第52話「起き上がれない」
朝、ソウは住居の入口の革幕の前で、一度足を止めた。
止めたのは、いつもより中が静かだったからだった。咳の音が、聞こえなかった。咳がない朝が、いつもより安らかなのか、いつもより悪いのかを、ソウは半月の間で、見分けられるようになっていた。今朝は、後ろの方だった。
革幕をめくり、中に入った。
住居の奥の寝床に、バアが横になっていた。横になっているバアの胸は、動いていた。動いてはいたが、動きがいつもより、浅かった。浅い動きの中に、咳に押し出される力が、もう、入っていなかった。
ソウは寝床の脇に膝を折った。
「バア」
ソウは低く呼んだ。
バアは、ゆっくり目を開いた。開いた目は、寝床の上の屋根の草を、しばらく見ていた。
「……ああ。ソウかい」
バアの声は、かすれていた。
「朝が、来たかね」
「来ました」
ソウは答えた。
「煎じ薬を、持ってきました」
バアは目を、ソウの方に動かした。動かす速度は、いつもよりも遅かった。
「いらないよ」
バアは言った。
「薬草は、効かんのじゃ。もう」
バアの声は、迷ってはいなかった。
迷っていない声の中に、悲しみも、諦めも、入っていなかった。ただ、自分の体のことを、自分でよく知っている、という形の声だった。
ソウは小鉢を寝床の脇に置いた。
置いてから、バアの掌に、一度触れた。バアの掌は、昨夜より、低い温度だった。低くはなったが、温かさは、まだ、残っていた。
「わかりました」
ソウは答えた。
「ここに置いておきます。気が変わったら、飲んでください」
バアは口の端を、わずかに動かした。動いた口の端は、笑った形だったが、笑い切る前に、止まった。止まったまま、バアは目を閉じた。
閉じた瞼の縁が、わずかに動いた。返事の代わりだった。
*
ソウは、住居の外に出た。
空き地の中央の焚き火の脇に、カナが立っていた。立ったカナの両手には、新しく作った粥の椀があった。湯気が、朝の冷たい空気の中に立ち昇っていた。
ソウの顔を見たカナは、すぐに動き出した。動き出した足は、焚き火の脇から住居の方へ、まっすぐ向いていた。
「カナ」
ソウは呼んだ。
カナは止まった。止まって、ソウの方を振り返った。
「バアは、薬を断った」
ソウは低く言った。
「粥も、たぶん、今は飲めない」
カナの目が、一度泳いだ。泳いでから、ソウの目を、まっすぐ見た。
「でも——お粥、作ったよ」
カナは言った。
「バア、お粥は、好きだったから」
カナの声は、震えていなかった。震えていないということを、カナは自分でも確かめているような、そういう声だった。
ソウは答えなかった。答える代わりに、カナの肩に、手を置こうとして、置かなかった。置かなかったのは、ここでカナを止めるのは、違う、と判じたからだった。
「行こう」
ソウは言った。
「俺も、一緒に行く」
*
住居の中で、バアは、まだ目を閉じていた。
カナは寝床の脇に膝を折り、椀を寝床の脇の板の上に、慎重に置いた。置いてから、バアの掌を、両手で包んだ。包んだ手の中で、バアの掌は、薄かった。
「バア」
カナは低く呼んだ。
「起きて。お粥、作ったよ」
バアは、目を開けた。
開けた目で、カナの顔を、しばらく見た。見ているうちに、バアの口の端が、わずかに動いた。動いた口の端は、笑った形に届く前に、また止まった。
「ありがとうねえ、カナ」
バアは言った。
「でも——今は、食べられんのじゃよ」
カナの掌の中で、バアの掌は、動かなかった。
カナの目に、涙が、薄く浮かんだ。薄い涙は、頬の上を流れる前に、瞬きの中に隠された。隠した涙を、カナは飲み込んだ。飲み込んでから、もう一度、バアの掌を包み直した。
「……うん」
カナは小さく言った。
「うん。じゃあ、また、お昼に、来るね。お昼は、薄くしておくから」
バアは答えなかった。答える代わりに、カナの掌を、自分の指で、ほんの一度だけ、押した。押した指の力は、ほとんどなかった。だが、押したという形は、確かに、あった。
カナは、その押しを、受け取った。
