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転生先は夜明け前 ―石器時代から文明を拓く―  作者: 夜摩 高嶺
第一部 結実の章

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第62話「余った穀物」

 朝の粥の鍋は、いつもより重そうに見えた。


 カナが鍋の縁に手を添えて、杓を差し入れる。掬う時の腕の角度が、昨日までと違う。鍋の中身が深い。底に届く前に、杓の中で粒がごとりと音を立てた。

 昨日の刈り入れで運び込まれた穂が夜のうちに脱穀板にかけられ、半分ほどが粥の鍋へ回ったのだろう。残りは陶器大壺の三つ目に入ったはずだった。


 粥の匂いに、いつもより粒の甘い香りが混じっていた。新穀の匂い。秋の朝に初めて立ち上る匂いだった。


 順番に椀が回っていく。

 ソウは輪の北寄りに腰を下ろし、自分の番を待った。


 カナの杓がノタの椀に粥を注ぐ。一杯目で椀の縁まで届いた。普段なら椀の半分の高さで止まる量だ。

 ノタは右の足を引きずる癖がある。去年の冬に石にぶつけて、骨は繋がったが筋が引きつったままだった。畑には出るが鎌は持たない。束を運ぶ役で、運ぶ距離もほかの者の半分ほどに割り当てられている。


「働いた者の椀だ」


 声が、輪の南側から飛んだ。ヒガの声だった。軽口ではない。低く確かめるような声。


 ノタの椀を受け取る指が、わずかに止まった。受け取りはしたが、すぐに膝の上には置かない。湯気が立つ椀を、両手で胸の前に保ったまま、ノタは何も言わなかった。

 ヒガの言葉は、誰かを責める形ではなかった。ただ、新しい盛り方に新しい呼び方を当てた、それだけの一言だった。だがその一言は、空き地の朝の空気の中に、これまでなかった輪郭を一つ加えた。盛りが多い椀。それを「働いた者の椀」と呼ぶことができる。呼べるということは、呼ばれない椀もあるということだった。


 アズが眉を寄せた。



 昼前に分配の場が空き地で開かれた。

 刈り入れ二日目に入る前に、昨日分の粒の振り分けを決めるためだった。陶器大壺の三つ目に入った粒を誰がどれだけ受け取るか。普段ならガランが短く決めて終わる話だった。

 今日は誰も先に口を開かなかった。


 大壺の脇に、ガランが立っている。腕を組み、輪の中央には立たない。

 その輪の外側に、ソウがいた。今日は束ねる組ではない。観察に回ると朝のうちに自分で決めた。鎌も藁紐も持たず、空き地の縁の柵の杭に背を預けて立った。


 最初に口を開いたのは、サガだった。


「足を悪くしたノタは半分でいいだろ」


 短い断定だった。聞かせる相手は輪の全員。だが目はノタの方を見ていない。粒の入った大壺の縁を見ている。

 サガの隣でムロが瞼を半分閉じた。否定も肯定もしなかった。


「半分はおかしい」


 アズの声が即座に返した。

 眉が朝より深く寄っている。膝の前に、ハナがしがみついていた。今年の夏に乳離れしたばかりの子だ。アズが片手を子の頭に置いたまま、続けた。


「子のいる者は、二人分必要だ。子は働かないが、食う。食わなければ育たない」


「子はその子の親の取り分から食えばいい」


 サガが返した。


「親の取り分が、半分の半分になるのか」


 アズの声が少し高くなった。


 輪の中で息が浅くなる音が複数あった。

 ナツが、椀を膝に置いた手を一度緩めて、また握った。トウカが、隣のサガの肘を一度見て、何も言わずに目を伏せた。ノタは、自分の取り分の話をされているのに、口を挟まなかった。挟む位置を持っていない顔だった。


 ガランは動かなかった。

 顔は輪の方を向いている。耳は両方の声を聞いている。だが口は開かなかった。腕を組んだ姿勢のまま、足の重心も一度も移していない。

 族長が裁かない——ということだった。



 ソウは柵の杭から背中を離さなかった。

 頭の中でバアがそこに立っていたら何と言ったかを想像していた。


 バアなら、まず誰の顔も見ない。火の方を見て、唇の端だけで小さく笑う。それから、ぽつりと一言だけ言うだろう。

 昔まだ畑のなかった頃に、似た場面が一度だけあった。狩りで取ったうさぎを誰がどの部位を食うかで、ゴウザとほかの男が低い声で揉めた夜だ。バアはその時、火の方を見たまま「皮は最後に焼いた方が縮まない」とだけ言った。誰の取り分の話もしていなかった。だが、その一言の後、男たちは取り分の話を続けることができなくなり、誰からともなく座り直し、また別の話を始めていた。

