第59話「丘の上」
輪が解けた。
一人、二人と焚き火の前を離れていく。テツがカナの肩に手を置いて歩き出し、カナが小さく頷いて並ぶ。ゴウザが足元の槌を拾い上げ、片手で肩に担いだ。ヨルとイサが住居の方へ消え、ハルとトトがその後に続いていく。ナギから来た四人が揃って同じ住居に入っていくのを見届けてから、ムロとサガがゆっくりと立ち上がった。二つの白い頭が並んで、闇の中に溶けていく。
ムロの背中が見えなくなるまで、ソウは動かなかった。
さっきのムロの声が、まだ耳に残っている。『わしの、間違いだった』。あの震える声。先祖の教えを握りしめていた拳を開くのに、ムロは半年以上かかった。半年の間ずっと、ムロは黙って手を貸し、目で確かめ、自分の中で答えを出していた。
ソウも立ち上がる。膝が草を離れた時、座っていた場所の地面がまだ温い。体温が土に移るほど長く、あの焚き火の前にいたのだ。
住居には向かわなかった。
足が、丘の東の縁に向いている。バアの盛り土がある方角。夜風が首筋を撫で、焚き火で温まった汗が一瞬で冷える。背中から熱が剥がれて、夜の冷たさが代わりに張り付く。
草を踏む自分の足音だけが聞こえる。虫の声は林の奥に退き、丘の上は静かだった。
縁に立つと、眼下に集落が広がっていた。
焚き火の残り火が空き地の中央で赤く燻り、薄い煙が真っ直ぐに上っている。風が止んだ一瞬だけ煙が垂直に立ち、すぐにまた南風に押されて北へ流れた。
五棟の住居の屋根が、月明かりの下に並んでいる。一棟目は柱が太く不揃いで、五棟目は壁の継ぎ目が細かい。最初と最後で技が違い、手が覚えたことが形に出ている。最初の一棟を建てた時はゴウザが何度も柱を引き抜いてやり直し、テツが怒鳴り、リアが笑った。五棟目を建てた時には、声を出す必要すらなかった。手順を全員が知っていた。
住居の隙間から煙が細く上がり、中で誰かが寝支度をしているのが見える。薪の燃える匂いが風に乗って、丘の縁まで届く。あの匂いは二年前にはなかった。移動しながら暮らしていた頃、焚き火は一夜で消えるものだった。今は消えない。毎晩、同じ場所に火が灯る。
南に目を移すと、三つの畑が斜面に段を作って広がっていた。去年の三倍になった面積。月の光を受けて穂が銀色に揺れ、風が通るたびに、波が畑の端から端まで走っていく。
最初に種を蒔いた第一の畑は、一度全滅した。水のやりすぎで種が腐り、何も残らなかった。あの時の、土を掘り返した指先の感触をまだ覚えている。ぬるぬると崩れる種の残骸。匂い。失敗の匂いだった。
だが、蒔き直した。排水の溝を先に掘り、水の逃げ道を作ってから、もう一度種を入れた。第二の畑は川の近くに作り、第三の畑はさらに南へ広げた。三つの畑があの穂の波を揺らしている。あと半月もすれば、刈り入れが始まる。
西に目を向ける。丸太の柵が、丘をぐるりと囲んでいる。二段、四十本ずつ。ゴウザが一本ずつ地面に打ち込み、リアが縄で結わえ、ムロが抑え木を足で踏んだ。あの柵のどの一本にも、誰かの手の跡がある。
見張り台の上に、人影が見えた。今夜の交代要員。夜空を背に座る影の横で、槍の先が月光を細く弾いている。あそこから丘の全方位が見渡せる。獣が来れば警報板を叩き、乾いた音が丘に響く。一年前まで、獣の接近を知る方法は見張りの声だけだった。今は仕組みがある。
北の端には、陶器の大壺が並んでいる。中に穀物が密閉されている。来年の春の種蒔きまで持つだけの備蓄。壺の表面が焚き火の残り光を鈍く返し、赤茶色の肌が夜の中に浮かんでいる。窯で焼いた壺。最初に焼いた壺は割れた。二番目も割れた。三番目でようやく形になった時、テツが「壺だ」と笑った。あの笑い声を、ソウは覚えている。
