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転生先は夜明け前 ―石器時代から文明を拓く―  作者: 夜摩 高嶺
第一部 播種の章

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第40話「悪くない冬だ」

 バアは七日目に起き上がった。


 寝床の上で半身を起こし、毛皮を肩に巻き直して、入口の革幕の隙間から外の雪を見た。

「だいぶ、明るくなったのう」

 バアはそれだけ言って、また少し横になった。

 十日目には薪小屋の脇まで歩いて、乾いた薬草の束を自分で並べ直した。並べ直しているあいだ、何度か手を止めて、息を整えた。

 動けるようにはなったが、起き上がる前のバアと、起き上がったあとのバアは同じではなかった。


 咳の頻度は、薬草を煎じる前より確かに増えており、歩く速度も少しだけ遅くなっていた。手の中の薬草の束を持つ時間が、以前より短くなっていた。


 ソウはそれを口にしなかった。

 バア自身が口にしなかったからだ。



 冬の半ばが過ぎた。


 備蓄の壺の蓋をガランが開けて中を覗き込んだ。

 粒は壺の中で入れた時のままの色をしており、湿気もなく、鼠の跡もない。蓋を閉めた時に、隙間を粘土で塞いだのが効いていた。

 ガランは中を覗いてから蓋を戻し、もう一度、粘土で隙間を埋め直した。

「半分はまだある」

 ガランは振り返らずにそれだけ言った。

「春までは、もつ」


 ソウは頷いた。

 去年の冬、族民は、数えるたびに減っていく燻製肉と、底の見え始めた革袋の中の粒を、毎日確かめていた。確かめるたびに、誰かの顔が暗くなった。

 今年は誰も毎日は確かめない。確かめなくても、壺の中にある。

 ある、と分かっていることが、暮らしの形を変えていた。



 狩りも続いていた。


 冬場の獣は少なく、動きも鈍く、痩せている。それでもゴウザは、三日に一度は何かを担いで戻ってきた。

 ある日は痩せた小鹿、ある日は罠にかかった野兎が二羽、ある日は雪の上を彷徨っていた、老いた雌の獣。

 ゴウザは戻るたびに、空き地の脇で皮を剥ぎ、肉を切り分けた。手の動きはいつもの通り、無駄がなかった。

 ダイとヒガが脇についた。テツはゴウザの切り分け方を、横で見ていた。

 誰もゴウザに「ありがとう」とは言わなかった。だが肉が分けられて、それぞれの住居に運ばれていく時、ゴウザの脇を通る者は皆一度ずつ、ゴウザの背中の方を見た。



 夜、空き地の中央の焚き火の周りに何人かが集まった。


 ガランがいた。テツがいた。リアもいた。ナツが煮た肉と粥の鉢を、火の脇に置いた。

 ゴウザが少し離れた場所に座っており、膝の上に剥ぎ終えたばかりの皮を、たたんで載せていた。

 話す者はいなかった。

 火が時々弾ける音だけが、聞こえていた。


 ゴウザが鉢の一つを引き寄せた。

 粥だった。バアの薬草の葉が少しだけ入っている。

 ゴウザは木の匙で、一口口に運んだ。噛む音はしなかった。粥は噛むほどの硬さはない。

 ゴウザはもう一口口に運んでから、しばらく火を見ていた。


「……悪くない、冬だ」


 ゴウザは低く言った。


 誰もすぐには返さなかった。


 ゴウザは鉢の縁に自分の指を一度当ててから、また火の方を見た。

 言ったあとで、付け足すような言葉はなかった。


 ガランは火を見ていた。テツも火を見ていた。リアは自分の鉢の中の粥を、匙でゆっくりとかき混ぜていた。匙はいつもより、長く回り続けた。

 ナツが粥の鉢を持ったまま二度瞬きをし、それから、自分の鉢を見た。

 誰もゴウザの方を見なかった。

 だが空き地にいた全員が、ゴウザの言葉を聞いていた。


 ガランがようやく口を開いた。

 ガランの口から出たのは言葉ではなく、一度深く息を吐いただけだった。吐いた息が、火の上で白く揺れて消えた。

 言葉にしなかったことが、ガランの返事だった。



