘の北の縁に向かって、ゆっくり歩いた。


 ソウはその背中を見た。

 カヤは丘の北の縁まで歩き、薬草畑の南端の畝の縁にしゃがんだ。

 ソウが朝に見たのと同じ芽の上に、カヤの視線が落ちていた。カヤは芽に触れなかった。しばらく、芽の上にしゃがんだまま動かなかった。それから立ち上がり、来た道を戻った。空き地に戻る途中で、カヤの目はソウの目に一度合った。

 カヤは小さく頷いた。

 ソウも頷き返した。

 言葉は、二人とも交わさなかった。


 ガンが薪の山の脇にいた。冬の間と同じ場所だった。だが、今朝は薪を選ぶ手の脇に、もう一つ別の手があった。ハクだった。ハクはいつものようにテツの作業場の方に立っていたが、朝の早い時間だけは兄のそばで薪を運ぶ役を引き受けているらしかった。兄弟は短い言葉も交わさず、薪の長さを揃えて重ねていた。



 ソウは粘土板を抱えたまま、丘の縁にもう一度戻った。

 日が高くなり、空き地の動きがさらに広がり始めていた。粥の鍋の脇で椀を並べるキイの背中。柵の前のベンとタル。薪を重ねるガンとハク。畑の縁で粒を選ぶトウカ。鍋の縁の薬草を揉むカナ。

 三十七人の春の朝が、地面の上で重なり、離れ、また重なる。

 冬の朝と同じ並びの動きだった。だが、土の匂いが違った。


 ソウは粘土板を丘の縁の草の上に置いた。

 線は七本のままだった。

 今日、焼くと決めなかった。だが、今朝、住居の外に持ち出した。外の光の下で、線の輪郭は屋内で見たときよりも、はっきりしていた。

 持ち出したことが、形の一手目だった。

 ソウは小さく頷いた。

 頷きは、誰にも見せないものだった。


 南の風が、もう一度、丘を渡って北へ抜けた。

 風の中に、土の匂いがさっきよりも濃く混じっていた。

 春の畑に、もうじき入る。

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