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転生先は夜明け前 ―石器時代から文明を拓く―  作者: 夜摩 高嶺
第一部 播種の章

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第55話「バアのいない朝」

 土が、乾いていた。


 バアの薬草畑の土に手を突くと、指の間から細かい砂がこぼれ落ちる。三日。手を入れなかった三日で、土はここまで水を失う。夏の陽が朝から容赦なく照りつけ、葉の先端が内側に巻き始めていた。

 ソウは桶から水を汲み、畝の根元に注いだ。バアの畝は三列で、南から北へ苦い葉、丸い葉、傷の根と並んでいる。並び順はバアが決めたもので、理由をソウは聞いたことがない。聞く相手は、もういない。


 水が土に吸い込まれていく。吸い込まれる速さが、畑の渇きを教えている。


 二杯目を汲み、膝をついて苦い葉の根元に水を流す。葉の裏に虫がついていた。バアなら、爪の先で一匹ずつ潰す。あの小さな、湿った音を、ソウはまだ覚えている。

 三杯目は丸い葉の畝に注ぐ。丸い葉は水に弱く、やりすぎると根が腐る。バアがそう言ったのは、いつだったか。言葉は覚えている。声の高さも、口の動きも残っている。だが、いつの日の言葉かは、もう分からない。

 四杯目。傷の根の畝。この根を削って粉にし、傷口に塗れば血が止まる。理屈は分からないが効く。バアも理屈は知らなかった。効くから使う。五十年間、それだけで命を繋いできた根。


 水をやり終えて立ち上がり、膝の泥を手で払った。指の爪の間に黒い土が残っている。バアの指にも、いつも残っていた土と同じ色、同じ匂い。苦い葉の匂いが混じった、湿った土の匂いだった。



 丘の東側に足を向けた。

 朝の光が斜面を照らし、草の上に長い影を落としている。影は西に伸び、丘の頂までは届いていない。盛り土の前に、人影が一つ。

 リアだった。弓は持っていない。革の腰帯だけを巻いた姿で、盛り土の前に立ち、何もせずにそこにいる。


 ソウの足音に、リアの肩がわずかに動く。振り返らない。

 ソウは二歩後ろに立ち、同じものを見た。盛り土と、その上に置かれた白い花。花は三日前のもので、花弁の縁が茶色く変わり始めている。


「朝か」


 リアが振り返らないまま言った。


「朝です」


「早いな。畑か」


「水をやってきました」


 リアは頷いた。背中越しに、首の動きだけが見える。


 しばらく二人とも何も言わなかった。風が丘を渡り、草が鳴る。薬草畑の方から苦い葉の匂いがかすかに届き、遠くの林で鳥が鳴いている。夏の朝の、甲高い声。


「バアは——お前のことを誇りに思ってたよ」


 リアの声は低く、平らで、感情を押し込めた声ではない。押し込める段階を、とうに過ぎた乾いた声。


 ソウは答えなかった。三つ息を吸い、三つ吐いてから口を開く。


「……知ってる」


「知ってるか」


 リアが小さく笑い、その声が風に混じって消える。振り返ったリアの頬に、涙の跡が残っていた。乾いた跡。今朝泣いたのか、昨夜泣いたのかは分からない。


「バアが言ってたんだ。『あの子は不思議だけど、いい子だよ』って」


 ソウの足が止まる。バアの言葉を、ソウは知っていた。あの夜、バアはソウに直接言っている。「悪い子では、ない」と。薄い声で、油皿の火の脇で。

 リアに伝わった言葉は、形が違う。バアの口からリアの口を通り、リアの言い方に変換されてここに出ている。「不思議だけど、いい子だよ」。バアならそうは言わない。だが、伝えたかった中身は同じ。


 ソウは何も言えなかった。喉の奥に、三日前の夜から残っている塊がある。朝の光の中でそれがわずかに緩んだが、崩れはしない。崩れない塊を飲み込むように、唾を一度飲んだ。


