第56話「七日後」
七日が過ぎていた。
ソウが薬草畑の畝に膝をつくと、土はもう乾いていない。毎朝の水やりで湿り気を取り戻した三列の畝は、苦い葉も丸い葉も傷の根も、七日前より葉の色が濃くなっている。
虫は三日に一度、爪の先で潰す。バアの速さには遠く及ばないが、畝の端から端まで一巡する手つきだけは、少し慣れてきた。指先に残る虫の潰れた感触にも、もう顔をしかめない。
南の空が白い。夏の終わりの陽射しには、真夏のような刺す重さがない。朝の風が土の匂いを運んでくる。乾いた草と、湿った畝と、遠くの林の木の匂いが混じった風。
穀物畑に目を向けると、穂先が一斉に傾いて金色の波を作っていた。三年目の畑。三倍に広げた畝の穂は膝の高さを超え、穂の先端が重みで垂れ始めている。実が入っている証拠だ。指で一粒つまんで爪で割ると、中身は白く、硬い。
収穫が近い。
ソウは立ち上がり、畑の南端に目をやった。穀物の穂が風に揺れる向こうに、柵の丸い輪郭が見える。二段に組んだ柵の上を、小さな人影が歩いていた。リアだ。腕を横に伸ばし、丸太の上を猫のような足取りで進んでいる。見張りの巡回ではなく、足場の確認だろう。柵の上から集落全体を見下ろすのが、リアの日課になっている。
五棟の住居から、三本の煙が上がっていた。朝餉の火。草屋根の隙間から白い筋が空に伸び、風に流されて南東に消えていく。煙突の脇を、雀が二羽かすめて飛び、柵の杭に止まった。
七日前と同じ朝。一人だけが、いない。
*
空き地の中央に戻ると、粥の匂いが鼻を突いた。
焚き火の脇にカナがしゃがみ込み、大壺の蓋を開けて穀物を椀に移している。壺の中には、乾燥させた穀物が詰まっていて、底がまだ見えない。二つ目の大壺も焚き火の反対側に据えてあり、どちらもずっしりと動かない重さで地面に座っている。
カナの膝の横に、小さな束が置いてあった。バアの薬草畑から摘んできた苦い葉。三枚。
「入れるの?」
ソウが訊くと、カナは束から一枚を取って粥の鍋に落とした。
「毎朝入れてるよ。バアがね、粥に一枚混ぜると腹が楽になるって言ってたから」
二枚目を指で千切り、鍋に落とす。湯気の中に苦い匂いが立ち、粥の表面で葉が開く。
「忘れないように、毎日入れるの」
カナの声に湿り気はない。七日前、盛り土の前で声を上げて泣いていたときの赤い目は、もうない。泣きすぎて通ったのか、声がわずかに低くなった気がする。だが笑う時の口の形は変わらない。唇の端が先に上がって、それから目が細くなる、あの順番。
三枚目は入れずに束に戻した。
「三枚あるけど、粥には二枚でいいんだって。残りはヨルのぶん」
ヨルの腹は三日前に治っている。だがカナは毎朝、煎じた薬湯をヨルに持っていく。治ったあとも、しばらくは飲ませた方がいいとバアが言った、と。バアが本当にそう言ったのかは分からない。だがカナがそう決めたなら、それでいい。
カナの手が苦い葉の束を鼻に近づけ、匂いを嗅いだ。青い匂いに顔をしかめもせず、小さく、満足げに頷く。バアの住居に入ったときに鼻を突いたあの匂いが、今はカナの指先から立っている。
*
粥が炊き上がると、カナは椀を並べ始めた。
焚き火の輪に人が集まってくる。ゴウザが槌を腰帯に差したまま座り、テツがゴウザの隣に転がるように腰を下ろす。南の林から戻ったムロとサガが、手に獲物のうさぎを二羽ぶら下げて空き地を横切っていった。
リアが柵の方から歩いてきて、焚き火の輪の外縁に立つ。座らない。立ったまま椀を受け取り、一口啜って頷く。
カナが粥を配りながら、一人ずつに声をかけていた。
「はい、テツ。熱いから気をつけて」
「ゴウザ、おかわりあるからね」
椀を渡すたびに、相手の顔を見る。見て、笑う。
「みんな元気でいてね」
カナが言った。誰に向けてでもなく、焚き火の輪全体に向けて。粥の湯気が顔にかかっているのか、頬がうっすらと赤い。
その言葉を、ソウは覚えている。前にも聞いた。バアがまだ生きていた頃に、同じ焚き火の脇で、同じように粥を配りながらカナが言った言葉。あのときは「みんなが、元気でいてほしいな」だった。
少しだけ、形が変わっている。「いてほしいな」が「いてね」になった。願いが、呼びかけに変わっている。
テツが粥を啜りながら、鼻を鳴らした。
「苦い」
「体にいいの」
「バアの粥もこんな味だったか?」
「もうちょっと苦かった」
テツが顔をしかめ、カナが笑う。
その笑い声が焚き火の爆ぜる音に混じって、空き地に散っていく。リアが椀を両手で包んだまま、カナの方を一瞬だけ見た。何も言わない。言わないまま、粥を啜る。苦い薬草の味を、リアも飲み込んでいる。
*
何も止まらなかった。
ソウは丘の東側に足を向け、盛り土の前に立った。白い花はもうない。風に飛ばされたか、枯れて土に還ったか。盛り土の表面に草が生え始めている。七日前にはなかった短い草が、土の色を隠し始めていた。
二十六人の集落は動いている。畑は穂をつけ、壺に穀物が詰まり、柵の上をリアが歩き、焚き火の脇でカナが粥を配る。バアの場所だけが空いている。空いたまま、その周りを、全員が歩いている。
バアが残したのは、止まらない日常だった。
薬草の使い方をカナに教え、畑の水やりの順番をソウに見せ、傷の根の削り方を族の誰もが知っている状態を、五十年かけて作った。だから一人が消えても、知識は消えない。欠片が散らばって、二十六人の手の中に残っている。
完全ではない。バアの勘も、あの指先の遅さに宿っていた慎重さも、もう再現できない。だが、欠片があれば腹の痛みは治まるし、傷口の血は止まる。それで十分かどうかは分からない。分からないまま、日は回る。
風が盛り土の上を通り過ぎた。草がそよぎ、土の匂いが立つ。薬草の匂いはしない。ここはもう、バアの場所ではなく、土と草の場所になり始めている。
ソウは膝を折り、盛り土の草に手を触れた。指先に伝わるのは、生きている草の感触。根が張り、土をつかみ、伸びようとしている力。この草はバアを知らない。バアの上に芽を出し、バアの体から養分をもらい、ただ育っている。それだけのこと。
ソウは立ち上がり、踵を返した。
*
夕方。
焚き火の輪に、ガランが現れた。
いつもの場所——輪の北端に立ち、腕を組んで全員の顔を見回している。槌の音が止まり、カナが鍋から手を離し、リアが柵の方から歩いてくる。
ガランが口を開く前に、空気が変わっていた。族長が全員を集めるときの、あの重さ。
「明日の朝、全員集まってくれ」
ガランの声は低く、よく通る。焚き火の爆ぜる音の間を縫って、二十六人の耳に届く声。
「話がある」
それだけ言って、ガランは輪を離れた。
テツがソウの方を見た。ソウは首を振る。知らない。だが、ガランの目に迷いはなかった。何かを、決めた目だ。
焚き火の炎が風に揺れ、二十六人の影が地面の上で重なり、離れ、そしてまた重なる。
明日。ガランが何を話すのか。
ソウの胸に、予感だけが残った。