 バアの言葉は——決まりごとを作らなかった。だが、決まりごとを作る前の人の肩の力を抜く役をいつもしていた。


 バアはもういない。

 肩の力を抜く役は空席だった。焚き火脇に置かれた椀のように、空いたままそこにある。


 ソウは口を挟まなかった。

 挟む形をまだ持っていなかった。サガの言い分にもアズの言い分にも、片方を切って捨てる根拠がない。両方とも正しい。両方の正しさが向き合うと、火の輪の温度が上がる。それはあの吹雪の翌朝にムロとガランの間で一度起きたのと形が似ていた。

 今日はムロもガランも動かない。



 ヨルが、口を開いた。


 昨日の夕、焚き火の輪で口を開きかけて、また閉じた声だった。一晩寝かせて、今日もう一度開いた。

 輪の中で二、三人の顔がヨルの方を向いた。ナギから来た者が分配の話に口を出すのは初めてのことだった。


「東の谷では」


 ヨルは一度言葉を切った。喉に何か引っ掛かるものを、咳で押し戻すような間。


「働く者と病者で分けた」


 短い文だった。続きはすぐには出てこなかった。

 ヨルの目はサガでもアズでもなく、大壺の方を見ている。粒の入った大壺。三つ目の、まだ縁まで満ちていない大壺。


「働く者は多く。病者は、別の数え方で。働けるのに働かない者は、外した」


 言い終えて、ヨルは口を閉じた。すぐに目を伏せる。自分が言った言葉の重みを、自分で計り直している顔だった。


 輪の中で誰も即座には返さなかった。

 サガが、ヨルの方を一度見て、目を粒の大壺に戻した。アズが、ハナの頭から手を離し、その手を膝に置いた。指の関節が白い。

 ガランが、ヨルの方を見た。見ただけで、何も言わない。だが、見たという動作が、ヨルの言葉を「聞いた」という意味を持っていた。


 ヨルの言葉は答えではなかった。

 別の場所での形を一つ置いただけだった。「ここの形はこうだ」ではなく、「あちらの形はああだった」と。置かれた形は輪の真ん中で、まだ温まらないまま立っている。

 ソウは置かれた形をじっと見ていた。東の谷では、その分け方で集落が立っていた。ナギ本人が一度この丘で言った言葉も頭の中に残っている。「ここのやり方は、東の谷とは違う」。違うと分かった上で、ヨルは今、別の形を一つ置いた。置いただけで、押しつけてはいない。それは丘で一冬越した人間の口の運び方だった。



 分配はその日のうちには決まらなかった。

 ガランが最後に短く言った。


「今日はいつもの分で出せ」


 いつもの分、というのは去年までの分配だった。働きの差を量の差にはしない。子のいる者にも足の悪い者にも、同じ量を渡す。陶器大壺の縁まで満ちた粒は、その分配で計れば確かに余る。

 余る分の行き先は決まらないまま、大壺の中に残ることになった。


 空き地から人が散る時、サガがアズに何か小声で言いかけて、口を閉じた。アズもサガを一度見て、視線を逸らした。二人とも、火の輪の中での声の高さを自分の中で量り直している顔だった。


 ソウは柵の杭から背中を離し、丘の北縁へ歩いた。

 バアの薬草畑の畝の前にしゃがみ、苦い葉の根元に指を差し入れる。土はまだ湿っていた。今朝の水やりが効いている。

 葉の裏に虫はいなかった。畑は人の言い争いとは無関係に、ただそこで育っている。



 夕方、焚き火の輪でソウはノタの隣に座った。

 ノタは今夜もいつもの分の粥を膝に置いて、ゆっくり啜っていた。話しかけはしない。ただ隣に座っただけだった。

 火の向こうでヨルが椀を傾けている。今朝までと座る位置は変わらない。けれども背中の角度がわずかに違っていた。少しまっすぐだった。


 サガとアズは火を挟んで反対側にいる。同じ輪の中だが、視線は交わらない。


 ガランが焚き火の脇に座った。

 いつもの場所、いつもの姿勢。だが今夜、椀を口に運ぶ間隔がいつもより長かった。一口啜って、しばらく火を見て、また一口啜る。考えている時のガランの飲み方だった。


 ソウは明日の朝にまた同じ光景が始まることを、頭の中で見ていた。

 粥の鍋。誰の椀にどれだけ盛るか。今朝のヒガの一言が明日は別の誰かの一言になる。形は一晩寝かせれば自分から育っていく。誰かが「働いた者の椀」と言えば、別の誰かが「子のいる者の椀」と言う。言葉は置かれた瞬間から場所を取り、場所を取った言葉は輪の真ん中に座って動かなくなる。


 誰かが、ぽつりと言った。


「明日は、誰が決めるんだ」


 ソウの声でも、サガの声でも、アズの声でもなかった。

 ノタの声だった。

 膝の上の椀を見たまま、ノタは続けなかった。

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