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転生先は夜明け前 ―石器時代から文明を拓く―  作者: 夜摩 高嶺
第一部 播種の章

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第54話「バアの旅立ち」

 バアの胸が、動いていなかった。


 ソウは寝床の脇に座ったまま、それを見ていた。夜明けの光が革幕の隙間から入り込み、寝床の半分を白く照らしている。油皿は空だった。昨夜のうちに自分で消え、芯だけが黒く焼き切れた形で残っている。

 バアの顔は、穏やかだった。苦しんだ跡がどこにもない。眉の皺も口元の力みもなく、ただ深く眠っている顔に見える。寝床の上の毛皮が、胸の動きで上下するはずの形のまま、止まっていた。

 眠っている顔と、動いていない胸が、同じ体の上にある。


 ソウは、バアの手に触れた。

 冷たい。

 昨夜の薄い温かさは、消えていた。指の一本一本が朝の空気と同じ温度で、握った掌の中に体温の名残を探しても、もう見つからない。昨夜、両手で包んだ時には確かにあった温かさが、夜の間に静かに抜けていったのだと分かった。

 ソウはその手を離さなかった。離す理由が、思いつかなかった。


 泣けなかった。

 悲しいのか、怒っているのか、受け入れているのか、自分でも分からない。分からないまま、ただバアの手が冷たいということだけが、掌から腕を通って頭の奥に届いている。昨夜は目の奥が熱かった。今朝は、それすらない。感情が固まって動かない。水が凍るように、感じることそのものが、止まっている。

 住居の外で、鳥が鳴いた。夏の朝の、高い声。

 ソウはその声を聞きながら、バアの顔を見ていた。見ていても何も変わらなかった。胸は動かず、手は冷たく、鳥だけが鳴いている。

 革幕の隙間から入る光が、少しずつ広がっていた。光がバアの顔に届いた時、瞼の縁が薄く光を受けた。動いたのではない。光が当たっただけだった。だが一瞬、目を開けるのかと思って、ソウの指に力が入った。

 開かなかった。



 足音が近づいてきた。

 軽い足音。革幕の前で一度止まり、また動く。


「バア、朝だよ。お粥——」


 カナの声。

 革幕がめくれ、朝の光が住居の中に広がる。カナは両手に椀を持ち、湯気を立てたまま中に入ってきた。湯気の向こうにカナの顔がある。笑いかけた顔が、ソウの表情を見て止まった。

 カナはソウの顔を見た。

 バアの顔を見る。

 バアの胸を見る。

 カナの手から、椀が落ちた。

 陶器が地面にぶつかり、鈍い音を立てる。粥が土の上に広がり、白い粥の表面に細かい砂粒が散った。カナはそれを見ていない。見ている余裕がなかった。


「バア?」


 カナの声が震えた。小さく、壊れかけた声。


「バア——」


 駆け寄り、バアの手を掴んだ。掴んだ手で揺すった。揺すった体は軽かった。軽くて、動かなくて、返事をしない。


「バア! 起きて! バア!」


 カナの声が住居の外まで響いた。響いた声の中に涙が混じり始め、肩が震え、掴んだ手が震え、声が震え、全部が崩れていった。

 あの日、椀を落とさず、泣くのを住居の外まで堪えた手。「また、お昼に、来るね」と震えない声で言った口。全部が崩れている。

 カナはバアの手を握ったまま額を寝床の縁に押しつけ、声を上げて泣いた。泣く声が住居の壁に跳ね返り、狭い空間の中で何度も重なった。

 ソウは動かなかった。動けなかったのではない。ここでカナを止めてはいけないと思った。カナの涙には行き場が要る。堰き止めれば壊れる。

 土の上の粥が、ゆっくり冷めていった。湯気が消え、白い粥の上に朝の光が静かに落ちている。



 最初に来たのは、テツだった。

 カナの声を聞いて走ってきた足音が、革幕の前で止まり、入口に立つ。中を見た。バアを見て、カナを見て、ソウを見た。


「——嘘だろ」


 テツの声が震えていた。いつもの明るさも脱線もない、ただ震えるだけの声だった。

 テツは入口に立ったまま、動けなかった。動けないまま、もう一度中を見て、カナの背中を見て、それからゆっくりとカナの方に歩いていった。


 次に、リアが来た。

 革幕の隙間から中を覗き、一度だけ目を閉じた。閉じてから開けた目の端から涙が流れ、声は出さなかった。唇を一度噛み、弓を握った右手の指が白くなる。

 声を出さない涙が、頬の上をゆっくり伝っていった。リアはそれを拭わなかった。拭わないまま、入口に立ち続けていた。


 ガランが来た。

 入口に立ち、中を見て、目を閉じた。閉じたまま長いこと立っていた。何も言わなかった。族長の顔でも父親の顔でもない。五十年を共に歩いた者が、もう一人の五十年を見送る顔だった。ガランの閉じた瞼の奥で何が動いたのか、ソウには分からなかった。分かる必要もなかった。ガランとバアの五十年は、ソウの知らない時間だった。


 ゴウザが来た。

 入口の革幕の脇に立ち、中を一度見て——顔を背ける。

 背けた横顔の顎が、一度動く。噛み締めた歯の形。それ以上何もせず、背けたまま住居の壁の丸太を見ていた。壁の丸太を見る目は、何も見ていない。普段声を荒げないこの男が黙って顔を背けたことが、泣くより重い崩れ方に見えた。



