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転生先は夜明け前 ―石器時代から文明を拓く―  作者: 夜摩 高嶺
第一部 播種の章

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第51話「咳が深くなる」

 二段目の柵が、半月かけて立ち上がった。

 最後の一本を、テツとダイが二人がかりで根元の穴に立て、石を詰めて土を踏み固めた。踏み終わってから、テツは柵の上に手をかけ、両手で軽く揺すった。揺すっても、丸太は動かなかった。


 守りは、形になった。

 形になった守りの脇で、葉が色を濃くしていた。雪解けの薄い緑が、もう、夏の入口の濃い緑に近づいていた。空き地の中央の焚き火の脇で、トウカが朝の蝉の声を聞いて、顔を上げた。今年の最初の蝉だった。


 夏が、来始めていた。

 夏が来始めた丘の中で、住居の奥の咳は、深さを増していた。



 ソウは、その朝、薬草の煎じを陶器の小鉢で運んでいた。

 住居の入口の革幕をめくる動きは、もう、半月の間に何度も繰り返した動きだった。中はうす暗く、奥の寝床にバアが横になっていた。横になっているバアの胸の動きが、ソウには見えた。

 胸は、浅く、速く動いていた。


 近づいて、寝床の脇に膝を折る前に、咳が始まった。

 咳は、最初の一つで終わらなかった。二つ、三つと続いて、四つ目で、バアの背がわずかに浮いた。浮いた背は、寝床に戻る前に、また五つ目の咳に押された。咳のあと、バアは息を吸おうとしたが、吸えなかった。吸えないまま、また咳が来た。


 胸の奥の咳が、押し出されるどころか、引き込まれて、止まらなかった。

 ソウは小鉢を寝床の脇の板の上に置き、バアの肩に手を添えた。添えた手の下で、バアの肩は、骨の上の薄い皮の感触だった。


 咳は、しばらく続いてから、ようやく止まった。

 止まってから、バアは長く、浅く、息を吐いた。


「……ソウ、かい」


 バアの声は、低く、薄く、最後の音は飲み込まれた。


「煎じてきました」


 ソウは答えた。


「飲めますか」


 バアは答える代わりに、目を一度、閉じた。閉じた瞼の縁が、わずかに動いた。それは、しばらく待っておくれ、という形の答えだった。

 ソウは小鉢の脇で、しばらく待った。



 半刻ほどして、バアはようやく半身を起こす形を作ろうとした。

 作ろうとして、起きなかった。

 起こそうとした腕が、毛皮の縁で止まり、止まったまま、戻った。バアは目を開いて、自分の腕の方を見て、それから、ソウの方を見た。


「起きられんねえ」


 バアは言った。


「柱まで、歩けん。柱が、向こうに見えるが、向こうに、ある」


 住居の中の柱は、寝床から三歩のところに立っていた。三歩。それは、半月前のバアにとっては、何でもない距離だった。半月前のバアは、住居の入口の柱に額をつけて、肩で息をしながら、それでも自分の足で立っていた。今のバアは、寝床から三歩を、歩けない。


「煎じ薬を口元まで運びます」


 ソウは言った。

 ソウは小鉢を取り、バアの口の高さまで運んだ。バアは口を半分だけ開け、二口、飲んだ。三口目を飲もうとして、また咳が来た。咳は短かったが、二つ続いた。続いた咳のあと、バアは目を閉じた。

 ソウは小鉢を寝床の脇に戻し、バアの胸の動きが、また平らになるまで、待った。

 平らになるのに、半刻がかかった。



 昼、空き地の焚き火の脇で、ソウはカナと並んで座っていた。

 カナは、粥の鉢を膝に置いて、半分だけ食べていた。残りの半分は、住居の奥に運ぶための分だった。バアの分。バアが食べられない時のために、カナは半分残す癖がついていた。