 ソウは焚き火の縁から少し離れた場所に座っていた。


 最初の春、種を蒔いた畑の前で、ゴウザは笑った。

「土に種を埋める。それで食えるようになると本気で思っているのか」

 あの笑い方を、ソウは覚えていた。


 収穫の年、第二畑に立った穂を見て、ゴウザは何も言わなくなった。

 その次の年、ゴウザは自分の手で鎌を取った。誰にも頼まれずに、最初の畝の前に立った。

 冬の前、グラムについてゴウザは長く語った。語った内容は嘲笑ではなく、守る側の顔だった。

 そして今夜。

「悪くない、冬だ」

 ゴウザはそう言った。


 ソウは自分の膝の上で、右の拳を小さく握った。

 握った拳を誰にも見せず、火の手前にも出さなかった。膝の毛皮の下に、握ったまま留めた。

 声にも出さなかった。

 声を出せば、ゴウザの言葉の重さが軽くなる気がした。


 火がまた一度弾けた。

 粥の湯気が、火の上をまっすぐに昇っていった。



 反対側の住居の方から、カナが粥の鉢を両手で抱えて歩いてきた。


 カナは焚き火の周りをひと回りして、ナツの脇を通り、テツの脇を通り、ガランの脇を通り、それぞれの鉢に、自分が抱えてきた鉢から少しずつ粥を足した。


「みんな」


 カナは火の脇に立って両手の鉢を軽く傾けた。


「温かいね」


 カナは笑った。

 ゴウザの脇を通る時も、カナは同じ仕草で、ゴウザの鉢に粥を足した。ゴウザはカナの方を見て、軽く頷いた。それだけだった。


 カナは焚き火の前に戻ってきて、自分の革袋からもう一握りの薪を取り出して、火の脇に置いた。


「春が来るよ」


 カナは言った。


「もうすぐ」


 カナの「春が楽しみだね」は、覚えている者が何人もいた。

 最初の石鍬を見て、最初の畑が芽吹いた時、最初の祭りで貝殻の首飾りを巡らせた時。カナは何度も同じ調子で、春を口にしていた。

 今夜のカナの「春が来るよ」は、その続きの一つだったが、誰も聞き流さなかった。


 ソウは膝の上の拳をほどき、その手を火の方へ軽くかざした。掌の腹が、少しだけ温まった。


 リアが自分の匙をようやく止めた。

 止めた匙を鉢の縁に置いて、立ち上がった。

 立ち上がる時、リアの視線が一度ソウの方に流れ、すぐに逸れた。逸れたあとで、リアは何も言わずに、自分の住居の方へ歩いていった。

 歩き方は、いつもよりゆっくりだった。



 夜半、ソウは住居の外に出て丘の中央に立った。


 空き地の脇に、粒の壺が二つ並んでいた。蓋には新しい雪が薄く積もっていたが、隙間の粘土は剥がれていなかった。

 水運搬用の首の細い壺は、入口の脇に置かれていた。

 窯は今夜は焚いておらず、覆いの上は、雪に埋もれていた。

 住居の屋根からは、五本の煙がそれぞれ細く上がっていた。


 備蓄はぎりぎりもちそうだった。

 春まではまだひと月以上ある。

 風はもう一度来るだろう。雪ももう一度来るだろう。

 だが、住居はある。壺はある。陶器はある。煮炊きの煙は絶えない。バアはまだいる。


 ソウは北の空を見上げた。

 雲が東へゆっくりと流れていた。


「春が——」


 ソウは口の中だけで呟いた。

 続きは声にしなかった。

 声にしなくても、丘の住居の中の二十三人が、それぞれの形で同じ言葉を待っていた。


 ゴウザの「悪くない、冬だ」は、ゴウザ一人の言葉ではなかった。

 最初の春の嘲笑からここまでの三年。誰かが種を蒔き、誰かが鎌を打ち、誰かが粒を運び、誰かが粘土を捏ね、誰かが薬草を語った。それぞれの場所で、それぞれの手が動いた。動いた手の総和の最後の一滴が、ゴウザの口からこぼれただけだった。


 春はまだ来ていなかった。

 だが春を待てる場所に、ガラの丘は立っていた。

 ソウは丘を一度だけ振り返り、それから、自分の住居の方へ歩き出した。

 住居の屋根の煙が、ソウの足元の方角へ、わずかに靡いていた。

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