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転生先は夜明け前 ―石器時代から文明を拓く―  作者: 夜摩 高嶺
第一部 結実の章

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第65話「旅の商人」

「これは——見たことがない」


 見張り台から、ヒガの声が低く降ってきた。

 軽口の語尾はなかった。最近の数日で、ヒガの声には軽口の語尾がない時間の方が多くなっていた。


 ソウは空き地の中央で陶器大壺の縁の欠けを指で確かめていた。秋深まりに入って三日目、夜のうちの薄い氷で大壺の口の縁が一箇所、わずかに白く曇っている。長く使えば、こういう細かい損耗が増える。来年の春までに新しい縁を内側に補強する必要があった。

 ヒガの声に、ソウは手を止めた。


「一人で歩いてくる」


 ヒガが続けた。


「背に大きな袋」



 ソウは梯子を登った。

 見張り台の床に出ると、ヒガが南の斜面の方に視線を固定したまま、片手を柵の上に置いていた。指先が柵の丸太の上の薄い氷の跡に触れている。氷はもう溶けていたが、触れた指の跡だけが白く残っていた。


 ソウは柵の隙間から斜面の方を見た。


 男が一人、斜面の中ほどをゆっくり登ってきていた。

 背が中ほど。肩から地面まで届く大きな革袋を、両肩に紐で背負っている。歩みに迷いがない。だが急いでもいない。袋の重さで肩は下がっているが、首は前に落ちていない。歩く者の歩き方ではなく歩き慣れた者の歩き方だった。

 顔は陽に焼けて、頬から顎にかけて深く線が刻まれている。首に、革紐に通した貝殻の首飾りが下がっていた。貝殻の白さが、秋の光の下で、薄く青みがかって見えた。


「敵じゃないか」


 ヒガが小声で言った。


「分からん」


 ソウは答えた。


「だが、ドルクの形でもベンの形でもない」


「三つ目の形だな」


 ヒガが頷いた。


 あの夜の二十人と、半月前の白い布の四人と、今の一人。空気の入り方がそれぞれ違った。今の男は、こちらを警戒させない距離で歩き、自分が見られていることを当然のように歩いていた。



 ガランが空き地の中央で立ち上がった。

 立ち上がる動きはいつもより少し慎重だった。膝に手は当てなかった。当てるかわりに、一度息を吸ってから立った。ソウは見ていない振りで、見ていた。


「お前が話せ」


 ガランは短く言った。今回も委ねの声だった。


 ソウは柵の南の側に立ち、丸太の上に両手を置いた。あの夜と、半月前と、同じ位置だった。だが今日は、声の最初の形を確かめてから出した。


「お前は誰だ」


 男は斜面の三分の二の高さで足を止めた。両手を体の脇に下ろし、ゆっくり丘の上を見上げた。それから、背の袋を地面に下ろした。袋の中で何かが鈍くぶつかる音がした。

 男は袋の脇にしゃがみ、紐を一本ほどき、袋の口を半分開けた。半分だけ。中身の全部は見せない。


「ハミと呼ばれている」


 男の声は中ほどの高さで、淡々としていた。


「南の海から来た」


 ハミはそれだけ言って、ソウの返事を待った。


「何をしている」


「物を持ってきて、物と替える」


 ハミは短く答えた。


「斧の刃に使う石がある。海の貝がある。赤い色の塊がある。干した魚がある」


 ハミは袋の中から、それぞれを一つずつ取り出した。


 黒曜石の片が十数個。手のひらより少し小さく、縁が鋭く割れている。重ねて置くと、ガラスのぶつかる音に近い、乾いた高い音が立った。

 貝殻が一束。革紐で結ばれ、白と薄桃の縞模様が走っている。一つの貝の表面が見たことのない曲線で巻いていた。北の谷でも東の谷でも、これに似た貝を集落で見たことはない。

 赤い色の塊が一つ。土を固めたような見た目で、表面に粉が浮いている。指で触れたら、その粉が指紋の谷間に入り込んで、なかなか落ちないだろう種類の赤さだった。

 干した魚が、藁で結ばれた一束。塩の白い結晶が魚の表面に薄く張りついていた。塩。丘の上で誰も持っていなかったものだった。


 空き地の柵の内側から、テツがこちらに歩いてきていた。

 テツは柵越しに、地面の上の黒曜石の片を見ていた。見ている目がすぐには言葉に変わらない。テツが言葉を出す前にハミが顔を上げた。



 ハミの目が柵の内側を一度なめた。


 空き地の中央の陶器大壺三つ。粉挽きの石臼。薪小屋の脇の薪の積み方。住居の屋根の藁の編み目。畑の方角の穂の刈り終わった畝。倉庫の脇の薬草を干す紐。それから、焚き火脇に置かれた誰の手も触れていない椀。

 ハミの目はそれを順に見た。順に、というよりは、一つずつ留めた。


 ハミの口がわずかに開いた。


「お前たち——これを自分で作ったのか」


 ハミの声はそれまでより少しだけ低くなっていた。驚きを押し殺した声ではなく、関心が押さえつけたままの声だった。


 ソウは答えた。


「作った」


「全部か」


「全部だ」


 ハミはしばらく動かなかった。

 動かないまま、もう一度、柵の内側を目で順に確かめた。陶器の縁の手づくりの跡を見て、石臼の擦り減り方を見て、住居の藁の編み目の角度を見た。


「他で——見たことがない」


 ハミは低く言った。


「南の海岸でも東の谷でも、北の方の集落でも。これを全部一つの場所で作っている者は見たことがない」


 ハミは続けなかった。

 続けない代わりに、もう一度ソウの顔を見た。ソウは答えなかった。答えるべき形をまだ自分の中に持っていなかった。

 ハミの言葉の中の「他」と「ここ」の境目が、ソウの頭の中でしばらく揺れた。



 テツが柵の隙間から、低い声を出した。


「その、石」


 テツの声には無理がなかった。職人が職人の話をする時の平らな声だった。


「触れるか」


 ハミは頷いて、黒曜石の片を一つ、柵の隙間越しにテツの方へ差し出した。テツはそれを受け取り、両手で持って、光に透かした。割れ口の鋭さを爪で確かめ、片面と反対の面を順に親指の腹でなでた。

