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転生先は夜明け前 ―石器時代から文明を拓く―  作者: 夜摩 高嶺
第一部 播種の章

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第41話「春の予感」

 雪が軒先から落ちた。

 昼過ぎだった。住居の屋根の端に積もっていた塊が自分の重みに耐えきれずにずり落ちた。落ちた音は思っていたより、柔らかかった。

 ソウは住居の脇でその音を聞いた。

 地面に落ちた雪の塊はすでに少し溶けていた。


 風の匂いが変わっていた。

 冬のあいだ、風は乾いていた。鼻の奥がひりつくほど、乾いていた。今日の風は、その乾きがわずかに緩んでいた。土の匂いが、奥の方に混じっていた。

 ソウは丘の北側を見上げた。雪原はまだ、白いままだった。だが、白の表面に、灰色の斑が、所々、浮いていた。



 バアが住居の入口に立っていた。

 毛皮を肩に巻き、片手を入口の柱に添え、外の空を眺めていた。背筋はいつもより少しだけ、丸かった。

 ソウは近づいて、バアの脇に立った。

「外、寒いです」

「分かっておるよ」

 バアは振り向かずに言った。

「だがな。風が変わった」

 バアは細く息を吐いた。吐いた息はまだ白い。だが、白さの幅が、冬の盛りより、明らかに狭い。

「あと七日で温かい風が吹くよ」

 バアはそれだけ言った。

 言ったあとで軽く咳をした。

 咳は、一つでは終わらなかった。二つ三つと続いてバアは入口の柱に軽く額をつけた。額をつけた姿勢のまま、肩で息をした。

 ソウは、バアの背に手を添えなかった。添えれば、バアが嫌がる気がした。


 咳が収まった。

 バアは柱から額を離し、振り向いた。

「七日じゃ」

 もう一度同じことを言った。

「覚えておけ」



 バアの言葉をソウはガランに伝えた。

 ガランは焚き火の脇で薪を割っていた手を一度止め、ソウの顔を見た。それから、薪の方に視線を戻した。

「七日か」

 ガランは、薪をもう一度割った。

「なら、種を、出す」

 判断はそれだけだった。


 翌朝、ガランは住居の奥から、種袋を出してきた。冬のあいだ、奥の乾いた場所に吊るしてあった袋だった。袋を膝の上で開き、中の粒を掌に少し取って確かめた。

 粒は乾いていた。指で擦っても、潰れなかった。

 ガランは粒を袋に戻し、袋の口を結び直した。

「あと何日で蒔ける」

 ガランはソウに聞いた。

 ソウは丘の北側を見て、それから南側を見た。

「土が緩むまで十日。畝を切るのに二日」

「十二日だな」

 ガランは頷いてから、種袋を自分の脇に置いた。



 備蓄の壺の蓋をナツが開けた。

 粒は、壺の底の方に薄く広がっていた。冬の半ばに『半分はまだある』と言ったガランの声をソウは思い出した。半分はもうなかった。

 ナツは粒の量を目で測った。それから、自分の指を、壺の縁に一度当てた。

「あと、何日かな」

 ナツは独り言のように呟いた。

 脇にいたトウカが首を傾げた。

「七日もたないかもしれない」

 ナツは答えた。それから、すぐに付け足した。

「でも、もつ。狩りもある」

 付け足した声の方が、最初の声より、少しだけ、高かった。


 ゴウザは、その朝も、丘を出た。

 革袋を腰に縛り、槍を担いで北の林の方へ歩いていった。雪は踏むと表面で薄く崩れた。冬の盛りの音もなく沈んでいく雪とは違っていた。



 昼、リアがソウの脇に来た。

 ソウは住居の壁の補修した粘土の場所を指で軽く撫でていた。草の繊維が、粘土の中で白く透けて見えていた。剥がれはまだ出ていなかった。

「もつな」

 リアが、後ろから、言った。

 ソウは振り向いた。