受け取ってから、立ち上がろうとして、立ち上がる前に、もう一度、寝床の上のバアを見た。バアの目は、また、閉じていた。
カナは、立ち上がった。
立ち上がってから、ソウの方を見ずに、住居の入口に向かって歩いた。歩く足は、最後の二歩で、わずかに早くなった。
革幕を出る前に、カナは振り返った。振り返って、寝床のバアを、もう一度、見た。
見てから、革幕を、めくって、出た。
出た先で、カナは走り出した。
走る足音が、空き地の北の方に消えていった。
*
ソウは、寝床の脇に残った。
しばらく、何も言わずに、バアの胸の動きを見ていた。
動きは、浅かった。浅かったが、止まってはいなかった。
しばらくして、バアは、目を、ゆっくり開いた。
「ソウ、や」
バアは低く言った。
「カナは、走って、行ったかね」
「行きました」
ソウは答えた。
「北の方に、走っていきました」
バアは小さく頷いた。頷いたあとで、口の端を、わずかに動かした。
「あの子は、強いね」
バアは言った。
「泣くのを、外に、持って出て、行った。ここでは、泣かなかった」
ソウは答えなかった。
答える代わりに、自分の指の腹で、寝床の脇の板の縁を、一度なでた。板の縁は、何度もカナとソウが粥の椀を置いた場所だった。木の表面が、わずかに、艶を帯び始めていた。
「ソウ」
バアはまた言った。
「少し、わしと、話せるかね」
バアの声は、薄かった。薄かったが、迷ってはいなかった。
ソウは、寝床の脇に、座り直した。
「話せます」
ソウは答えた。
「いくらでも、話します」
バアは、目を、わずかに細めた。細めた目の縁に、薄く、何かが、滲んだ。涙ではなかった。涙には、ならない、その手前の何かだった。
「今日、ではないんじゃよ」
バアは言った。
「今日は、まだ、わしの体の話で、終わってもいい。話したいことは、まだ、明日があれば、明日に、話す。明日が、なければ——」
バアの言葉は、そこで、一度切れた。
切れたまま、しばらく、何も続かなかった。
ソウは、待った。
待っているうちに、バアはまた、目を閉じた。閉じた瞼の縁が、わずかに動いた。
「明日が、あるとも、ないとも、わしには、もう、はっきりとは分からん」
バアは言った。
「だが、お前には、聞いておいてほしい話が、ある。今夜、また、来ておくれ」
「来ます」
ソウは答えた。
「夜に、また、来ます」
バアはそれだけ聞いて、目を閉じたまま、口の端を動かした。動いた口の端は、笑った形に、届きかけて、また止まった。
ソウは寝床の脇から、立ち上がった。
立ち上がる前に、もう一度だけ、バアの掌に、触れた。触れた掌は、朝より、わずかに、温度が落ちていた。
落ちていたが、まだ、温かさは、あった。
*
住居の外に出た時、空き地の北の柵の脇に、カナがいた。
カナは柵の丸太の脇に、しゃがみ込んでいた。両の膝の上に、額をつけていた。額をつけた顔は、見えなかった。
カナの肩が、小さく、震えていた。
ソウは、近づかなかった。
近づく代わりに、空き地の中央の焚き火の脇に、立っていた。立ったまま、カナの肩の震えが、自分のところからも、見えるか、見えないかの距離で、ただ見ていた。
しばらくして、リアが見張り台の足場から降りてきた。
降りてきたリアは、ソウの方には来ずに、まっすぐ、カナの方へ歩いていった。
リアはカナの脇に、しゃがんだ。
しゃがんで、何も言わずに、カナの肩に、自分の手を、置いた。
カナの肩の震えは、止まらなかった。止まらなかったが、リアの手の下で、震えは、少しだけ、輪郭を変えた。
ソウは、その光景を、しばらく見ていた。
見ていた目の中で、ソウは思った。バアが、夜に、自分に話したいことがある、と言った。それは、たぶん、最後の話だ。最後の話は、バアが、自分の口で、最後に、伝える形を選んだ、ということだった。
ソウは、夜まで、待つしかなかった。
待つことしか、できなかった。
空き地の北の柵の脇で、リアの手の下のカナの肩が、ゆっくりと、震えを、薄くしていった。
夏の朝の光が、丘の斜面を、白く照らしていた。