 テツの口が何かを言いかけて、止まった。それから、もう一度開いた。


「これは——」


 テツはそれだけ言った。

 あとの言葉は出なかった。出さなかったのではない。出る形を持っていなかった。

 黒曜石の片はテツの掌の中で秋の光を反射していた。これまでテツが一人で削り続けてきた試作の矢じり五本分、もしかするとそれ以上を、まとまった形で目の前に置かれていた。


「いくつだ」


 ガランが横から低く聞いた。


「十二」


 ハミが答えた。


「これと、それを替える」


 ハミは袋の脇から、別のものを指で示した。袋の中身ではなく柵の内側を指していた。


「お前たちの粒を少し。それと、その薬草の束を一つか二つ」


 ハミの目は薬草を干す紐の方を見ていた。指の動きが慣れている動きだった。薬草の方を選んだのは、海岸沿いでは育たない種類の葉だからかもしれない。あるいは、別の集落で「これは効く」と言われる先がすでに頭の中にあるのかもしれない。ソウは、そのどちらでもありうると思った。ありうるが、今は聞かなかった。



 ソウは振り返って、カナの方を一度見た。

 カナは粥の鍋の脇で、こちらの方を見ていた。視線が合うと、カナはわずかに頷いた。それから薬草の干し紐の方へ歩いていき、束の中から二つを取った。一つは苦い葉、もう一つは丸い葉。傷の根の束は取らなかった。

 粒は陶器大壺の三つ目から、ノタが小さな革袋に半分ほど詰めた。三つ目の余剰の中から出した量だった。あの揉めごとの粒の、その先の使い道だった。


 交換は柵の門の前で行われた。

 ベンの長子のジンがソウの後ろで一歩離れて見ていた。十五の目が交換の手順を覚えている顔だった。


「十二で粒と薬草、これだけだ」


 ソウは言った。


「今回はおまけだ。次から数えよう」


 ハミは黒曜石の十二片を柵の内側に置いた。受け取ったのは粒の半袋と薬草の束二つ。重さの釣り合いはソウの頭の中ではまだ確定していなかった。だが今回は形を作ることが先だった。


 ハミも頷いた。


「次から数えよう」


 ハミの声には軽い笑いの気配があった。あった、というほどではない。あった気がする、程度の。だがハミは、ソウの言葉の中の「次」をちゃんと受け取っていた。



 ハミは袋の口を結び直し、肩に背負った。

 背負う動きは、来た時と同じく、慣れた動きだった。袋の重さは少し減っていたが、ハミの首は前に落ちなかった。


「ここを何と呼ぶ」


 ハミが最後にそれだけ聞いた。


「ガラの丘」


 ガランがソウより先に答えた。


「ガラの丘、か」


 ハミは口の中で一度繰り返し、それから頷いた。覚えた、という頷きだった。


「また、来る」


 ハミはそれだけ言って、踵を返した。

 来た時と同じ斜面を来た時と同じ歩幅で降りていく。袋の中で、何かが鈍くぶつかる音がまた聞こえた。

 ハミの背中は丘の中ほどまで降りたところで、林の縁に向かって角度を変えた。南西の方角だった。林の手前でハミは一度も振り返らなかった。


 商人は、また来ると言って去った。


 ソウは柵の上から、ハミの背中を見えなくなるまで見ていた。

 見えなくなってから、視線を空に上げた。ハミが去った方角の空に雲が動いていた。秋の高い雲ではなく、もっと低く、もっと厚い種類の雲だった。

 冬の入り口の雲だった。


 テツがソウの隣に来た。掌の上に、まだ黒曜石の片が一つ載っていた。十二のうちの一つ。テツは何も言わなかった。言わないまま、もう一度、片の縁を親指の腹でなでた。

 その指の動きをソウは横から見ていた。テツがこの一年、自分の畑仕事の合間に少しずつ、川原の小石の中から黒曜石を探していたことをソウは知っていた。見つかる時もあったが、見つからない日の方が多かった。試作の矢じり五本はその積み重ねの先にあった。

 ハミが袋から取り出した十二片は、その五本分のさらに先を一度に丘の上に置いていった。


 テツがようやく口を開いた。


「これで、いくつ作れる」


 テツの声は計算する者の声だった。


「十二だ」


 ソウは答えた。


「十二の矢じり。試作ではなく、本物の」


 テツは頷いた。頷きの動きの中に、まだ表に出していない感情の粒があった。


 ガランが柵の脇で短く息を吐いた。


「形が——一つ、増えた」


 ガランの声は低かった。

 ソウは頷いた。頷きながら、頭の中で、その「形」を何と呼ぶかをまだ決められないでいた。

 ハミが置いていったのは黒曜石十二片だけではなかった。黒曜石を置いていったということ自体が、丘の上に「次に来る誰か」を立たせていた。次に来るのはハミかもしれないし、ハミの口から「ガラの丘」の名前を聞いた別の誰かかもしれない。

 ガランの言う「形」がその「次」を含んでいることを、ソウは感じていた。

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