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転生先は夜明け前 ―石器時代から文明を拓く―  作者: 夜摩 高嶺
第一部 播種の章

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第58話「ムロの言葉」

 二十七の視線が、ムロに向いている。


 焚き火の光が、ムロの顎と頬を照らし、目元より上は闇に沈んだまま。白い髪を後ろで結わえた紐が首の横で風にわずかに揺れ、立ち上がったムロの影が、空き地の北の端まで長く伸びている。

 ムロは口を開かない。立ったまま、火の方を見ている。


 ソウは息を詰めていた。

 ムロがこの輪の中で立ち上がるのは——あの冬以来だった。


 吹雪の翌朝のことだった。小屋に押し込められた五日間の後、ムロは焚き火の前に出て「これが、定住か」と吐いた。先祖は空の下で生きてきた、風が来たら移り雪が来たら移った、それがわしらだったと。サガも隣で「前は吹雪が来たら避けた。今は動けん」と声を重ねた。

 ガランは座ったまま「動いて、凍え死んだ者も、いた」と返した。ムロの口が閉じ、二つの正しさが火の前ですれ違って止まった。

 それきりだった。ムロは何も言わなくなった。


 言わないまま、ここにいた。


 春が来ても、畑に水をやる列にムロの姿はなかった。だが、住居の修繕を手伝う輪の端に、白い頭がいつも見えていた。サガと二人で、黙って丸太を運ぶ背中を、ソウは何度も見ている。柵の杭を打つゴウザの横で、ムロが抑え木を足で踏んでいたこともあった。祭りの夜は焚き火の一番外に座り、焼いた餅を黙って口に運んでいた。

 口は閉ざしたまま、手は止めなかった。反対を続けていたのではない。今ならわかる。ムロは、見ていたのだ。自分の目で、この丘に起きていることを、一つずつ確かめていた。


 焚き火の薪が崩れ、赤い塊が一つ転がる。ムロは動かない。目元が暗くて表情は読めないが、顎の線が強張っているのは、わかった。焚き火の熱が揺らぎ、ムロの首筋のあたりで、汗が光っている。


 サガが隣で身を起こしかけ、止まった。何か声をかけようとしたのか、あるいは、立ち上がりかけたのか。膝に置いた手が握られて、開いて、もう一度握られる。サガもまた、あの冬の朝にムロの隣で同じ側に立った一人だった。


 ムロが動いた。


 火の方ではない。体ごと振り返り、丘の南を見る。

 暗い。だが、そこに三つの畑があることを、全員が知っている。穂を刈り取った後の短い株が残り、次の種蒔きを待つ土。夜の闇の底に、畑の匂いが薄く混じっている。乾いた土と、刈り株の青い汁の匂い。風が南から運んでくる。

 ムロの目が、暗がりの中の畑の輪郭に止まる。最初に種を蒔いた第一の畑。そこから南へ広げた第二、第三。三つの畑が丘の斜面に段を作って並んでいる。ムロはその方角を、長い間見つめていた。あの畑のどれにも、ムロ自身は種を蒔いていない。だが、畑の脇の柵を立てる時には、ムロの手が木を押さえていた。


 首が、ゆっくりと回る。

 南から西へ。空き地の端に並ぶ住居の影。五棟。最初に建てた一棟目は柱が太く不揃いで、後から建てた棟は壁の継ぎ目が細かい。技が上がったことが、暗がりの中でも形に出ている。ムロもあの壁に手を貸した。サガと二人で横木を支え、ゴウザが縄で縛った。声は出さず、ただ木を押さえる手の力だけで、仕事をしていた。

 西から北へ。空き地の奥に並ぶ陶器の大壺。中に粒が蓄えてある。冬を越す分と春の種蒔きの分。壺の表面は火で焼いた赤茶色で、焚き火の光を鈍く返す。あの壺の一つ一つに、何日分の食糧が入っているかを、ムロは知っているのだろうか。知っていても不思議はない。ムロは見ていた。ずっと、見ていた。

 北から東へ。二段の柵が丘を囲み、その向こうに見張り台の影が夜空を背に立つ。リアがいつも登る場所。ここからなら丘の全方位を見渡せる。風が柵の隙間を通り抜ける音が低く鳴っている。


 一つ一つに目を止めていく。丁寧に、急がず、飛ばさず。ガランがさっき輪の全員の顔を見回した時と、同じ速さだった。


 ムロが火に向き直った時、顔が光の中に入った。ソウは初めてムロの表情を見る。

 泣いてはいない。怒ってもいない。ただ口元が震えている。唇の端が細かく動いて、何かを言おうとしている——言葉が喉の手前で詰まっているような震え方。体の横で拳を作ったムロの手もまた、小さく震えていた。


