第42話「ナギの部族」
バアの言った七日目に温かい風が吹いた。
吹いたのは朝のうちだった。風は南からゆっくりと丘の上を撫で、北の林の方へ抜けていった。雪原の上に張っていた薄い氷が、その風の通り道で、音を立てて割れた。
昼前には、空き地の南側の雪が、踏むとぐずりと崩れる柔らかさになった。
ガランは焚き火の脇で立ち上がり、空の南側を、長く見ていた。
「七日だな」
ガランは誰にも言わなかった。
*
その昼過ぎだった。
南の見張り台に立っていたヒガが、丘の下の方を指差して声を上げた。
「来るぞ」
ヒガの声は警戒の声でも怯えの声でもなかったが、いつもの声でもなかった。
空き地にいた者が、それぞれ手を止めた。ソウは粘土壁の補修跡を確認していた手を下ろし、リアは弓の弦を張り直していた手を弦から離した。テツは脇に立て掛けてあった石斧の柄を、軽く握り直した。
ガランが、空き地の中央に立った。
「何人だ」
「五人。痩せておる。武器は持っておるが構えていない」
ヒガは見張り台の上から、続けて言った。
「先頭は年嵩の男。後ろの一人は子供だ」
*
現れた男は丘の下からゆっくりと登ってきた。
四十代の半ば過ぎだろう。頬は痩せ、痩せているだけではなくそげていた。皮の下の骨の形が頬の輪郭の代わりになっている。背はガランよりやや低く、革の防寒具は肩のあたりが擦り切れていた。腰には短い槍を提げていたが、男はそれを抜こうとはしなかった。
男の後ろに四人が続いた。一人は同じくらいの年の男で目の下に深い隈があり、一人は若い女で両手で布の包みを抱えていた。一人は十代の少年で頬が赤く唇が乾いており、一人は十歳に届かないほどの子供だった。子供の手は若い女の腰の革に握り込まれている。
五人とも皆、痩せていた。
冬を越せなかった顔だった。
先頭の男は、空き地の手前で一度足を止めた。
止めてから、後ろの四人を軽く振り返り、頷いた。それからガランの方へ向き直り、もう一歩前に出た。
「私は、ナギ」
男は言った。声は低く、掠れていたが、芯は保たれていた。
「東の谷の向こうの族の長だ。族民は、もとは十二人。冬を越して五人残った」
ナギはそれだけ言って、口を結んだ。
言ったあとで、ナギの目が後ろの子供を一度確かめ、それから、ガランの方に戻った。
ガランは答えなかった。
答える代わりに、ナギの後ろの四人を順番に見た。子供の手の握り方を見て、若い女の抱えた包みの位置を見て、十代の少年の唇を見て、年嵩の男の目の下の隈を見た。
全部見終わってから、ガランは口を開いた。
「ここで待て」
*
ガランがソウを住居の脇に呼んだ。
離れた場所だった。空き地のナギたちには、声が届かない場所だった。
ガランはソウの顔を見て、低い声で言った。
「お前の判断を聞く」
ソウは息を吸った。
ナギの一族の姿が、頭の中でまだ残っていた。子供の手の握り込み方。若い女の包みの抱え方。
「食料を求めに来ています」
ソウはそう言った。
「武器は持っているが抜かなかった。族民を後ろに置いている。あの位置は、戦いの位置ではありません」
「それは、わしも見た」
ガランは頷いた。
「で、どうする」
ソウは考えた。
備蓄の壺は半分どころか、底の方に薄く広がるだけになっていた。あと七日もたない、とナツが言った。だが種袋は別だった。種袋は、奥の乾いた場所に吊るしてあり、そこに手をつけてはいけない。畑に蒔く粒だ。
ソウは口を開いた。
「今ある粒の半分を出しましょう」
「半分か」
「半分です。ただし、ただ渡すのではありません」
ガランはソウの顔を見た。
*
ソウはガランの脇から、ナギの前に出た。
ナギの背は、近くで見るとソウよりやや高かったが、目の高さは、ソウの目と同じくらいに落ちていた。
「俺は、ソウ」
ソウは自分の名を先に言った。
「粒を分ける。だが、ただでは分けない」
ナギの目がわずかに動いたが、口は結んだままだった。
「交換しよう」
ソウは続けた。
「食料と引き換えに、二つ欲しいものがある。一つはお前たちの知っている、良い猟場の場所。一つは——」
ソウは息を一度整えた。
「人手を」
ナギは答えなかったが、肩がわずかに動いた。動いてから、ナギは後ろを振り返り、四人を長く見た。
若い女が、子供の手を握り直した。
十代の少年が、唇を舐めた。
年嵩の男は、ナギの背中を見ていた。
