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転生先は夜明け前 ―石器時代から文明を拓く―  作者: 夜摩 高嶺
第一部 播種の章

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第60話「ガラの丘、ここに在り」

「ソウ」


 振り返ると、テツがいた。

 手にしていた椀を、空いた左手で揺すって見せる。中に湯気が立っている。粥の匂い。カナが鍋の底に残っていた分を、テツに持たせたのだろう。


「飯、忘れてんだろ」


 テツの声には、いつもの軽さが戻っていた。焚き火の前で泣いた跡は、もう声には残っていない。


「忘れてた」


「だろうな」


 テツが隣に立ち、椀をソウに渡す。受け取った椀は、温い。テツが笑って、自分の足元に何か置いた。もう一つ椀があった。テツの分。住居から取ってきたのではなく、最初から二つ持って上ってきたのだ。

 二人で、丘の縁に並んで座った。


 しばらく、何も言わなかった。

 テツは粥を一口啜り、舌で苦い葉を確かめる顔をする。それから二口目を啜り、息を吐いた。


「カナの粥、苦いな」


「バアの薬草が入ってる」


「知ってる。毎朝食ってんだから」


 テツがそう言って、少し笑った。笑い方は変わっていないが、笑った後の沈黙の長さが、前と違う。沈黙の中にバアの場所がある。それをテツも、感じている。


 粥の温かさが、椀を持つ掌に伝わってくる。ソウも一口啜った。苦い葉の味が舌の奥に広がり、ゆっくりと喉を落ちていく。腹の底が温まる。


「……変わったな」


 テツが言った。眼下の集落を見ながら、誰に言うでもない声で。


「変わった」


 ソウは答えた。同じ景色を見ていた。


「お前のおかげだ」


 テツは粥に目を落としたまま、続けた。声は低く、軽口の語尾ではない。


「お前が種を蒔き始めた時、俺は笑ったんだ。覚えてるか。木の実を拾った方が早いだろ、って」


「覚えてる」


「あの時の俺は、あの時の俺だった。今は、違う」


 テツが顔を上げ、ソウの方を見た。焚き火の光は届かない。月明かりだけが二人の横顔を照らしている。


「お前のおかげで、ここまで来た」


 ソウは、首を横に振った。


「俺だけじゃない」


 風が、二人の前を通り過ぎていく。畑の穂が鳴る。


「テツが道具を作った。鎌も、鍬も、矢じりも。テツの手が無ければ、種を蒔くだけで終わってた」


「……」


「リアが守った。柵を立てる時も、見張りを回す時も、リアがいたから、こっちは畑に出られた。獣も、ナギも、リアが先に見ていた」


 テツが粥の椀を膝に置いた。


「ガランが決めた。動くべき時に動かないと決めて、留まると決めた。族長があの判断をしなければ、俺たちは今頃、もう次の場所に向かっていた」


 ソウは一度息を吸い、続けた。


「バアが、支えた。腹を下した者にも、傷を負った者にも、バアの薬草が要った。バアがいなければ、人が減っていた。冬を越せなかった年もあったかもしれない」


 テツが、頷く。月明かりの中で、頷きの動きだけが見えた。


「全員で——ここまで来た」


 ソウの声が、丘の縁から南へ流れていく。風がその声を畑の穂のざわめきの中に運んでいった。


 テツが鼻を鳴らして、笑った。


「相変わらず、格好つけるのが下手だな」


「うるさい」


 二人で、笑った。

 笑い声が丘の上で重なり、夜の中に散っていく。テツの肩がソウの肩に一度ぶつかり、また離れる。粥の椀が膝の上で揺れた。


 その時、丘の下から声が飛んできた。


「何笑ってるんだ、二人で!」


 リアの声だった。柵の上に立つ影が手を振っている。見張り台の方角ではなく、空き地寄りの柵の角。あの場所から声を上げると、ちょうど丘の上まで届く。


「何でもない!」


 テツが叫び返した。


「何でもないなら、降りてこい! 飯だぞ!」


「もう食ってる!」


「もう一回食え!」


 ソウは思わず吹き出した。テツも噴いた。リアの声には、いつもの張りが戻っている。バアが亡くなった日、声を出さずに頬の涙を拭わなかったあの目の前で、リアは今、丘の下から怒鳴っている。