「……わしの、間違いだった」


 低い声だった。ガランの宣言とは違う。ガランの声は断ち切るように終わるが、ムロの声は終わりきらない。語尾が揺れて、火の音に溶けていく。

 焚き火の輪が凍ったように静まった。虫の声すら遠退いている。


「先祖の教えを守ることが、正しいと思っておった」


 ムロの声は途切れなかった。途切れそうになりながらも続いている。喉の奥で何かを押し上げるような、絞り出すような声。


「だが——先祖は、これを見たことがない」


 ムロの手が動く。畑の方角を指すのではない。丘の全体を——焚き火を囲む二十七の顔を、住居を、壺を、柵を、畑を、まとめて掬い上げるような大きく曖昧な手の動き。先祖が見たことのないもの。それが目の前にある。ムロ自身が手を貸して作ったものでもある。


「見たことがないものを、教えの中に入れることはできん」


 焚き火が一度ぱちりと鳴った。

 ムロは目を閉じた。白い眉の下で瞼が震え、皺の深い顔が火の光に晒される。閉じた目の端に、光るものがにじむ。


「わしは——間違っておった」


 二度目の、同じ言葉。一度目より声は小さく、だが震えは止まっている。言い切ったのだと、その静けさでわかった。

 ムロの喉仏が一度上下し、唾を飲んで口を結ぶ。風が、ムロの白い髪の先を揺らして通り過ぎた。


 サガが口を開きかけた。

 唇が動いて、声にならないまま閉じる。何を言えばいいか見つからない顔。膝の上の拳が握り直され、目が赤くなっている。サガもあの冬に、ムロと同じ正しさを信じていた一人だ。ムロが今夜折ったものは、サガの中にも、あったもの。


 ソウは黙っていた。

 言葉は出てこない。出す気もなかった。

 ムロはムロなりに、ずっとこの族のことを考えていた。先祖が歩いた道、季節ごとに移る暮らし、空を屋根にした日々。それを、守ろうとしていた。守り方が、違っていただけだ。

 あの冬の朝にガランに口を閉ざされてから、ムロは何も言わなかった。だが、ここにいた。丸太を運び、杭を踏み、壁を支え、餅を食い、この丘の変化を黙って見続けた。その沈黙は反対ではなかったのだと、今夜のムロの声が教えている。

 ソウの掌に、今朝の土の感触が、まだ残っている。バアの薬草畑に水をやった手。ムロもまた、ここの土を踏み、ここの匂いを吸い、ここにいた。


 焚き火の薪がまた崩れ、火の粉が低く舞った。


 ガランが動いた。


 座っていた場所から立ち上がり、焚き火を半周してムロの方へ歩いていく。大きな歩幅ではない。ガランの体は族の中で大きくはないが、一歩ごとに、足が地面を確かに踏む音がする。草を踏む革底の音が、静まった空き地に響いた。三歩、四歩、五歩。

 ムロの正面で止まる。


 ガランがムロを見上げている。ムロの方が背は高い。だが今、ムロの膝がわずかに折れていて、二人の視線はほぼ同じ高さにあった。焚き火の光が二人の間を照らし、二つの影が丘の端へ長く伸びていた。


「お前の心配も、間違ってはいなかった」


 ガランの声。短く、低い。いつもの断つような言い方。だがその中に、ソウが聞いたことのない柔らかさが混じっている。最後の「なかった」の語尾が、ほんのわずかに丸い。


「新しいものに飛びつくだけなら、危うい」


 一度区切って、ガランは続けた。


「お前がいたから、慎重になれた」


 ムロは目を開けた。

 ガランを見ている。ムロの目に光るものがある。涙ではない。涙になる手前の、薄い膜。焚き火が映り込んで橙色に揺れ、瞬きのたびに光が散る。

 ムロは何も言わなかった。口を結んだまま、ただガランの顔を見ている。言えなかったのか、言う必要がなかったのか。その区別はつかない。


 ガランも、もう何も言わない。

 二人がそこに立っている。焚き火の光と、二つの影と、夏の終わりの風。言葉にならない何かが、二人の間にあり、焚き火の音だけが、それを満たしている。


 輪の中で誰かが鼻をすすった。テツだった。カナがテツの肩に手を置いている。ゴウザは膝の上で組んだ手をそのままに、じっと二人を見つめていた。リアの横顔は影の中にあるが、弓を持つ手の指が白い。

 ヨルがイサの方をちらりと見た。イサが小さく頷く。二人の間に言葉はない。だが、ナギから来た四人もまた、この輪の中にいる。この丘の土を踏み、この丘の水を飲み、同じ焚き火に当たっている。


 虫の声が戻ってきた。丘の東の林から、秋の虫が鳴いている。

 風が南の畑の方角から一度吹いて、焚き火の煙を北に流す。煙の中に土の匂いが混じっている。この丘の土。全員が踏み、耕し、掘り、固めてきた土の匂い。


 焚き火が、静まった。

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