「バアの咳、深くなったね」


 カナは、粥の表面を匙で一度なでてから、低く言った。


「煎じ薬が、効く時間が、短くなった」


 ソウは答えた。


「飲んだ直後は、楽そうにする。だが、半刻もすると、また、胸の奥から、重い咳が出る」


 カナは頷いた。頷いた頭は、少しの間、上がらなかった。


「ばあちゃん」


 カナは小さく言った。


「ばあちゃん、最近、わたしの顔、見て、笑わない時がある」


 カナは続けた。


「前は、わたしが粥を持っていくと、必ず、目で笑ってくれた。声を出さなくても、目で。今は——目を、開けてない時がある」


 ソウは答えなかった。

 答えなかったが、自分の指で、膝の毛皮の縁を、一度なぞった。


「粥を、運んで、戻してくる」


 カナは立ち上がった。立ち上がってから、ソウの方を見て、もう一言だけ言った。


「ソウ。バアに——薬草、効くよね」


 カナの目には、答えを聞きたい光と、答えを聞きたくない光が、半分ずつあった。

 ソウは、迷った。迷ったが、嘘は置かないと決めた。


「効くものは、効く。効かなくなるものも、ある。バアは——自分のことを、自分で、よく、知っている」


 ソウは答えた。

 カナは小さく頷いた。頷いた頭が、ほんの少しだけ、下がった。下がったまま、カナは粥の鉢を持って、住居の奥の方へ歩いていった。

 歩いていく背中を、ソウはしばらく見ていた。



 夕方、リアが見張り台の足場から降りてきて、空き地の焚き火の脇に座った。

 座ったリアの腰には、ガランから渡された革袋が結ばれていた。半月の間、リアはその袋を一度も外していなかった。袋の革の縁は、すでに、リアの腰の動きに馴染んで、わずかにくたびれ始めていた。

 リアはしばらく、火を見ていた。

 火を見ながら、低く言った。


「ばあちゃんの咳。今朝より、深い」


 リアの声は、ぽつりと出た。出てから、リアはソウの方を見ずに、もう一言だけ続けた。


「夕方の方が、朝より、悪い。毎日、そうだ」


 ソウは頷いた。


「薬を、増やしている。だが、効く時間が、短い」


「そうか」


 リアはそれだけ言って、また火の方を見た。

 火を見ているリアの頬の輪郭を、ソウは横目で見た。リアは、半月の間、軽口を一度も置かなかった。置かない代わりに、毎日、夕方の見張りの交代が終わってから、ソウの脇に来て、バアの咳の様子を、ぽつりと、一言だけ伝えていた。


 その一言の中に、リアが「ばあちゃん」と呼んだのは、今日が初めてではなかった。

 粘土壁の補修跡の脇で、何年か前にも、リアは一度だけ、そう呼んだことがあった。

 ソウはその時の声を、覚えていた。


 今日のリアの「ばあちゃん」は、その時の声と、似ていた。違うところもあった。違うのは、声の中に、戻らない場所の影が、少しだけ、混じっていることだった。



 夜、ソウはまた住居の奥に入った。

 寝床の脇に膝を折ると、バアは目を閉じていた。胸は、浅く動いていた。動いているのは、確かだった。


「バア」


 ソウは低く呼んだ。

 バアは目を開けなかった。だが、瞼の縁が、わずかに動いた。聞こえている、という形の動きだった。


「薬を、置いていきます。明日の朝に、また、来ます」


 ソウは小鉢を寝床の脇に置いた。

 置いてから、バアの掌に、一度触れた。バアの掌は、いつもより、低い温度だった。低かったが、まだ、温かさは、残っていた。残っていることが、ソウには分かった。分かったが、その温かさが、明日も同じ温度で残っているかは、分からなかった。

 立ち上がろうとして、バアの口が、わずかに動いた。


「ソウや」


 バアは、目を閉じたまま、低く言った。


「もう、薬草の効く頃合いは、過ぎたかも、しれんねえ」


 バアの声は、薄かった。薄かったが、迷っていなかった。

 ソウは、寝床の脇で、もう一度膝を折った。折った膝の上に、両の掌を置いた。掌の中には、何も握っていなかった。


「俺は——」


 ソウは口を開いた。

 開いてから、続きの言葉が、出なかった。

 バアは、目を閉じたまま、口の端をわずかに動かした。動いた口の端は、笑った形だった。


「いいよ」


 バアは言った。


「いいよ、ソウや」


 それだけ言って、バアの口の端の動きが、止まった。止まってから、バアは浅く、長く、息を吐いた。



 住居の外に出て、ソウは空き地の中央の焚き火の脇に立った。

 夜の空には、夏の星が、薄く出ていた。


 焚き火の脇には、まだ、リアが座っていた。リアは火を見ていたが、ソウが住居から出てくる音には気づいていた。気づいていたが、振り向かなかった。

 ソウはリアの隣に立って、火を見た。

 しばらく、二人とも何も言わなかった。

 言わない時間の中で、ソウは思った。バアの体が、確かに、終わりに向かっている。それは、半月前から、頭の中では分かっていたことだった。だが、頭の中で分かっていたことと、今夜のバアの「いいよ」の声は、別の場所にあった。

 別の場所にあるということが、ソウには、初めて分かった。


 焚き火が一度、爆ぜた。

 爆ぜた音の脇で、リアが小さく言った。


「明日も、行く」


 リアは火の方を見たまま、続けた。


「毎日、行こう」


 ソウは頷いた。

 頷いた首の動きを、リアは見ていなかった。だが、見ていなくても、伝わっていることが、ソウには分かった。

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