 二人は椀の残りを啜り、立ち上がった。


 丘を、降りた。


 空き地に近づくと、焚き火がもう一度焚き直されていた。一度静まった火を、ガランが薪を足して起こし直したのだろう。橙色の光が空き地の中央で揺れ、その周りに、族民たちが集まっている。

 陶器の鍋が火の上に据えられ、湯気が夜空に上っている。粥の匂い。バアの薬草の青い匂いが、その湯気に混じっていた。


 カナが鍋の脇で、椀を配っていた。

 膝の横に、薬草の束がある。今夜のバアの分。鍋の中には既に二枚入れてある。残りの一枚は、明日の朝の分か、あるいは——カナだけが知っている誰かの分か。


「ソウ、テツ、遅い」


 カナが顔を上げた。笑っている。泣いた跡はもう消えている。


「もう食ってきた」


 テツが言いながら、椀を差し出した。


「もう一回食って」


 カナがその椀に、新しい粥を注ぐ。温かい湯気がテツの顔を白くした。

 ソウも椀を差し出した。カナの杓が動き、椀の中に粥が満ちる。バアの薬草の苦い匂いが、湯気と一緒に立ち上ってくる。


「温かい」


 ソウが言うと、カナが頷いた。


「温かいの。バアもね、温かい粥が好きだったから」


 カナは、一度鍋の方を見た。鍋の縁にバアの薬草の束が置かれている。鍋の脇には、椀が一つ、誰の手も触れずに置いてあった。

 空いた席。

 誰の前にも、その椀は置かれない。ただ、そこにある。


 ソウは、その椀を見た。

 空いている。だが、そこにバアの場所がある。場所は空いたまま、なくならない。


 焚き火の輪を、見回した。


 ガランが焚き火の脇に座っていた。腕を組んで、火を見ている。膝の上に、何も置いていない。族長として座る時の、いつもの形。

 ガランの隣にゴウザがいた。膝の前に槌を置き、椀を両手で包んで、湯気に顔を当てている。槌の先には、まだ昼間の柵の修繕の土がついている。

 その向こうにムロとサガが並んでいた。ムロは椀を膝に置き、目を閉じている。眠っているのではない。閉じた瞼の下で、何かを噛み締めている。サガがその横で、ムロの椀の中の粥が冷めないように、自分の手で椀を包んでいた。


 リアが柵の方から戻ってきて、火の輪の外側に立った。座らない。立ったまま椀を受け取り、一口啜って息を吐く。リアはいつも、座らない。

 テツがソウの隣に腰を下ろし、ヨルとイサとハルとトトが、火の反対側で椀を傾けている。ヨルの顔色は、もうすっかり戻っていた。ナツとトウカが幼い子の口に粥を運び、ノタとアズが二つ目の椀を取りに鍋の方へ歩いていく。ダイとヒガが何か言葉を交わし、ミラが笑った。

 二十六の顔。

 ソウを入れて、二十七人。


 全員が、ここにいた。


 ソウは椀を膝の上に置き、しばらく動かなかった。掌に椀の温かさが残り、その温かさが腕を伝って胸の奥まで届く。

 頭の中に、やらなければならないことがまだ並んでいる。文字。決まりごと。交易。記録。あれもこれも、まだ足りていない。


 だが——今日は、ここまでにしよう。


 ソウは粥を一口啜った。バアの薬草の苦い味が、舌の上に広がる。喉の奥に通って、腹の底が温まる。

 風が南から吹いてきた。畑の穂を揺らし、丘を渡り、焚き火の煙を北に流す。煙の中に、土の匂いと、薬草の匂いが混じっていた。

 その匂いの中に、バアが笑っている気がした。


 焚き火が、ぱちりと爆ぜた。

 火の粉が夏の終わりの夜空に上がり、星の手前で消える。

 空き地の中央で、二十七人の影が地面の上で重なり、離れ、また重なる。


 ガラの丘。

 ここに、在る。

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