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転生先は夜明け前 ―石器時代から文明を拓く―  作者: 夜摩 高嶺
第一部 播種の章

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第53話「最後の夜」

 夜、ソウは住居の入口の革幕の前に、立っていた。

 空き地の中央の焚き火の脇には、ガランが座っていた。リア、カナ、テツの誰も、ソウの方を呼ばなかった。呼ばなかったのは、ソウが今夜住居の奥に入るということを、皆が知っていたからだった。

 ガランは、ソウと目が合った時に、ただ一度だけ、首を縦に動かした。

 行ってこい、という意味だった。

 ソウは、革幕をめくり、中に入った。


 住居の中は、暗かった。

 寝床の脇に、小さな油皿の火が、揺れていた。火を入れたのは、たぶん、カナだった。バアが寝ている時にカナが入って、誰にも言わずに、火を置いて、出ていった。

 寝床の上のバアは、目を開けていた。

 開けた目で屋根の草を見ていた。見ていた目が、ソウの足音に気づいて、ゆっくりとソウの方に動いた。

「来てくれたかね」

 バアの声は、薄かった。薄かったが、夜の空気の中で、はっきりと、ソウの耳に届いた。

「来ました」

 ソウは答えた。

「ここに、います」

 ソウは寝床の脇に膝を折った。折った膝の脇で、油皿の火が揺れていた。火の脇で、自分の影が住居の壁に薄く伸びていた。



 バアはしばらく、ソウの顔を見ていた。

 見ていた目は、もう何度も見ているはずの目の動きだった。だが今夜の動きは、いつもよりゆっくりだった。一つ一つを確かめていく動きだった。

「ソウ」

 バアは言った。

「わしの、話を、全部、聞いておくれ」

「全部、ですか」

 ソウは答えた。

「全部じゃ」

 バアは続けた。

「忘れないで、おくれ」

 ソウは頷いた。

 頷いた首の動きを、バアは、見ていた。



 バアの話は、北の山から始まった。

 六十年近く前、バアがまだ若い娘だった頃、族はもっと北の山の麓に住んでいた。冬が長く夏が短い、寒い土地だった。ある冬に雪が深く来て、獣が消え、粒が尽きた。族の半分が死んだ。

 ガランの父はまだ族長になる前で、若い男だった。若い男たちが集まって、南へ動こうと言った。年寄りは反対した。年寄りの半分は、北の山で死ぬと決めた。死ぬと決めた者たちを置いて、残りが南に下りた。

「わしの父も、北で、死んだ」

 バアは言った。

「南に下りる時、わしは十六だった。母も連れてきたが、母はその春に亡くなった。長く歩いて、疲れていたんじゃ」

 バアの声は急いでいなかった。

 急いでいない声で、バアは六十年近く前の冬とその春のことを、ソウに語った。ソウは一言も逃さずに頭の中に置いた。


 南に下りた族は、ガランの父の代に、二つの冬を移動せずに越した。

「あれは、いい冬じゃった」

 バアは言った。

「移動しないと、冬は楽じゃ。だが、その次の年に、また移動した。理由は——もう、覚えとらん。たぶん獣が、減ったんじゃろう」

 ガランの父が族長を継いだのは、その移動の翌年だった。継いでからガランの父は、二十年族を率いた。ガランが族長になったのは八年前だった。

「ガランは、父に似ておる」

 バアは言った。

「だが、父より迷う。迷うのは、悪いことではない。父は迷わな過ぎた。迷わな過ぎたから——いくつか、間違いも、あった」

 バアはそう言って、口の端をわずかに動かした。動いた口の端は、笑った形だった。



 話は、家族のことに、移った。

「わしの夫は、二十年前の冬に凍死した」

 バアは低く言った。

「狩りに出て、戻らなかった。三日後に、谷の底で見つかった。雪に半分埋まっておった」

 ソウは黙って聞いていた。

「子は、生まれた。男の子じゃった」

 バアは続けた。

「だが四つの夏に、病で死んだ。熱が続いてのう。薬草を煎じて飲ませたが、効かんかった。あの時わしは、薬草の限界というものを初めて知った」

 バアの声は低かった。低かったが震えていなかった。

「それから、わしは子を産まなかった」

 バアは言った。

「夫が死んでからも、産まなかった。だから——カナが可愛くてのう。孫のようなものじゃよ」

 ソウは頷きの代わりに、目を一度、閉じて開けた。



 話は、薬草に、移った。

 バアは、寝床の脇から動かないまま、声で、薬草の話を始めた。

 北の山にしか生えない苦い草。南に下りてから初めて見た丸い葉の薬草。傷の血を止める根。腹を下した時に煎じる樹皮。咳に効く葉と効かない葉の見分け方。子供に与える量と大人に与える量の違い。

「組み合わせては、いかん草がある」

 バアは言った。

「白い花の根と赤い実の皮を一緒に煎じると、毒になる。一つずつなら、薬になる。だが混ざると、命を奪う」

 バアの声は低く続いた。

 ソウは一つ一つを、頭の中に刻んだ。刻みながらソウは思った。これは半月前にも、聞いた話だった。半月前にもソウは、頭の中に刻んだつもりでいた。

 だが今夜のバアの話は、半月前の話と同じではなかった。

 半月前は、見分け方と煎じ方の話が中心だった。今夜は、量を間違えた時に人がどう死ぬかという話が混ざっていた。バアは自分の子を、四つで亡くしている。亡くした時、薬草を煎じて飲ませた。効かなかった。