「……ありがとう」


 ソウの声は、自分で思ったより小さかった。


 リアは何も返さなかった。

 返さないまま、盛り土の方を向き直る。風がまた丘を渡り、草を倒して丘の向こうに消える。リアの髪が風に流れ、頬の涙の跡が朝の光に白く見えた。

 ソウはしばらくリアの隣に立ち、盛り土の上の枯れかけた白い花を見ている。花を置いたのはリア。三日前の夕方、バアの体の脇に最後の一輪を置いた時と同じ手で、ここにも一つ。



 空き地に戻ると、焚き火の脇にカナが座っていた。膝の上に椀を二つ置き、その間に薬草の束を広げている。束から葉を一枚ずつ剥がして、椀の中の湯に落とし、細い湯気がカナの顔の前で揺れていた。

 テツが、カナの斜め後ろに座り、何もせずにカナの手元を見ている。


「何を煎じてるんだ」


 ソウはカナの横に腰を下ろした。


「腹の薬」


 カナは手を止めずに答えた。


「ヨルが昨日から腹を下してて。バアに教わったの。これくらいの量で、これくらいの時間」


 カナの指が薬草の茎を折って、椀の湯に沈める。沈んだ葉が湯の中でゆっくり広がり、湯の色が淡い黄に変わっていく。


「バアに、忘れないでって言われたから」


 カナの声は静かで、三日前に寝床の脇で声を上げて泣いていた時とは違う。枯れた声ではなく、泣いたことで何かが通った声。


 ソウはカナの手元を見ていた。葉を湯に落とす指の動きが、バアに似ている。似ているが、同じではない。バアはもっと遅く、一枚ごとに葉の状態を確かめてから沈めていた。老いのせいだけではなく、五十年の慎重さがあの遅さを作っている。カナの指は若い。若いが丁寧で、一枚ごとに葉脈の向きを見てから落としている。


「量は合ってるのか」


「たぶん」


 カナは一度手を止め、椀の中を覗き込んだ。


「バアは、三枚って言った。大きい葉なら二枚。これは小さいから三枚。湯はこの椀の半分まで。煎じる時間は、息を百回吸って吐くくらい」


 息を百回。バアの計り方だった。砂時計も日時計もないこの暮らしの中で、バアは自分の呼吸で時間を測っていた。正確かどうかは分からない。だが、五十年それで効いてきた。


「ソウ」


 テツが声をかけた。いつもの軽い声ではないが、いつもの声に戻ろうとしている響きがある。


「カナ、昨日からずっとこれやってんだよ。夕方に一回、今朝また一回」


「ヨルの腹が治らないから」


 カナが言った。


「治るまでやる。バアならそうした」


 ソウは頷いた。

 頷きながら、薬草畑の三列の畝を思い浮かべる。苦い葉、丸い葉、傷の根。バアが五十年かけて覚えた知識の一部が、カナの指先に移っている。全部ではなく、ほんの欠片にすぎない。だが、その欠片があるかないかで、ヨルの腹の痛みが変わる。


 椀の中の湯が濃い黄色に変わっていた。薬草の匂いが立ち上る。苦い、青い匂い。バアの住居の中に満ちていたのと同じ匂いだった。



 昼過ぎ。ソウは丘の上に立っていた。

 空き地では、日常が動いている。ガランが焚き火の脇で獣皮を干し、ムロとサガが南の林に向かっていく。ゴウザの槌の音が、柵の修繕の合間に断続的に空き地へ響いていた。

 二十六人。一人減った数。焚き火の輪にバアの場所がなく、住居の中にバアの寝床がない。薬草の匂いがする住居に、薬草を煎じる老婆がいない。だが、それ以外の全ては動いている。人は動く。動くことで、空いた場所を埋めずに、その周りを歩き始める。


 風が南から吹いた。丘の斜面を駆け上がり、ソウの髪を揺らして北に抜けていく。風の中に草と土の匂いがあり、遠くの林の、木の匂いがある。その中に、バアの薬草畑の苦い葉の匂いだけが、他より少し強く混じっていた。

 ソウはその風を受けていた。受けながら、掌を開く。三日前の朝の冷たさは、もう掌にはない。代わりに、今朝の土の感触がある。薬草畑の乾いた土と、水を注いだ後の湿った土。バアの指に残っていたのと、同じ匂いの土。


 バアのいない朝。

 ソウは丘の上で一人、風を受けていた。

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