「もった」

「次の冬も、これでいいか」

「いい」

 リアは粘土の壁に、自分の指を一度当ててから、すぐに離した。指の腹に白い粉が薄くついた。リアはその指を、自分の腰の革の脇で軽く拭った。

「お前の言うことはたいてい、当たる」

 リアはそう言って、それから、すぐに付け足した。

「たいてい、だぞ」

 ソウは、口の端を少しだけ、動かした。リアはそれを見たかどうか、分からない振りをして、住居の脇から、離れていった。歩く方向は薪小屋の方だった。


 数歩進んで、リアは足を止めた。

 止めた背中のまま、振り向かずにもう一つ言った。

「バアの咳。今朝より、深い」

 言ってから、リアはまた歩き出した。

 ソウは、リアの背中をしばらく見ていた。



 夕方、バアの咳はまた聞こえた。

 昼過ぎに住居の入口に立っていた時の咳より、深かった。胸の奥から、押し出されるような咳だった。バアは寝床に半身で起き、毛皮の下で肩を上下させていた。

 ソウは陶器の鉢に湯を入れ、薬草の根を、少し混ぜた。湯気が、鉢の上で薄く立った。

 バアは鉢を受け取って両手で包んだまま、しばらく口をつけなかった。

「七日と言ったがな」

 バアは低く言った。

「七日後の風が吹いた時、わしは、それを嗅げるかのう」

 ソウは答えなかった。

 答える言葉が見つからなかった。

 バアは鉢に口をつけ、一口飲んだ。それから、ソウの顔を見た。

「冗談じゃ」

 バアは笑った。

 笑った口の端から、また、咳がこぼれた。



 夜、ソウは住居の中で寝床に座っていた。

 外では風が、屋根の草を軽く、撫でていた。冬のあいだの屋根を叩きつける風とは違っていた。

 ソウは考えていた。

 最初の冬、族民は移動した。寒さの強い土地から、少しでも風の弱い場所へ、毛皮と燻製肉を担いで歩いた。歩いた者の中の何人かは、途中で動けなくなった。動けなくなった者は雪の上に残された。残されたあとのことをソウは聞いていない。

 今年の冬、族民は移動しなかった。

 粘土の壁の中で火を絶やさず、粥を煮て薬草を煎じ、咳をする者には湯気を当て、吹雪の日には革幕を閉めた。閉めた革幕の中で、誰かが苛立ち、誰かがそれを諫めた。諫めても、諫めなくても、朝には、革幕がまた開いた。

 二十三人。

 最初の冬から、最後の冬まで二十三人でここにいた。


 移動しないことが定住の意味だとソウは前世で読んだ気がする。

 だがここで聞こえたのは違うことだった。

 移動しなくても、人は減ることがある。減らずに済んだだけのことが、こんなに大きな出来事になる。


 壁がある。屋根がある。壺がある。窯は今、雪に埋もれているが覆いをどければ、また焚ける。バアはまだいる。バアが薬草を煎じる方法をソウは三日かけて聞いた。聞いた知識は、ソウの頭の中に入っている。入っているが、全部は入っていない。


 初めての冬を移動せずに越えた。

 これが定住の意味だ。

 ソウは、口の中でもう一度、その言葉を噛んだ。噛んでも、味はしなかった。味はしなかったが固さがあった。手で触れる固さに似ていた。



 ソウは住居の革幕を少し開け、外を見た。

 空には薄い雲がゆっくりと流れていた。雲の隙間から、冬のあいだは見えなかった星が、二つ三つ覗いていた。

 風の匂いの中の土の匂いは夜になっても、消えていなかった。

 バアはもう一度咳をしていた。寝床の方からの音だった。


 春が来る。

 ソウは、口の中でそう呟いた。

 呟いてから、すぐにもう一つの声が、頭の中で続いた。


 春が来る。だが——


 ソウは革幕を閉めた。

 閉めた革幕の外で、雪がもう一つ、軒先から、ずり落ちた。

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