 夕方。

 バアの体を住居の中央に寝かせ直した。

 カナとリアが、バアの周りに花を並べた。丘の斜面に咲く小さな黄色い花と白い花を摘んできて、一つずつ、体の脇に置いていく。花の間に薬草を並べた。バアが育てた薬草。苦い葉と丸い葉と、傷の血を止める根。指で触れると、バアの掌の匂いがした。土と草と、少しだけ苦い匂い。何十年もこの草を摘んできた手の匂い。

 カナの指は震えていたが、一つも落とさずに並べ終えた。

 リアが最後に白い花を一つ、バアの手の脇に置いた。置いてから、自分の手を引いた。引いた手を、しばらく見ていた。


 空き地の焚き火に、全員が集まった。

 二十六人。ナギのヨル、イサ、ハル、トトの四人も、輪の中にいた。バアと直接の関わりが薄い者たちも、黙って座っている。

 焚き火が爆ぜた。

 爆ぜた音が、誰も話さない空き地に響く。蝉の声が遠くの林から聞こえ、草と土の匂いが、夕方の湿った空気に混じっている。

 誰も話さなかった。

 カナはテツの隣に座り、膝を抱えていた。泣き疲れた目が焚き火の光を映している。テツがカナの肩に腕を回していた。ぎこちない腕だったが、離さなかった。

 リアは弓を膝の上に置き、火を見ていた。頬の涙の跡が焚き火の光で橙に染まっている。

 ガランは腕を組み、目を閉じていた。ムロとサガは、焚き火の輪の端に、並んで座っていた。

 ゴウザは焚き火から少し離れた場所に、立っていた。背を向けてはいない。だが顔は、焚き火の方を向いていなかった。


 長い沈黙だった。

 薪が崩れ、火の粉が夜空に散った。散った火の粉は、蝉の声の中に溶けて消えた。



 ソウは、焚き火の輪の中から立ち上がった。

 立ち上がった時、二十六の顔がソウの方を向いた。ソウは見返した。焚き火の光に照らされた顔。見知った顔と、まだ名前を呼び慣れない顔と、泣いた跡のある顔と、何も映していない顔。

 ソウは口を開いた。


「バアは六十年近く前、北の山から来ました」


 自分の声が、不思議なほど静かだった。

 震えない。喉の奥につかえていたものが、言葉になった瞬間に、溶けている。言葉に変わることで、朝から固まっていた感情が、ようやく動き始めていた。


「北の山は冬が長く夏が短い土地でした。ある冬に雪が深く来て、獣が消え、粒が尽きた。族の半分が死にました。若い男たちが南へ動こうと言い、残りが南に下りた。バアは十六でした。父を北に残し、母を連れて歩いた。母はその春に亡くなりました」


 焚き火が爆ぜた。

 カナが泣いていた。声を殺し、膝の間に顔を埋めて、肩だけが動いている。テツがカナの肩を抱いたままソウの声を聞いていた。テツの目も、赤かった。


「バアは薬草を集め、病人を看ました。精霊に祈り、雨の来る日を感じ取りました。夫を冬の狩りで凍えて亡くし、四つで息子を病で亡くしました。それでも族のために草を摘み続けた。白い花の根と赤い実の皮を混ぜれば毒になると教え、咳の薬と腹の薬の煎じ方を、一人で覚えて、一人で伝えてきた」


 ソウは一度、息を吸った。夏の夜の空気が、肺に入る。焚き火の煙の匂いと、草の匂い。バアの住居の中に満ちていた薬草の匂いとは違う、外の匂いだった。


「バアが最後に言ったのは——『知恵は、人から人へ渡していくしかない』」


 ソウの声は、まだ震えなかった。


「バアの知恵は、俺が受け取りました。俺が——次に渡します」


 焚き火の光が、二十六の顔を照らしていた。誰も何も言わない。言わないが、聞いている。全員が聞いている。ガランが目を開けていた。開けた目で、ソウを見ていた。


「言葉は消えます。風に流れて、忘れられる」


 ソウは続けた。


「何百年分の知恵が、一人の頭の中にだけある。その人がいなくなれば、全部消える。バアの五十年も、バアの母の記憶も、北の山で死んだ者たちの名前も。声で伝えるだけでは、足りない」


 焚き火が、また爆ぜた。火の粉が夜の空に上がり、二つ三つと光って消えた。


「だから——記録する方法が必要だ」


 ソウの声は、バアの住居の中でバアに語った時とは違っていた。あの夜は一人の老婆に向けた個人の言葉だった。今は違う。二十五人の前で、立って、声を出している。バアに語った「線が意味を持つ形を作りたい」という言葉が、今夜は全員に向かっている。

 ガランは目を開けたまま、ソウを見ていた。

 ゴウザは焚き火の外で、まだ立っていた。顔を背けたままだったが、体の向きは変わっている。耳だけが焚き火の方を向いていた。


 ソウは座った。

 座ってから、自分の掌を見た。バアの冷たい掌の感触が、まだ残っている気がした。朝から一日が経った。気のせいかもしれない。だが掌の中にある冷たさは消えなかった。消えないまま、焚き火の熱が、掌の甲にゆっくり届いていた。



 翌朝。

 バアの体を、丘の東側に埋葬した。

 日が当たる場所だった。朝の光が最初に届き、夕方まで影が落ちない。バアの好きだった光が、いつも、そこにある場所だった。

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