二十七人。
バアがいた頃は、二十八人だった。
一人、減った。あの白い髪と細い指と、澄んだ目。薬草の匂いを纏った声。もう、ここにはいない。だが、カナの膝の上には、いつも薬草の束がある。バアの薬草畑は丘の北縁で、青い葉を揺らし続けている。
全てが——変わった。
ソウは丘の縁に立ったまま、息を吐いた。
吐いた息は白くならない。夏の終わりの空気はまだ温いが、風の中に秋の気配が混じり始めている。あと二ヶ月もすれば、冬が来る。去年の冬は越せた。今年も越せるだろう。壺の中の穀物が、それを保証している。
農業は、根を下ろした。三つの畑から穀物が採れる。
定住は、ガランが宣言した。もう移動しない。ここがガラの民の地だ。
陶器がある。食糧を蓄えられる。柵がある。獣を防げる。交易の芽が出た。グラムの部族との間に、細い糸が一本だけ繋がっている。
ここまで、来た。十六の夏に種を握った日から数えて、二年と少し。
だが——足りていない。
ソウは拳を握り、開いた。指の腹に、土の感触が残っている。今朝、バアの薬草畑に水をやった手。
バアの知恵は、バアの頭の中にしかなかった。どの草がどの病に効くか、どの根を煮れば熱が引くか。カナが引き継いだものもある。だが、カナの記憶もまた、一人の頭の中にしかない。カナが何かあれば、その記憶も一緒に消える。
言葉は風に流れて、忘れられる。バアと一緒に消えたものが、どれだけあったか。北の山で死んだ者たちの名前も、バアの母の声も、五十年前の冬の長さも、もう誰の頭の中にも残っていない。
だから、書き留めなければならない。線が意味を持つ形を作り、知恵を土の上に固定する。バアに語った夜の言葉が、今もソウの中で続いている。
グラムとの関係はまだ脆い。一度の交易で、信頼は築けない。向こうが何を持ち、何を欲しがっているのか。こちらが差し出せるものは何か。穀物か、陶器か。交易を続けるには、相手を知らなければならない。
揉め事が起きた時の決まりも要る。ムロとガランが冬にぶつかった時、二つの正しさに決着をつける仕組みがなかった。ガランの一声で収まったが、いつもそうとは限らない。人が増えれば、揉め事も増えていく。
物を交換する時の基準も要る。穀物一束と陶器の壺一つ、どちらが重いか。今は感覚で決めている。だが、人が増えて物が増えれば、感覚では回らなくなる日が必ず来る。
文字。決まりごと。物を計る基準。交易の道。
頭の中に並ぶ言葉は、どれもこの土の上にまだ存在しない。それを一つずつ、自分の手で作っていかなければならない。
文明は——まだ始まったばかりだ。
風が吹いた。
南の畑の方角から、丘を渡って北へ抜けていく。穂が一斉に揺れ、乾いた音が立つ。ざわ、と低く、長く。穀物の茎と葉が擦れ合う音。風と穀物だけが作る音。
ソウはその音が、好きだった。
風の中に、土の匂いと、刈り株の青い汁の匂いと、薬草畑の苦い葉の匂いが、薄く混じっている。ガラの丘の匂い。二年かけてこの丘が身につけた匂い。
目を閉じた。風が頬を撫で、穂の音が続いている。
バアの声が聞こえる気がした。『土は覚えておる』。あの声はもう、ソウの記憶の中にしかない。記憶は、いずれ薄れる。だから、記憶が薄れる前に、形にしなければならない。
目を開けた。月が丘の上に出ている。畑の穂が銀色に光り、住居の屋根が影を落とし、柵の丸太が丘をぐるりと囲んでいる。二年前には何もなかった場所に、人が暮らす形がある。
「ソウ」
振り返ると、テツがいた。