ナギは向き直った。
「人手とは何だ」
ナギは聞いた。
「畑を耕す手だ」
ソウは答えた。
「お前たちがここで暮らすことを認める、という意味だ。冬を越せたのは、ここに家があったからだ。畑があったからだ。次の冬まで、ここで共に作る。それが人手だ」
ナギはもう一度、後ろを振り返った。
今度は年嵩の男が、わずかに頷いた。若い女も子供の手を握ったまま頷き、十代の少年はナギの目を見つめ返した。
ナギはガランの方へ向き直った。
「あんたが、長か」
「わしが長だ」
「あんたの若いのが決めるのか」
「わしが聞いた」
ガランは低く答えた。
「だが、決めるのはわしだ。——いいか」
ガランの最後の一言はソウに向けられていた。
ソウは頷いた。
ガランは、ナギの方に向き直った。
向き直った時のガランの背は、いつもよりわずかに高かった。低い声で話す時のガランの首は普段、軽く前に落ちている。今は落ちていなかった。
「決まりだ。猟場と人手と引き換えに、粒を分ける。冬の間、ここの家を使え。次の冬までは共に、種を蒔き、刈る」
ナギはその場で、深く頭を下げた。
誇りを保ったままの頭の下げ方だった。下げたあとで、ナギはゆっくりと頭を上げた。上げた目は、潤んでいなかった。
「分かった」
ナギはそれだけ言った。
後ろの四人が、ナギに続いて頭を下げた。子供だけは母親の腰の革を握ったまま、頭は下げなかった。だが母親の腰の高さに合わせて、子供の頭も自然に下がっていた。
*
ナツが住居の奥から、粒を入れる革袋を運んできた。
袋の中の粒を、別の袋に半分移した。移しながら、ナツは自分の指を一度口の前に当て、すぐに外した。
ナギの一族は、空き地の脇でその作業を見ていた。
子供だけが、空き地の中央の焚き火の方を見ていた。火を見ているのではなく、火の脇に置いてあった粥の鉢を見ていた。
カナがその視線に気づいた。
カナは粥の鉢を持って、子供の前にしゃがんだ。
「食べる?」
カナは言った。
子供は母親の方を見上げた。母親は軽く頷いた。子供は両手で鉢を受け取り、口をつけてから、子供の目から水がこぼれた。泣き声は立てなかった。
*
夜、空き地の焚き火の周りに、二十八人が座っていた。
ガランは火の脇で、しばらく何も言わなかった。それからソウの方を軽く見て、火に視線を戻した。
「お前が、最初の年に言ったな」
ガランは低く言った。
「土に種を埋める、と」
ソウは答えなかった。答える必要がなかった。
「あの時、わしは聞いた。何のためかと」
ガランは続けた。
「お前は食べ物を作る、と言った」
火が一度ぱちりと鳴った。鳴った音の余韻が消えるのを、ガランは待った。
「今日、その意味が分かった」
ガランはナギの一族の方を見なかった。火を見ていた。
「食べ物は——力だ」
ガランはそれだけ、言った。
言ったあとで、もう何も続けなかった。
ソウは自分の膝の上で、両手を軽く組んでいた。
組んだ手の中で、指の先がわずかに温かかった。
前世で読んだ本の中に、あった気がする。交易が文明を加速させる、とある書き手が書いていた。書き手の名前も本の題も、ソウはもう思い出せない。だが、その一行の意味が、今、目の前で起きていた。
粒と猟場と人手が、交換された。
交換された結果、ガラの丘には、五人増えた。
二十三人で定住し、冬を越した。
二十八人で、次の春の種を蒔く。
*
夜の遅く、ソウは住居の外に立った。
南の風は、まだ止んでいなかった。雪解けの匂いが、空気の中に残っていた。
住居の屋根の煙は、五本のままだった。ナギの一族は、空き地の脇のガランの古小屋にまとめて入っており、古小屋の屋根の隙間から、薄い煙が新しく立ち上がっていた。家ではなく小屋だったが、屋根があり、火があった。それで足りた。
ソウはその煙を、しばらく見ていた。
定住で冬を越した。
越したあとに、交易が来た。
来てしまえば、それはもうガラの丘の暮らしの一部だった。粒と猟場と人手が交換できることを、丘の上の二十八人はもう知ってしまった。一度知ったことは、忘れる前に暮らしの形を変えていく。古小屋の屋根の薄い煙は、その最初の形だった。
二十八人で蒔く。
ソウは口の中で、そう呟いた。呟いた声は、誰にも届かなかった。届かなかったが、ソウの足元の方角に、煙はわずかに靡いていた。