 その時の量も、今夜のバアは、ソウに伝えていた。



 話は、精霊のことに、移った。

 バアは、風の精霊に感謝する祈りの言葉を、ソウに、唱えた。

 短い言葉だった。バアの声で、四つの言葉が続けて発された。最後の言葉は、息の中に半分消えた。

「水の精霊の怒りを鎮める時は、川の縁に薬草を二束、置く」

 バアは続けた。

「束ねる紐は、白くないとならん。白い紐がない時は、白い砂を薬草の上に撒く。砂は川の上流の白いもの。薬草は青い葉のものを混ぜる」

 ソウはそれも頭の中に刻んだ。

「お前は、信じておらんじゃろう」

 バアは低く言った。

 ソウは答えに迷った。迷ったが、答えた。

「信じている、とは言えません」

 ソウは答えた。

「だが、信じないとも言えません」

 バアは口の端を動かした。動いた口の端は、笑った形だった。

「それで、いいんじゃよ」

 バアは言った。

「精霊がいるかいないか。それは、わしには分からん。わしが分かっているのは、これを五十年続けてきた、ということだけじゃ。続けてきたら、雨が来る前にわしには分かるようになった。それが精霊か精霊でないか——どちらでも、いい」



 夜が深くなっていった。

 油皿の火が一度揺らいで、また戻った。

「ソウ」

 バアは言った。

「知恵は、人から人へ渡していくしかないんじゃよ」

 バアの声は低く、はっきりしていた。

「書に残すこともできん。声で伝えて、覚えて、また伝える。わしは——それを、お前に渡す」

「バア。俺は——」

 ソウの声が、出た。

 出てから、続きが、出なかった。

 バアはソウの顔を、しばらく見ていた。見ていた目の中に、薄く何かが滲んだ。涙ではなかった。涙の手前の何かだった。

「お前は」

 バアは言った。

「わしが見た中で——一番、不思議な子じゃ」

 ソウの胸の中で、何かが、ゆっくり、沈んだ。

 バアは続けた。

「最初に、畑を見た時から——この子は、普通じゃないと、思った。知りすぎておる。年の数では、知るはずのないことを、知っておる。だが——悪い、子では、ない。それだけで、十分じゃよ」

 ソウは答えなかった。

 答えられなかった。喉の奥に何かがつかえていた。つかえていた何かは、言葉ではなかった。言葉になる前の、形のないものだった。

「泣くんじゃないよ」

 バアは言った。

「年寄りが先に逝くのは、当たり前のことじゃ」

 ソウは泣いていなかった。

 泣いていなかったが、目の奥が熱かった。

 バアはそれを見ていた。見ていたが、もう何も言わなかった。



 しばらく、二人とも何も言わなかった。

 言わない時間の中で、ソウは頭の中で一つの問いを置いていた。

 声で伝わるものは、聞いた者の頭の中にだけ入る。聞いた者が忘れれば消える。聞いた者がいなくなれば、二度消える。

 今夜バアが語った薬草の話と、六十年近く前の北の山の話と、息子を亡くした時の量の話は、全部、ソウの頭の中にしかない。

 ソウが明日忘れたら、消える。

 ソウがいなくなったら、もう戻らない。

 書き留める方法があれば。

「バア」

 ソウは口を開いた。

「声は消えます。風に流れて、忘れられる。何百年分の知恵が、一人の老婆の頭の中にだけある。それが消えたら——もう取り戻せない」

 ソウは続けた。

「書き留める方法があれば、と思います。地面に線を引くだけでは足りない。線が意味を持つ形を、作りたい」

 バアはソウの顔を見ていた。

「お前なら、作るじゃろうて」

 バアは低く言った。

「わしには、それが何かは分からん。だが、お前なら——いつかは作る」

 バアはそれだけ言って、目を閉じた。

 閉じた瞼の縁が、わずかに動いた。動いた縁の脇から、薄く何かが滲んだ。



 夜明けが近づいてきた。

 住居の入口の革幕の隙間から、薄い白いものが入ってきた。光だった。最初の光だった。

 バアはゆっくり目を開いた。

 開いた目で、革幕の隙間の光をしばらく見ていた。

「いい、夜じゃった」

 バアは低く言った。

「ソウ。お前は、よく聞いてくれた」

 ソウは答えなかった。

 答える代わりに、バアの掌に自分の掌を重ねた。重ねた掌の下で、バアの掌は薄く温かかった。温かさは、夜の最初よりわずかに薄くなっていた。

 バアはソウの掌の感触を、しばらく受けていた。

 受けながら、もう一度目を閉じた。

「ソウや」

 バアは目を閉じたまま、低く言った。

「ありがとうのう」

 バアの声は薄かった。薄かったが迷っていなかった。

 ソウは答えなかった。

 答えられなかった。

 答える代わりに、バアの掌を両手で包んだ。

 住居の入口の革幕の隙間から、夜明けの光がゆっくりと奥まで伸びてきた。

 伸びてきた光が、寝床の脇の油皿の火を薄く消した。油皿の火は、最後まで自分で消えるのを待っていた。

 ソウはバアの手を握ったまま、その光を見ていた。

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